11 伝播
「ねぇ花蓮。本当に大丈夫?」
今日の文化祭準備では初音が一緒だった。いつもなら初音の存在はひどく心強いしうれしいけれど、今初音と会うのはひどく億劫だった。
初音はそんな子じゃないとわかっているのに。それなのに心配そうな表情で私の顔を覗き込む初音に、その顔の奥に、私は悪意を探してしまう。私に対する敵意が巧妙に隠されていないかと探ってしまう。友人にこんな視線を向けるなんて、私はやっぱり駄目な存在だ。
「うん。大丈夫だよ」
私自身も、この夏はだいぶやつれてしまっているように思う。鏡に映った私の顔は、頬が少しこけてしまっていて、血色が悪いせいか全体的に表情も暗く見える。体重が三キロ落ちたことは、女子として喜ぶべきことなのだろうが、今の私にはまったく喜べなかった。
多分、初音は私が汚水を浴びせられたことを誰かから聞いたのだろう。今までであれば「大丈夫」の一言を聞いて引き下がっていたのに、初音は相変わらず私の目をじっと見つめていた。
「少し休んだら?すごく顔色が悪いよ」
そんなことは自分でもわかっていた。でも、今休んだら、私に水を浴びせた子たちは私のことを笑うだろう。ざまあみろ、と。なんだかそれは、負けた気がした。別に勝敗を競っているわけでもないけれど、彼女たちみたいな人に屈するというのが嫌だった。
それとも、私が休めば玲音はクラスに顔を出すのだろうか。
文化祭準備のシフトに、玲音の名前は一つもなかった。多分、女子の文化祭実行委員が忖度してのことだろう。玲音が一回も参加する計画になっていないことに表立って文句を言うものは、男子の中にもただの一人もいなかった。
「あー、たるぅ」
「まったくだよねぇ。ほんと、サボり魔と違って頑張ってる私ら偉いわぁ」
ちらちらと、私に視線が向けられる。サボり魔、というのは私のことだろうか?言葉通り受け取れば、それは準備活動に一度も参加していない玲音のことを責めているようで、その実、玲音が来ない原因だと思われる私に対するあからさまな悪意が透けて見えた。
きっと、あの文学少女が、誤解の上に誇張を重ねて私の「サボり」とやらの話を女子たちの間にばらまいたのだろう。いかにも陰険そうだった彼女のことだ。きっと、女子たちの間で広まっている噂の中で、私はクラス活動に一切協力しないはみ出し者、あるいは進んで邪魔をする毒虫のような存在になっているのだろう。
私は、その悪意を無視して作業を続ける。悠里のことで反感を買った今年の五月初め、無視をすることが最も効果的な身を守る手段なのだと、私は身をもって実感していた。だから私は、お腹の中で暴れ狂う怒りの感情を沈めて筆を動かしていた、けれど。
「ちょっと、どうして花蓮の方を向きながらそんなことを言ってるのよ⁉」
私の隣で勢いよく立ち上がった花蓮が、悪口を言っていた女子たちへとそう叫んだ。
だめだ、それはだめだ。それは彼女たちをヒートアップさせてしまう悪手だ。だから止めようと手を伸ばした私の手のひらからすり抜けるように、初音はさらに一歩、彼女たちの方へと歩みを進める。
「ちょっと、何か言ったらどうなの⁉」
「……初音ってさぁ、天野と仲いいよな?」
「やめときなよ、そんな奴とつるんでるとあんたも悪魔に食われちまうぜ?なぁ?」
両手を広げて周囲に呼びかける彼女を見て、それから私の方を見て、傍観者に徹している男子と一部の女子は、すっと私から目をそらした。
「私の友達のことを悪く言わないでよ!それに、悪魔って何なのよ」
「悪魔は悪魔だろ。その悪魔が坂東に何かしたから、あいつは文化祭準備にも部活にも行ってないんだろ。そいつ以外、坂東がおかしくなった原因は考えられねぇんだよ」
なぁお前もわかるだろ、と彼女は初音に同意を求める。けれど、私は知っている。初音が、表裏のない性格をしていて、そして意外と正義感が強くて、自分の懐に入れた人を馬鹿にされるのが許せないことを。
「坂東くんが来ないのは何か事情があってのことでしょ。怪我をしたけど恰好悪いから言えないとか、そんなことじゃないの?それより、謝ってよ」
