13 始業
長い夏が、終わった。
現実から逃げるように勉強を始めれば、私の心は紙面上の世界に逃げるように全身全霊を問題演習へと費やした。
喫茶店でバイトをしていた玲音に会うこともあった。正直驚いたし、制服は格好良かった。けれど、そんな玲音のことすらも、今の私は忘れ去って勉強に臨んだ。
そうしないと、心が壊れてしまいそうだったから。
針のむしろな教室。続くいやがらせ。巻き込んでしまった初音が浮かべる、困ったような微笑が、瞼の裏にへばりついて忘れられない。
逃げ出したかった。叫びだしたかった。すべてを忘れてしまいたかった。
私が何をしたの?私は、こんな悪意を向けられることをしたの?ただの誤解なのに。玲音を傷つける気だってなくて、ただめぐりあわせが悪くて結果的に玲音を傷つけるだけになってしまったのに、どうして私は、私たちはこんな目にあっているんだろう?
かつては無関係な傍観者であり、今では私を虐げる道を見出した悪女たちに対する怒り。
それだけが、私の心を学校生活につなぎとめていた。
始業式の日、まるで夏休み前と何ら変わらないように、玲音は教室に顔を出した。そのことに安堵する男子と違って、彼が現れるとともに女子たちの多くが私に刺すような視線を向けた。
玲音という「被害者」の存在が、加害者である私をいじめる正当性を補強する。
私を取り巻く悪意は、かげりを見せてはいなかった。
どれだけクラスの雰囲気が悪かろうと、クラスの女子どころか他の女子が私を敵意のにじむ目で見るようになったとしても、日々の生活が変わるわけではない。
私は変わらず学校に来て授業を受けていた。
変わったことといえば、初音と一緒にお昼ご飯を食べる場所が、教室ではなく学食になったことだろうか。クラスという牢獄から解放されるそのひと時は、私たちの中で数少ない学校での安息の場となっていた。
「それでね、お母さんが今すぐ行こうって言って、なんとその翌日から北海道で避暑をしてきてね――」
夏休み中の出来事を楽しそうに話す初音に相槌を返す。いやがらせのことなんて忘れたように、初音は元気いっぱいだった。その身振り手振りが空元気に見えたのは、私の目が曇っているからだろうか。
初音が語る夏休みとは違って、私は何も変わりのない約ひと月を過ごしていた。だからこそだろうか、初音の語る色鮮やかな世界を聞くだけで、私は心が洗われるような思いだった。モノクロの世界に色がさしたような、世界に光が戻ったような、そんな感覚があった。
きっと初音がいなければ、私はとっくに学校に来なくなっていただろう。すでに玲音に対する負い目だけでは耐えられないほどに苦痛は山となって私の心に積みあがっていて、けれどそれを一緒に支えてくれる初音がいるだけで、頑張ろうと思えた。
初音は、大丈夫だろうか。少しだけ他の女子とは違うところがあるように思う初音は、だからこそ私と馬が合った。けれど、そんな初音だから、彼女に対する嫌がらせは急激にエスカレートするんじゃないかなんて、ひやひやするのだ。
それに、初音は意外と、私に自分をさらさない。当たり障りのない話はしてくれるけれど、自分の価値観にかかわることなんかは、基本的に私に話してくれない。大事なことは私に内緒で抱え込むのが初音という女の子で、だから私は、彼女のことが心配だった。
最も、初音も同じかそれ以上に、私のことを心配してくれているのだろうけれど。
大切なことは口にせず、私と初音は当たり障りのない会話を続ける。
私たちは似た者同士だった。
「それで、ようやく私の担当の作業が終わったの。これでついに準備から解放されるんだよ」
「おめでとう。初音も自由獲得だね」
「本当だよ。長かったね」
夏休みの話題がひとしきり終われば、私たちの関心ごとは文化祭準備になる。教室での時間は苦痛だけれど、準備そのものが苦痛だというわけではない。ノってくればだまし絵――私のあの恐怖を誘う家具がだまし絵なのかどうかはさておき――を描くのは意外と面白い。なんというか、普通の美術の授業とは違って、自分の手で芸術が生まれていると思うとわくわくするのだ。これが、創作活動の楽しさというものなのかもしれない。
そんな作品作りもとうとう私と初音は終了させて、これで晴れて文化祭準備から解放されたというわけだった。後は準備の日に教室の配置なんかを行うだけ。自由を手にした私たちの心は軽かった。
「それでさ、実は前から気になってるスイーツのお店があったんだけど、よかったら今日にでも行かない?」
「いいよ。近いの?」
「駅二つ分。近いって言ってもいいんじゃない?」
「徒歩では無理な距離かぁ……まあ今日は特に用事もないしいっか」
