12 邂逅
それから液体が降ってきた。陽光にさらされるそれは泥水のような濁った色をしていて、落ちた先にいた女子に降り注いだ。真っ白なブラウスが茶色く染みていく。
上を仰ぎ見た彼女の表情は遠くから見てもよくわからなくて、けれど身にまとっている空気はひどく暗かった。
部活動の掛け声、にぎやかな教室の方の会話が響く。そして、液体を降らせた渡り廊下から去っていく人影。
ただならぬことが起きていると、そう理解した。理解はしても、俺の足は一歩も前には進んでくれなかった。
部活を休み、クラスでも腫れ物に触るように真綿で包まれるような対応をされて、文化祭準備のシフトに入れられることもなかった。
それでも花蓮が俺のことを話しているのではないかなんて、そんな疑心暗鬼に駆られて隠れるように学校へとひそかに足を運んでいた俺は、偶然その光景を目にしたのだった。
グラウンドの方を見ていた花蓮が、汚い液体を浴びせられた。確信はなかったが、おそらくは意図的なものだと思った。そもそも、渡り廊下から水を捨てるなんて普通はあり得ないし、もしそんな横着をするのであれば周囲に誰もいないことを確認するはずだ。
つまり、ぬれねずみとなって呆然と立ち尽くす花蓮は、意地悪をされている。いじめ、かもしれない。
どうして、という思いが沸き起こる。
お前は、俺を嘲笑っていた側じゃないのかと、そう詰め寄って尋ねたかった。悠里と付き合っていることをわざわざ見せびらかして、俺のことを笑っていたんじゃないのかよ。
なぁ、お前は――
校舎の陰に隠れたまま、俺は一歩を踏み出せなくて、けれどそんな俺とは違って、悠里は花蓮のもとへと歩み寄った。汚れるのもいとわずにその体を抱きしめていた。
心臓が張り裂けそうだった。
怒りに狂いそうだった。
嫉妬で胸が張り裂けそうだった。
『誤解なの。私は、私たちは、そんな関係じゃないから――』
耳の奥で、必死な花蓮の声が響いた。
「ほら、誤解なんて嘘だろうが」
悠里がお前を抱きしめているんだよ。この光景を前に、誤解だなんて思えるかよ。確かに悠里は優しいけど、傷ついた異性を抱きしめるなんてことはしないはずだ。だから、なぁ、本当のことを言ったらどうだ?お前と悠里は、付き合ってるんだろ?
苦いものが口の中に広がった。気づけば強くかみしめていた唇から血がにじんでいて、口の中に広がっていた。
「くそが」
走り出した花蓮が、俺のすぐ目の前を通り過ぎていく。茶色いシミのついた制服で、駆け抜けていく。
その目は赤く充血していて、茶色い液体に交じって、確かに頬を涙が伝っていた。
「お前は――」
お前は、何を考えているんだ?お前は、何がしたいんだ?
そう呼びかけようにも、体は動かない。逃げる花蓮は、そのまま遠ざかっていく。
そう、花蓮は逃げていた。悠里から、逃げた。
その事実を頭が認識して、俺は少しだけ、花蓮の言葉が真実なんじゃないかと、そう思った。
二人は、付き合っていないんじゃないか。
悠里と俺が付き合う可能性は、まだあるんじゃないか。そう思えば心の中に歓喜と安堵が広がった。
花蓮が視界から消えた瞬間にそんなことを思うほど、俺はクズに成り下がっていた。
軽やかに飛び跳ねそうな俺の心は、けれど雷に打たれたように打ちのめされる。
花蓮を見送って立ち尽くす悠里の思いは、どこに向いている。まさか、俺に向いてるなんてことはないだろう。
だとすれば、悠里は花蓮のことが好きなんじゃないか?
