8 錯綜
気が付けば日々は過ぎていき、一学期の期末テストが近づいていた。
試験週間に入り、私は玲音のことから意識をそらすためにも、我武者羅に机に向かっていた。考えないようにしようとすればするほどに教科書の文字列を視線は滑っていき、玲音のことばかりが思い浮かんだ。
こんな状態じゃだめだと、私は問題集を開いて手を動かす。数字が踊り、ノートの紙面が黒く埋まっていく。
がり、とシャーペンが紙を突き破る。
気が付けば力を籠めすぎた手から血の気が引き、白くなってしまっていた。
「………はぁ」
もう何度目になるかわからないため息を吐いて、私は目頭をもみほぐした。
試験結果は、まあまあだった。あれだけ頭を悩ませていた玲音のことも、いざ問題用紙に向かえばきれいさっぱり頭から消え去って。テストが終わって現実に意識が舞い戻った私は、自分の淡白さがひどく気持ち悪く思えた。あまり試験勉強に身が入らない状況ではあったけれど、普段から部活動にも入らず、習い事やバイトをしているわけもなくて、暇を飽かしてなんとなく教科書を開いたりしていた私の積み立てはそれなりにあったみたいだった。ちなみに、スマホに熱中していて~ということはない。初音には時代に乗り遅れているよ、なんて言われているけれど、見ず知らずの人のSNSなんて読み漁って、いったい何が楽しいのかがわからない。私にとって、スマホは勉強の敵ではなかった。
クラス二位、学年で十三位。前回の順位が九位であったことを思えば少し下がっているけれど、まあ上出来じゃないだろうか。
そうして試験を乗り越えれば私は否応なしに現実へと引き戻される。目をそらす対処を失った私は、再び苦痛の道を歩き始める――と、思っていた。
けれど私の予想とは違って、玲音が私のことをにらむことはなくなった。後から話を聞いたところ、初音が玲音に何か言ったらしいけれど、今の私がその事実を知ることはなかった。
居心地の悪い視線にさらされることなく、けれど失恋によってヒビの入った私の心はいつまでもじくじくと痛み続けていた。
でも、その痛みを私は甘んじて受け入れないといけない。これは、私への罰なのだ。玲音から逃げて、告白だってできなくて、そして玲音にひどい誤解をさせてしまった私への罰。
私はそうして、変わらない日々を送って、けれど。
「ちょっと、いい?」
新たな風が、私の生活に吹いた。
初音と話をしていた私は、声をかけられたほうへと顔を向けた。そこには、クラスメイトの鬼頭さんがいた。
鬼頭澪さん。セミロングの髪を後頭部でまとめた、色白で細身の女の子。けれど彼女は陸上部のエースであり、短距離走ではまるで飛ぶように軽やかにレーンを走り抜ける……らしい。私は体育で陸上を選択していないし、練習風景や大会を見たわけでもないので噂を聞いたことしかない。
日に焼けないなよっとした見た目を気にしているらしい鬼頭さんと私は、特に接点はなかった。ただのクラスメイトでしかない私ではなく交友関係の広い初音に声をかけてきたのだろうと、そう思って。
けれど鬼頭さんは、初音ではなく私のほうをじっと見ていた。
「天野、来て」
無表情でぶっきらぼうに告げる鬼頭さんが、私の返事を聞くこともなく教室の出口へと歩き出す。その後姿を半ば放心して目で追っていた私は、振り向いた彼女が厳しい視線を向けてきて我に返った。
心配そうな初音に一言詫びて、私は彼女の後を追って廊下に出た。
今は三限の授業が終わってすぐ。四限目を控えている生徒たちは一部の者がお手洗いに向かっている程度で、廊下にはあまり生徒の姿はなかった。
十分しかない休憩時間も、すでに三分が過ぎていて。時間はかからないのか、お手洗いとは反対のほうへと進んでいった鬼頭さんは、人気のない階段前で立ち止まった。
「ねぇ、坂東が部活に来てないの、知ってる?」
開口早々に告げられた言葉に、私はガンと頭を殴られたような衝撃を感じた。
玲音が、部活に行っていない。試験週間において部活動は大会前である一部例外の場合を除いて禁止されているが、今はすでに試験週間明け。三日前から解禁されたはずの陸上部の活動に、玲音が行っていないという事実を、私は知らなかった。
どうして、玲音は陸上部に出席していないのだろう?その答えはわからなくて、けれど目の前で鋭い視線を私に向ける鬼頭さんは、玲音が部活に来ない原因が私にあると判断しているようだった。
「ううん、知らない。玲音、部活に行ってないの?」
「そうよ。もう二日無断欠席。何か知ってるでしょ?」
断定的な口調に、私はひどいのどの渇きを覚えた。疑いの、視線。私に突き刺さるそれが、私の心を揺さぶる。
私に原因がある、のだろうか。わからない。わからないけれど、まったく原因がないとも言い難くて。私は少し迷って、それから「わからない」と答えた。
「そんなはずないでしょ。坂東にあんな目をさせたあんたが、知らないはずがないでしょ!」
今にもつかみかかりそうな怒気を放つ鬼頭さんは、玲音の異常な姿を見ていたらしかった。私に疑いの、あるいは嫌悪の視線を向けて監視をする玲音のことを、鬼頭さんは見ていた。
脳裏に思い浮かぶ、狂気すら感じる玲音の姿。あの様子は、試験勉強程度で頭から離れるようなものではなかった。そして、試験勉強というモラトリアムを経て、玲音の行動は大きな変容を見せたのだ。その原因が私にあると鬼頭さんが考えたのは、ひどく自然なことに思えた。
「玲音は何か言ってなかったの?」
「聞いても話してくれなかったのよ。だからあんたが話しなさいよ!彼に何をしたのよ⁉」
目に涙すらにじませて、鬼頭さんがヒステリックに叫ぶ。いつだって淡々としている様子だった彼女が声を荒らげる姿なんて、そんな冷たいところがいい、と言っていた一部の男子をさらに熱狂的にさせてしまうんじゃないだろうか。
そんなしょうもないことを考えていたことに気づいたのか、鬼頭さんはついに私の襟へとその両手を伸ばして、そして。
「おーう、さっさと教室向かえよー」
私たちの次の授業の教科担任の長身痩躯の男が、だらしない猫背で私たちに声をかけて歩き去っていった。喧嘩になりかけている生徒たちを前に、その対応はどうなのだろうか。
わずかに毒気を抜かれたらしい鬼頭さんは私へと伸ばしていた両手を所在なさげに下ろし、私のことをぎろりとにらんだ。
「……いい?これ以上坂東に何かしたら、絶対に許さないから」
これ以上なんて、絶対にないよ。
その言葉は、けれど私の口から言葉となって出ることはなかった。
私はたぶん、視界に映っているだけで玲音を傷つけている。玲音の傷を広げている。そんな予感があった。
だって、私がそうだから。玲音のことを見るたびに失恋の感情が呼び起され、嫌われた痛みが心を引き裂きそうになって、玲音の前からすぐにでも逃げ出したくなる。玲音より席が前の私は、きっと今日も、授業中に玲音から見られていたはずで。そんな状況で、まともに勉強に集中できるはずがなかった。
私が教室に戻ったのとほぼ同時にチャイムが鳴って授業が始まった。
私は、前の授業で使った開きっぱなしだったノートを見下ろす。
見開き両ページには、何も書かれてはいなくて、ただ真っ白な紙面をさらしていた。
すべてなかったことになればいいのに。
玲音に嫌われたことも、告白も、玲音を好きなこの思いも。
そうすれば、私はきっと救われる。
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