10 悪意
今日の私のシフトは午前中だけ。クラスメイト全員が一度に教室に集まっても作業場所が足りなくて非効率的だし、予定がある人も多いので平日午前と午後でシフトが決められており、私の今日の作業は時計が十二時を示したところで終わりになった。
鞄を肩から提げ、私は更衣室の方へと向かう。制服を汚さないために着替えていた体操服だけれど、登下校の際は制服を着なければならないという校則があり、下校のために体操服から制服に着替えなおす必要があった。
運動部の生徒などはいちいち家から制服を着てきて荷物が増えるためにあまり好印象を抱いていない校則だが、今のところこれが変わることはなさそうだった。電車通学の生徒も多く、電車での移動の際に学生であることが一目でわかるように、そして常に自校の生徒であるという自覚を身に着けるためだ、という学校側の言い分を覆すだけの反論はなかった。
鞄の中にしまっていた制服は、適当に詰め込んでいたためかややしわができてしまっていた。
私は小さくため息を吐いて、制服へと袖を通す。
登校時の汗でべったりとした制服はひどく気持ちが悪かった。
軽く髪を縛れば、多少は首元に風が当たって涼しさが感じられた。といっても、それもほんのわずかなもの。
相変わらず――というか登校時よりも厳しさを増した太陽の光に熱されながら、私は校舎を出て校門へと向かおうとして。
ふと、何気なく足を止めて、グラウンドの方を見た。
そこでは、もう昼であるにも関わらず練習に精を出す陸上部の面々が見えた。陸上部、と私が一目で判断できたのは、ユニフォームなどを着ておらず、何よりその集団の中に陸上部員の鬼頭さんの姿を見つけたからだった。
髪を跳ねさせながら軽やかにグラウンドを駆ける鬼頭さんは、なぜだかひどく妖艶に見えた。汗のせいで照りのある肌、頬には暑さのせいか赤みがさしていて、引き締まった顔に不思議な色香を生み出していた。短パンから延びるすらりとした足は美しい筋肉をしており、地面を踏みしめるたびにふくらはぎがきゅっと動いて――私は何を考えているんだろう?
暑さでおかしくなっているらしい私は、気づけば玲音の姿を探していた。色とりどり、好みの練習着に身を通した生徒たちの中から、たった一人の姿を探す。男子の中でも背が高い方で、すでに百八十近いはずの玲音は、けれどどう探しても見つけられなかった。
今日もまた、玲音は部活に参加していないらしい。玲音はこのまま、陸上部を退部してしまうのだろうか?そしたら、その退部は私のせいということになるのだろうか?
降り注ぐ太陽が陰った気がした。音が遠のき、視界が白む。白昼夢、という言葉が脳裏をよぎる。さっきその単語を思い浮かべたせいだろうか。
まるで水の中のようにぼんやりとした音が周囲を流れていく。蝉の鳴き声、規律のあるリズム、地面を蹴る音、どこからか響く話し声。私の心を映したように視界が薄暗くなり、そして。
ばしゃりと、何かが私に降り注いだ。
音が戻る。クスクスという、意地の悪そうな笑い声。
視界の中、真っ白なシャツに雑多な色が混じった水がしみ込んでいく。赤と青と黄色と緑とオレンジと――混ざりあったそれらは、醜悪な色となって私の体を染めていた。
顔を上げる。太陽の光が強くなる。
頭上にあった渡り廊下に、人影は見当たらなかった。
流し場に向かうのが面倒で、こんな場所に水を捨てたんだ。そう言い聞かせる。
けれど、耳の奥で響き続ける声が、あざけるような笑い声が、私自身の考えを否定する。
――わざとだ。
そんな確信があった。
声の主は複数。私に絵の具交じりの液体を浴びせたのは、まず間違いなくクラスメイト。
すでに十二時半近くになったことを、両脇の校舎をつなぐ二階の渡り廊下にぶら下がった時計が示していた。
午後のメンバーが集まり始める時間帯。
今日の作業メンバーのことを思い出そうとして、やめた。
ひどく、どうでもよかった。
もう、どうでもいい。
彼女たちが何を思って私にこんなことをしたのか、考えるだけ疲れる。
彼女たちが私の何を気に食わないと思ったのか、考えたくもない。
だって、その答えはすぐに出てしまうから。
考えたくないのに、私の頭はすぐに答えを導き出してしまっていた。
玲音に私が何かをしたから。
何か、なんてあいまいな状況で。けれどひそかに女子に人気があった――長身でルックスもよくて陸上部のエースなど人気にならないわけがない――玲音を傷つけたという大義名分が、彼女たちに行動させたのだ。
私に、罰を与えなければならないと。
脳裏によぎる鬼頭さんが、あの文学少女が、私をにらむ。
その口から、言葉にするのもおぞましい悪意が漏れる。
視線を、再びグラウンドの方へと向ける。
気が付けば陸上部の面々は走るのをやめたらしく、私の視界に映るグラウンドの一部からは姿を消していた。
今、鬼頭さんがどういう顔をしているか、少しだけ気になった。
「わっ、どうしたの?なんで濡れて……って、これ、は」