「今日は、って花蓮ってばいつも平日はたいして用事ないじゃん。部活にも入ってないし、塾に行っているわけでも習い事をしているわけでもない。花の女子高生がそれでいいの?」
「別にいいでしょ。ひとくくりに女子高生だから、ってステレオタイプであれをやれこれをやれなんて言われたくないもの。それに、高校生の本分は勉強なんだから、私はおかしくないわよ」
「まあねぇ。あ、そうだ、花蓮。勉強教えて?」
上目遣いに覗き込みながら両手を合わせて懇願してくる初音に、私は仕方ないな、とため息とともにうなずいた。
「やり!じゃあ今週の土日でいいかな?」
「土日?両方使うの?」
「うん。せっかくだから私の家でお泊りなんてどうか、って。ねぇ、ダメ?」
「別にダメじゃないけど……」
うん、ダメじゃない。むしろすごく楽しみになってきた。友人の家にお泊り。昔玲音の家で雑魚寝したことはあるけれど、それっきりだ。好きな人の家で平然と寝られるなんて、当初の私はなんてすごかったのだろう。心臓に毛が生えていたんじゃないだろうか。――まあ、当時は別に玲音のことが好きだったわけでもないから当たり前なのだけれど。
それに、友人の家でお泊りってことはつまり、パジャマパーティーというやつだろうか?なんだかすごく女子高生っぽい気がする。
「パジャマパーティー、楽しみだね!」
私の考えを見透かしたように、初音がにっこりと笑って、立ち上がって片手を頭上へと突き出した。
周囲の視線が集まってきて、私が慌てて初音を席に座らせたのは言うまでもなかった。
二学期のはじめ、まるでこれからの英気を養うように私と初音は女子会、あるいはお泊り会、はたまたパジャマパーティーを開くことになった。
私の家から五駅ほどのところに、初音の家はあった。白い外装に赤い屋根のメルヘンチックな建物。少し凝った作りの玄関扉なんかが合わさって、童話の中に出てきそうな雰囲気をしていた。
初めて訪ねる初音の家に内心緊張しながら、私はいそいそと初音の家にお邪魔した。
木目の美しいフローリングに、白い壁、深い青緑の落ち着いた扉が目に優しい。今日は初音の両親は共に出張で帰ってこないということで、この家で二日間、私は初音と二人っきりで過ごすということだった。
まだ時間は午前十時。土曜の空いた電車に乗ってのんびり訪問した私は、適度な緊張感をもって初音の自室へと迎え入れられた。
「……なんというか、こう意外な感じかな」
「あはは。まあ、何を言いたいのかはわかるよ?」
案内された部屋を見た私の第一の感想に、初音は微苦笑を返した。
私の視界に映った部屋は、想定していたファンシーなピンクや黄色が中心の空間――ではなく、白と黒で構成されたシックな一室だった。黒い作業用といったシンプルなデスクと、涼し気な革張りのオフィスチェア。黒と白のベッドに、やっぱり黒い棚が白い壁紙の中で存在感を主張していた。中央にはガラス天板の黒い金属製の足のローテーブルと、その下には黒地に白い雪の結晶型の模様が入ったカーペット。それだけだと殺風景かもしれないが、部屋の隅に置かれた観葉植物が適度に堅苦しさを緩和してくれていた。
ただ一言で表現するならば、それはどこかの家具屋の販売している一式を買ってきたような感じで、そして。
「……なんか、意識高い系の大人の女性の部屋、って言えばいい?」
「うん、言われると思ったよ」
そんななんとも言えない言葉を、私は初音に告げるのだった。少なくとも目の前に広がる部屋は花の女子高生が~と言っている初音の部屋には見えなかった。
「まあ、意外性があっていいと思うよ?」
「意外って……わたしってそんな子どもっぽいって思われてるの?」
「いや、なんというか、少し天然が入っているというか……だからこう、変な置物が置いてあったり、巨大な人形がいたり、とかそんな部屋を想像してたんだけど」
「うん。そういう花蓮の部屋が楽しみになってきたよ。あー、たぶんかわいらしい淡いピンクのベッドで、ふわふわな人形なんかが乗っていて、あっさりした木の勉強机があって、そこに思い出の写真なんかが貼られていて、そうだね、本棚なんかにはかわいい系の小物が並べてあるんじゃないかな」
まるで見てきたように告げる初音に、私は視線を逸らすしかなかった。とりあえず、帰ったら写真は隠しておこうと思う。玲音とのツーショットを毎日目に入る場所に飾ってあることがばれるなんて恥ずかしすぎる。……いや、今はその前にごちゃっと勉強道具なんかを置いていて写真は見えないような状態だったかもしれない。だとすると、少し掃除が必要だろうか。
そんな考えに耽っていた私に「ベッドにでも座って」と案内して、初音は飲み物を取ってくるといって部屋を出ていった。
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