7 友人

「……花蓮、本当に大丈夫?」


 ひどく心配げな初音に、私はもう笑う気力もなく首を横に振って答えた。昨日一日中玲音の視線にさらされ続けて、私の精神は大きく摩耗していて。

 それなのに――それだから、夢の中にさえも玲音は登場して、「どうして悠里と付き合っていることを教えてくれなかったんだよ」と憎悪を込めた声で私に叫んできた。

 何度も何度も、私は夢の中で玲音の言葉を否定した。

 違う。私は悠里と付き合ってなんかいない。私が好きなのは玲音だよ。私は、玲音が好きなの――


 でも夢の中の玲音も、私の言葉に耳を傾けてくれることはなくて。


 去っていく玲音の背中に伸ばした手は届かず、そして私は、そこで目を覚ました。

 初夏の朝。悪夢にうなされた私は全身汗でぐっしょり濡れていて、けれどそれ以上に心が悲鳴を上げていた。

 怖かった。きっと今日も、玲音は私のことをにらんでくる。私が「玲音が男が好きなこと」を言いふらしはしないかと監視をしてくる。私の言動を、見張ってくる。


 私はいつまで耐えればいいのだろう?あるいは、私はきちんと告白して、玲音の思い違いを否定するべきなのだろうか。

 玲音が、好きだと。

 でも、私の思いはかなわないんだってわかっている。私が好きな玲音は、悠里のことが好きで。私に振り向いてくれることはない。

 告白の勇気が持てずにここまでずるずると来てしまった私が、振られるとわかっているのに告白のための勇気を手にすることができるはずもなくて。

 私は問題を先送りにして、重い足取りで学校に来たのだ。

 そして今日も、私は玲音に監視されていて。

 さすがに私と玲音の関係が良好でないと悟ったらしい初音が勇ましく玲音に何かを言いに行こうとした。


「やめて!」


 私はあわてて、教室中に響くほどの制止の声を上げた。玲音を困らせないで、これ以上状況をおかしくするのはやめて、大丈夫だから、私が傷つけばいいだけだから、私が、悠里に近づかなければ状況は解決するはずだから。

 周囲の目が、私に集まっていた。

 袖を握った先で、初音が瞳を揺らす。正義感に燃えていたその瞳は、困惑の色に染まっていた。


 私はたぶん、相当参った顔をしているのだろう。友人にそんな顔をさせてしまうなんて、私は初音の友人失格だ。


「大丈夫、だから……ね?」


 胸が張り裂けそうだった。今にも目じりから涙が零れ落ちてしまいそうで、私は必死に唇をかみしめてうなだれ、ささやく。

 大丈夫だから、大丈夫。私はそう、何度も自分に言い聞かせる。


「……………わかった」


 まったく納得いってなさげな声で、けれどひとまずは玲音を責めるのをやめようと、初音はそう告げて。それから、ぽん、と私の頭に手を置いた。

 ぬくもりが、私の心にしみわたる。このタイミングでそんなことをするなんて、卑怯だ。


 私は必死で涙をこらえ続けて、それからわずかに顔を上げて垂れ下がった前髪の間から玲音のことを盗み見た。


 玲音の机には、誰もいなかった。

 ただ、きれいに並べられた一限の教科書とノートが机の上に置かれているだけ。そこに、玲音はいなかった。視線をさまよわせても、教室の中に玲音の姿は見当たらない。


「花蓮、いるかな?」


 玲音がいなくなっていたことに困惑する私を呼ぶ声が聞こえた。それは、私にとって今最も聞きたくない人の声だった。

 大事な友人の、幼馴染の声。


「ごめん!」


 私に向かって片手をあげていた悠里の脇を、走り向ける。

 予鈴のチャイムが鳴った。

 でも、今は悠里と一緒にいてはいけない。

 悠里と仲良さげに話すなんて、決してしてはいけないんだ。

 だって、それを玲音が見たら、彼は今度こそ、私と絶交してしまうだろうから。

 そして、深く、深く心に傷を負った玲音は、私の前から姿を消してしまうだろう。


 私は、制止の声を振り切って教室から逃げた。

 悠里の脇をすり抜けて扉から出る際、反対の扉から入ってこようとする玲音の姿が見えた気がした。


 ああ、悠里から、教室から逃げて正解だった。






「えっと、おはよう、久世くん」


 ぽかんと口を開けて花蓮の姿を見送るばかりだった久世悠里くんが、我に返ったように私のほうへと視線を向ける。ずり落ちていた銀色のメタリックな眼鏡を持ち上げて、彼は私に笑いかけた。