――やっぱり俺は、狂っていた。
花蓮が消え、悠里が消えたそこで、俺は重い足取りで門に向かって歩き出す。
部活のことも文化祭のことも、俺の頭には思い浮かばなかった。頭の中は悠里と花蓮のことばかり。恋に狂い、疑心に狂った俺は、現実逃避をするしかなかった、のに。
「………玲、音?」
目の前に花蓮が立っていた。どこか暗い空気を漂わせる花蓮。時間があるからクズみたいな思考に陥ってしまうのだと考えた俺は、何も考えないようにバイトに励んでいて、その喫茶店にあろうことか花蓮がやってきた。
「………注文は?」
客に対する対応ではないとわかっていも、俺はそうぶっきらぼうに告げるしかなかった。それ以上の言葉を話せば、腹の底で渦巻く怒りが口からあふれそうだった。
花蓮は少し迷って、それからぼそりと「ブラックコーヒー」とだけ告げた。甘いものが好きだったはずの彼女のおかしな注文は、けれど少しも気にならなかった。代わりに俺は、どうして花蓮がこの店に来たのかを考えていた。
店の客に高校生はいなかったはずだ。だから高校生の友人経由で花蓮に情報が回った、というのは考えにくい。そもそも花蓮には数えるほどしか仲のいい友人はいないようだが。だとすると、一方的に俺のことを知っている誰かの親が店に来ていたのだろうか。あるいは、春香が伝えた?いや、春香にはこのことは話していないし、そもそもあいつは俺がバイトではなく学校に行っていると思っている。実際、制服を着て部活用の一式をもって家を出ているのだから、疑問に思うこともないはずだ。
じゃあ偶然か?偶然花蓮がこの店に訪れた?まさか、そんな運命みたいなことがあるはずないだろうに。
俺は内心で悶々としながら、コーヒー片手に夏季休暇中の課題を行い始めた花蓮を観察した。
相変わらず、一度机に向かうと花蓮は驚異の集中力を発揮する。それは例えば周囲の者が花蓮の名前を呼んでも気づかないほどだ。花蓮は「自分は普通だ」などと言っていたが、その集中力の高さを俺は尊敬していた。今でも尊敬は、たぶんしている。ちなみに花蓮は、地頭はともかく学校の成績に関しては悠里より上だ。
本人曰くなんとなく勉強していればテストも問題なく点数を取れるとのことらしいが――花蓮が友人とそう話しているのを中学時代に聞いた――、そもそも花蓮はかなり真面目に勉学に取り組んでいる方だ。
真面目に学問に向かう花蓮の横顔からは、俺に対するなんの感情もうかがえない。そのことが、ひどく腹立たしかった。
何を考えているのかわからない横顔は、ただプリントの文字を眺めていた。
花蓮が何を考えているのか、全くわからなかった。
けれど同時に、分かったこともある。それは、花蓮が俺の知らない花蓮になっているということだった。幼馴染で、何でも知っている花蓮は、そこにはいなかった。
飲めなかったはずのブラックコーヒーを平然と飲む花蓮。疲れたように目頭をもむ花蓮。かつてない速度で筆を走らせる花蓮。
そこには俺の知らない花蓮がいた。
そしてようやく、俺は気づいた。
俺は、花蓮を「幼馴染の花蓮」として見続けていたのだと。仲のいい友人だと思っていたから、悠里との仲を見せびらかすような行動をされて困惑したし、幼馴染に対してどうしてそんなことをするのかと激怒した。
けれど、どれだけかつて仲が良かったからと言って、今の俺と花蓮はほとんど赤の他人なのだ。せいぜい、同じ学校に通い続けている腐れ縁。
その程度の間柄の花蓮に、俺は幼馴染として、あるいは友人としての在り方を求め続けているのだと気づいた。
俺は、花蓮にとって路傍の石。俺にとっても、花蓮は路傍の石。
赤の他人。無関心でしかない、ただの存在。
――そう言い聞かせても、けれど俺の心は素直にいうことを聞かなかった。
カラン、と軽やかな音が店に響く。
新しい客が入ってくる。マスターが、俺に視線で接客を要求する。
俺は、胸の内に広がるわだかまりを飲み込んで、微笑を浮かべて来店者に対応した。
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