聞き覚えのある声が、するりと私の耳に飛び込んでくる。まるで図ったようなタイミングで現れたのは、悠里。私と玲音の、幼馴染。
制服姿で書類の束を両手で抱えている悠里は、生徒会の仕事中みたいだった。こんな暑い中、きっと毎日学校に来て文化祭の準備なんかを進めているのだろう。
大変な悠里に心配させてしまうなんてだめだ。言葉尻がかすれていった悠里が書類を放り出して動こうとする前に、私は走り出した。
「ちょ、ちょっと、花蓮⁉」
今、足を止めちゃだめだ。今立ち止まったら、きっと私は、悠里に甘えてしまう。悠里の優しさに甘え切ってしまう。そんな状況を、人づてであっても玲音に知られたらと思えば、私は立ち止まるなんてできなかった。
それに何より、今走るのをやめてしまったら、胸の中で暴れる感情が、あふれ出してしまいそうだった。
傷ついた私の心は、これ以上の苦行なんて耐えられそうになかった。
だから今日だけは、今だけは、私のことを見逃して、私に気を使わないでよ、悠里。じゃないと私は――
そう、思っているのに。
私なんて比べ物にならないほどの運動能力を発揮した悠里が、私の腕をつかんだ。
「離して!」
「離さないよ。だって、今の君を一人になんてしておけないから」
ひょろひょろしていると思っていた。多少背は伸びたけれど相変わらずやせっぽちで、肌の色は白くて、女の子みたいな悠里。けれどその手のひらは意外と大きくて、骨ばっていて、何より女子とは比較にならない力で、悠里は私の体をつなぎとめた。
「痛い!」
「ああ、ごめん」
少しすまなそうに眉を下げた悠里が、私の腕から手を放す。逃げようとは、思わなかった。
けれど私は悠里の方を見ることもできなくて、ただ彼に背を向けてうつむいていた。視界が、ひどくにじんでいた。
「どうして?」
どうして、私を心配するの?どうして、私を放っておいてくれないの?
私たちは、かつて幼馴染だった、今では時々話すだけの他人じゃないの?私たちは、よく言っても友達くらいじゃないの?ねぇ、ただの友達だった、ここで私のことを見逃してくれたっていいでしょ?今くらい、私のことを放っておいてくれても――
「花蓮だからだよ」
やめて。そんなこと言わないで。
「花蓮が傷ついているんだから、放っておくなんてできないよ」
いいの、放っておいてよ。玲音をひどく傷つけた私に、どうして悠里がそんな優しい声をかけるの?
ねぇ、私のことはいいから、玲音に声をかけてあげてよ。玲音のことを励ましてあげてよ。玲音の告白を、ちゃんと聞いてあげてよ。
悠里だけが、悠里ただ一人が、玲音を救えるんだよ。
なのに、どうして悠里はここにいるの。どうして悠里は、私にそんなことを言うの……?
「放って、おいてよ」
震える声。こらえきれなかった涙が、頬を濡らした。
嫌だ。泣いちゃダメだ。だって、辛いのは玲音だ。私に泣く権利なんてない。私が痛い以上に、玲音は痛みを感じているんだ。私以上に、苦しんでいるんだ。だから、私が泣くなんて――
ふわりと、腕に触れる感触。
ぬくもりが、夏の暑さのただなかで冷え切った私の体に、浸透していく。
暑くて、冷たくて、温かくて。
私を抱きしめた悠里の熱が、私の体に、私の心に広がっていく。
ねぇ、どうして。どうしてそんなことをするの。悠里の制服まで汚れちゃうよ。悠里は、私のこと――
だめだ。それだけは、だめだ。
ただの私の思い違いかもしれない。実際は、私なんてただの古なじみかもしれない。
だから、だからこそ、私はそんなことを、ほんの少しでも考えちゃだめだ。
「…………もう、大丈夫」
「いや、その恰好では帰れないでしょ?保健室に行けば体操服くらいあるし、生徒会室には予備の制服だってあるよ。だからとりあえず着替えないと。それに、鞄の中身も濡れちゃうよ」
「ううん。大丈夫。大丈夫だから、離して」
震えそうになる声に力を込めて、私は腕を上げる。私を抱きしめる悠里の手を、私から引きはがす。
後ろは向かない。振り向けば、泣き顔を見られてしまうから。これ以上、悠里に余計な心配をかけるわけにはいかない。私と悠里が抱き合っているところを他の誰かに見られないように、一刻も早く離れないといけない。一緒にいては、いけない。
「じゃあね」
私は、再び走り出す。
追って来ようとした気配はあったし、声を投げかけられもした。
けれど、誰にも見られていないことを祈る私は、悠里の言葉を聞く余裕はなくて。
無心で家まで全力疾走して、私は玄関でへたり込んだ。
「…………大丈夫、大丈夫。大丈夫だから」
呪いの言葉を繰り返す。私に向けて、玲音に向けて、悠里に向けて、悪意の牙をむいたクラスメイト達に向けて。
大丈夫、私は大丈夫だ。
空虚な言葉を口にするために、腕が触れていたところに熱が灯った。悠里の声が、言葉が、耳の奥で響いた。
大丈夫、大丈夫だよ、玲音。
――私はまだ、玲音が好きだ。
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