9 級友

 私は、玲音に部活を休んでいる理由を聞くことはできなかった。玲音に私が話しかけるだけで彼が傷つくのではないかと思えばとてもじゃないけれど話を聞きに行く一歩が踏み出せなくて。そして、それほどまでに玲音に嫌われていることを思うたびに、私の心は痛んだ。

 そうして日々は過ぎていき、玲音が部活に出席しないまま夏休みが来た。


 部活に入っていない私だけれど、高校というものは夏休みでも学校に足を運ぶことが多いものらしかった。まだ一年生だし他の高校のことなどほとんど知らないけれど、この学校では夏休み明けに控えている文化祭の準備のために夏休み中も学校に出向く必要があった。

 文化祭、とひとくくりに言っても、その実態は体育祭と文化祭を組み合わせた行事だった。全五日、すなわち一週間からなる文化祭は、一日目が体育の部と名前の付いた体育祭、二日目が文化祭準備、そして三日目から五日目の午前までが文化の部という正式名称を持つ文化祭となる。

 公立の高校でこれほど長く文化祭を行っているところは珍しいのではないだろうか。

 そんなわけで、私が所属しているクラスも、約三日間にわたる文化祭のために夏休み中もシフトが組まれていて、私も学校に足を運ばざるを得なかった。


 うだるような暑さの中、私は必死に足を進めた。

 それほど遠くない高校とはいえ、歩いて登校するにはやや距離があった。こんなことなら自転車通学にしておけばよかったと思ったけれど、制服で自転車に乗りたくないし、何より雨の中自転車で登校するというのは遠慮したい。うまくバスの路線がつながっているわけでもないので、私の登校手段は徒歩一択だった。

 降り注ぐ日差しに熱される私の脳は、オーバーヒートしそうなほどに玲音のことばかりを考えていた。

 どうすれば玲音は私に告白をする前のような生活に戻ることができるだろうか。

 どうすれば、私に嫌悪の目を向けなくなるだろうか。

 昔のように、私と玲音が一緒にいられる日々は、戻ってこないのだろうか――


 昔になど戻れないなんてわかっている。関係は変わるし、価値観も変わる。周囲の環境一つ変われば私と玲音の間の溝が埋まるなんて、そんなことは少しも考えられなかった。

 私と玲音の間に広がる溝は、気づけば底なしの奈落になっていた。


 それでも、昔のように少しだけ口の端を釣り上げて不敵に笑っている玲音が、見たかった。

 一直線に前を向いて、輝いている玲音のことが見たかった。

 そのために、私は何ができるだろうか?やっぱり、私が玲音に関わらないことが一番だろうか?


 考えに耽っているうちにも私の体は慣れた通学路を進んでいき、自然と目の前に学校の門が見えてくる。

 小さく息を吐いて、胸の中にわだかまる感情を吐き出す。


 踏み出す足取りは今にも歩を止めてしまいそうなほど重く、けれど私は確かな一歩を踏み出した。


「おはよう」


 少し砂っぽい音とともに扉を開いた私の先には、すでに数名のクラスメイトの姿があった。女子一人に、男子二人。三人とも、私はあまり接点のない生徒だ。というか、私は初音以外のクラスメイトとあまり話していない。というのも、入学からしばらくした5月くらいに女子に人気な悠里と二人きりで話しているところを見られてから、女子たちからは遠のきにされていた。男子はまるで腫物に触るように、極力私と接触することを避けているみたいだった。みたい、というのは私には男子が何を考えているかよくわからないからだ。

 誰が可愛いとか、誰と付き合いたいとか、そんなことばかり。それを言えば女子グループでも同じような話題が展開されていて、つまりは私がクラスメイトたちに話が合わせられないだけだった。

 まあ、別に学校は学業のために通う場所だから友人が少なくともいいと私は思っている。初音という親友――と呼んでいいかはよくわからないけれど少なくとも仲のいい友人――がいて、それなりに勉強もできて、それで十分。