「謝るぅ?何にだ?」
「何にって……花蓮に、謝ってよ。ひどいこと言ってごめんなさい、って」
ぎゃはは、とひどく醜い笑い声が教室の中に広がった。誰もが黙って、彼女の次の言葉を待っていた。
ひとしきり笑った後、彼女は、彼女こそが悪魔のように思える表情で、笑った。
「ひどいこと言ってごめんなさいって、ガキかよ」
その目は、獲物を見つけた悪魔のように怪しく光り輝いていた。
誰も、初音を助けない。初音以外誰も、私をかばわない。
元からクラスで浮いていた私の味方になってくれる人なんて初音以外にはいなくて。
「もういいよ、初音。ほら、早く終わらせちゃおう?ね?」
怒り心頭といった様子だった初音をなだめて、私は彼女を作業に誘った。
逃げるのか、と笑っていた女子たちに、私はかける言葉を見つけられなかった。ただ、彼女たちの存在がひどく気持ち悪かった。
女子の団結力は、男子に比べて高い。特に、敵対者の排除という使命には、女子たちは一致団結してことに当たる。
だからそれは、ある意味で必然だった。
「…………あれ、お弁当がない」
二日後。再び午前中に文化祭準備のシフトが同じになっていた私と初音は、連絡を取り合って学校で一緒にお昼を食べることにしていた。だから十二時になって交代時間になって、私は初音と連れ立って空き教室へと足を運んでいた。――今の教室は、楽しくお昼ご飯を食べることができる雰囲気じゃなかったから。
「鞄に入れ忘れたんじゃない?」
「ううん。朝学校に来てから確認したから、ちゃんと持ってきてるよ。……教室で水分補給のために鞄を開けたときに落としてきちゃったのかも。ちょっととってくるね」
いうが早いか、初音は即座に立ち上がって、私に一言も許さないうちに教室から飛び出して行ってしまった。
初音の鞄が乗った反対の机を、なんとなく眺めること、およそ十分。
さすがに遅くないだろうかと心配になった私も初音の後を追うように教室を出て、そして。
階段脇の共用ゴミ箱の前に立ち尽くす初音の姿を見つけた。
嫌な予感がした。顔の見えない初音は、ひどく小さく肩を縮こませているようで。
その場所が、その状況が、嫌な予感を増幅させていく。
「どうしたの、はつ、ね……」
自分でも声が震えていくのが分かった。言葉なく立ち尽くした私の視界の先には、ご丁寧に蓋を開けて中身をゴミ箱の中にぶちまけられている桜色の弁当箱が視界に移った。見覚えがあった。それは、ほとんど毎日視界に収めてきた、初音の弁当箱で。
「……ひどいよね」
静まり返った、感情の色のうかがえない声が聞こえた。
私は初音に、なんと答えていいかわからなかった。
ただ、少し小さくなったその背に、言いしれない怒気がにじんでいる気がした。
「大丈夫?」
私は、かろうじてそんな言葉を絞り出して、そして。
「……大丈夫だよ」
初音が私の方に顔を向ける。髪に隠されていて見えなかった初音の顔が、私の視界に映る。
ゆがんだ笑みとともに、初音は確かに、そう告げた。
「そっか」
気の利いたことの一つも言えない私は、そう返事を返すことしかできなかった。ただ、その手を伸ばして初音の弁当箱をゴミ箱の中から拾い上げる。初音のお母さんの栄養や色合いに気を配った愛情いっぱいの手作り弁当は、もうどうにかなるようなものではなかった。
「行こっか」
歩き出した私の耳にもう一度、大丈夫だよ、という初音の声が聞こえた。
――大丈夫なんて言って、そう繰り返していて、本当に大丈夫なわけがないのに。そんなこと、私はよくわかっていて。
そうわかっていても、私は何も言うこともできず、汚れてしまった初音の弁当箱をティッシュできれいに拭いてあげるようなことしかできなかった。ああ、それから私の弁当の半分を、初音と分け合ったことくらいか。
それはいつもと変わらない弁当で、けれどひどく味のない食事だった。
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