 今日も相変わらずきれいな男だった。


「ああ、おはよう。花蓮は……手洗いかな?」


「そんなわけないよ。久世くん、意外とデリカシーないね?」


 場を和ませるようにはっはっは、と笑う久世くんを見ながらも、わたしの心によぎるのは親友の花蓮のことだった。

 ここ最近、明らかに花蓮の様子がおかしい。

 何かにおびえるように体を縮こまらせていて、そして彼女が逃げるように背を向けている相手は、花蓮が好きなはずの坂東くんだった。――それに気づいたのも、昨日ベッドに入ってからだったのだけれど。

 坂東玲音。わたしはたぶん、このクラスで坂東くんと花蓮に次いで、坂東くんのことを知っている。口を開けば玲音が、玲音が、と繰り返す花蓮から、坂東くんの話を暗記してしまうほど聞いた。

 花蓮が好きな坂東くんのことは、花蓮が知るそのすべてをわたしも知っていて。だから、そんな花蓮に対して悪魔を見るような視線を向ける玲音くんのことが理解できなかった。


 あれだけあなたのことを好きな花蓮に対して、どうしてそんなひどい視線を向けられるの?一体、何があったの?

 そう尋ねようと歩き出したわたしを、花蓮が袖をつかんで止めてきた。普段は声を荒らげることのない花蓮の叫びを聞いて、わたしは何の覚悟もなしに踏み込んでいいことではないと悟った。

 ただの痴情のもつれじゃない。もっとどろどろとした人間関係が、花蓮と坂東くんの間に渦巻いていた。

 そして、久世くんに声をかけられて花蓮が「ごめん」と言って逃げたことから、花蓮と坂東くんの関係に、久世くんも関わっているのだと感じられた。直接的にか間接的にかは知らないが、久世くんは二人のおかしな状況にかかわっている。

 だからわたしは、苦笑を浮かべていた自分の表情を引き締めて、まっすぐに久世くんを見据えた。

 予鈴が鳴る。その音は、けれどわたしの声をかき消すほどではなくて。


「ねぇ、花蓮と坂東くんに何があったのか知らない?」


「さぁ?っと、それじゃあ、僕は教室に戻るよ。途中で見かけたら花蓮にも声をかけておくね」


 わたしの真剣な声が聞こえなかったように、久世くんは軽く肩をすくめて、逃げるようにわたしの前から去っていった。ああ、嫌な奴だ。その微笑をたたえた仮面が気持ち悪い。


「あ」


 扉を出ていくところで、久世くんは教室後方側の扉のほうを向いて声を上げた。

 そこには渦中の人物である坂東くんの姿があった。


 久世くんと坂東くんの視線がぶつかり、そして。

 久世くんはわずかに目じりを下げて意味深に坂東くんに笑いかけて、そのまま教室から去っていった。


「……?」


 くしゃりと顔をしかめて自席に向かう坂東くんを見ながら、わたしは頭の中で考える。


 ねぇ、花蓮、一体何があったの?


 朝のホームルームが始まって、けれどそこには一つ、持ち主のいない席があった。

 そこに座っているはずの親友のことを思いながら、わたしは一時間目の準備を始めた。


 結局、花蓮は一時間目が始まるギリギリのところで教室に戻ってきて、ちょっと腹痛で、と言い訳をしていた――って花蓮、女の子が教室の前で小声であっても「腹痛で」なんて言い訳はどうなの?

 担任の先生も花蓮がすでに学校に来ていたことは持ち物やわたしの証言から把握していて、その顔色を見て大丈夫か一言確認をして教室から出て行った。


 まっすぐに自席へ向かう花蓮が視線を動かし、わたしと目が合って。

 花蓮はふにゃりと、泣き笑いのような顔を一瞬浮かべて、私から顔を隠すように席に座った。


 ねぇ、花蓮。何があったの?

 わたしの心の中での問いかけに、当然花蓮が答えてくれることはなかった。

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