 だから、扉を開いた私に鋭い視線を向けてきた女子たちのことが理解できなかった。


「……はよ」


 腰まで届きそうな長い黒髪を後ろで一つに結んだ文学少女風な女子が、律儀にも私にぼそりと挨拶を返した。小声であるのに、そこにはひどくとげとげしい響きがこもっていて。

 私はおなかの中からこみ上げようとする何かを、必死に口の奥へと押し込んだ。


「これで全員」


「あ、ああ。そうだな。それじゃ、少し早いけど始めるか」


 クラスの文化祭実行委員に立候補をしていた男子生徒が、私と文学少女の間で視線をうろうろさせてから、隣の男子のほうを向いて準備作業の開始を宣言した。


 どうにも空気が悪かったけれど、集中して行うべき作業であったことがせめてもの救いだった。


 気づけばすでに時計の短針は二時間ほど先へと回っていて、私は凝り固まった肩をくるりと回した。首をひねればぱきぱきと小さな音がした。


 私のクラスの文化祭での出し物は、デイドリームワールドというものである。白昼夢、という名前の由来は、出し物のテーマであるトリックアートにある。まるで白昼夢に入り込んでしまったような不思議な空間、という意味らしい。

 私が作っていたのは、一見ただの家具だけれど、よく見れば顔が浮かんで見える呪いの家具の作製だった。トリックアートで呪いの家具とはどういうつながりなのだろうとは思ったが、正直そこまで面倒でもなかったのが幸いだった。

 大変な作業は棚の作製だけで、時間がかかるのは絵を塗る作業。

 呪いの絵、なんて無理強いをされた時にはどうしたものかと考えたが、要はシミュラクラ現象で人の顔に見えればいいのだろう。三点模様を人は人間の顔と認識してしまう、というあれだ。

 まあ、興が乗ってしまって一つどころかいくつも点を書いてしまって、木目調の板から無数の節の瞳がこちらを見つめているような状況になりつつあるのはご愛敬だ。どうやら私には絵の才能があったらしい。

 まあ怖いし、要求されたことを満たしているからいいのだ。出し物の案を出さず、反論をすることなく唯々諾々と受け入れた私は、ただ命じられた作業を粛々とこなした。


 確認のために、色塗り途中だった組み立て前の板を置いて私は数歩後退する。遠くから眺めたそれは、節の絵が少し小さすぎるせいか、あまり目のようには見えなかった。というか、もはや木目にも見えなかった。ヒョウ柄みたいなまだら模様の板を見て、私は修正を余儀なくされた。

 前言撤回。私に美術のセンスはあまりないらしかった。まあ、これまで最も私と付き合ってきた私自身が、そんなことは一番よく知っているのだけれど。


 ちらりと隣を見れば、男子二人は大きな布にアクリル絵の具で絵を描いているところだった。無数の図形が並んだ幾何学模様。確かトリックアートの中にだまし絵があったからそれだろうか。そちらを見ながらゆっくり動けば、黒い棒がぐらぐらと揺れたように見えた。私とは違って、彼らには才能があるらしい。


「……サボり?」


 ぼそり、と私にしか聞こえないほど小さな声で、文学少女が私に毒を吐いてきた。ついさっきまで私が一心不乱に絵をかいていたのが彼女には見えなかったのだろうか。多分見ていなかったのだ。そして今の一瞬だけを切り取って、私の行動を見とがめてきたのだ。

 なんというか、ずいぶんバイアスがかかっているように思う。よほど私のことが嫌いじゃない限り、普通は今の状況を見れば遠くから見た絵の印象を確認しているように見えるはずだ。


 男子に聞こえないような声量で告げる彼女に返事を返す気も起きなくて、私は再び作業に戻った。


「返事もしないとか、印象悪」


 印象が悪いのはあなただ、とそう言ってやりたかった。けれど言うだけ無駄な気がして、そしてこれ以上人間関係の厄介ごとを抱え込みたくなくて、私は彼女の罵倒を無視して再び筆をとって板に向き直った。


 今の私は、他のことには一切意識が向かない新進気鋭の画家だ――

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