14 休息

 勉強をして、たわいもない話で盛り上がって、ゲームをして。

 楽しい時はあっという間に過ぎていった。まるで現実から目をそらすように、私と初音は全力で今を過ごした。

 今ここは、私たちにとっての楽園だった。苦痛のない、救いの世界。

 けれどその時は確実に進んでいき、確かな終わりが進んでくる。

 その事実から目をそらすように、私たちは笑いあう。


「花蓮、狭くない?」


「んー、大丈夫」


 ちゃぽん、と水滴が水面を揺らす。湯気の中で、私は体の中に蟠る様々な思いを吐き出した。天井を見上げる。湯気に曇った光に目を細める。

 初音の家の浴室で、私はぼんやりと湯船に浸る。お湯の熱が、私の体に巣食った凝りを取り除いてくれるようだった。あるいは、初音との時間のおかげでリラックスできているからか、私はすがすがしい解放感と、小さな恐怖を覚えていた。

 恐怖をかき消すように水をすくい、顔を濡らす。


 じんわりと顔にしみこむ熱が、私の顔のこわばりをほぐしていく。ここ最近ひどく顔に力が入っていたことを、弛緩した顔の筋肉の疲労が伝えてきていた。


 浴室の外では相変わらず初音がごそごそと何かをしていた。客用のバスタオルでも用意してくれているのだろうか――


「いやっほう!」


「…………へ?」


 間抜けな声が私の口から零れ落ちる。だが、そんなことよりも、私は勢いよく扉をあけ放って浴室に入ってきた少女の姿に釘付けになっていた。

 あでやかな肢体をさらす人物は、いうまでもなく私の友人の初音で。程よく筋肉のついた手足、すらりと細い腰に適度なふくらみ、色香のあるピンク色は私の心を揺さぶる。照れのためかわずかに頬を染め片手を当てた初音は色っぽく微笑む。水気のある口が、ゆっくりと開き――


「来ちゃった」


「…………はぁ」


 脱力した私は、髪が湯船に入るのも気にせずに鼻先までお湯の中に沈めた。

 私に背をさらす初音が楽し気に鼻歌を歌う。体を流れる白い泡が、煽情的だった。私は、女だ。初音も女だ。こんなのおかし――


「――おかしい?」


「ん?何か言った?」


「い、いや、何も言ってない」


 そう?と鏡の中で不思議そうに首を傾げた初音は、再び鼻歌を歌いながら髪を洗っていく。

 そんな初音の背を見ながら、私は困惑と動揺でいっぱいだった。

 私は今、何を思った。こんなのおかしいと、何に対しておかしいと思った。

 わかってる、私が初音に欲情のような感情を抱いたことをおかしいと思ったのだ。おかしくなんて、ない。初音は同性の私から見てもきれいな女子だ。特に成長途中だからこそのみずみずしさは言葉も失わせる色香があって、手折ってしまいたいと思わせる誘惑を抱かせる。

 けれど、重要なのはそこじゃない。

 私は、おかしいと思った。別に対して何かを考えているわけではなかった。ただ無意識に、初音に恋愛感情的な思いを抱くのはおかしいと、考えた。


『好きなんだ……俺は、悠里が、好きなんだ』


 視界が茜色に染まる。耳の奥で残響が響く。

 覚悟と、わずかな恥ずかしさをにじませる玲音。


 私は、玲音にどんな顔をしていたのだろう?

 無意識のうちに同性愛を否定する私は、告白の後に玲音にどんな顔を向けていたのだろう?


 湯船は温かいはずだった。けれど私の心は、体は、ひどく冷え切っていた。


 私は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?

 悠里との関係を誤解されること以上に、してはならないことをしていたのではないだろうか?言葉の端々に、玲音の思いを否定するような響きはなかったか?男が好きなんておかしいと、そんな思いがなかっただろうか?


 わからない。わからないけれど、私がもしそんな姿を玲音に見せていたのだとすれば。それならば、玲音が盲目的に私に敵意を向けている意味も変わってくる。

 私は、玲音に――


 ちゃぽん、と水滴が私のそばに落ちる。

 気が付けば洗い終わっていた初音が、すぐ近くから私の顔を覗き込んでいた。ほのかなふくらみが、私の顔の前にあって。

 私は思わず顔をそらした。


「んー?」


「……何?」


「何でもないよ。ほら、少し寄って寄って」


 浴槽に踏み入れた片足で、初音が私の足を軽く小突く。私が体操座りをすれば、初音は私の反対側に向かい合うように座る。

 ふぅ、と初音の口から吐息が漏れる。濡れた髪を軽くまとめた初音はゆるりと目元を垂らしてお湯の熱に心を溶かしていた。


 水音と呼吸の音だけが浴室に満ちる。静寂。けれど、嫌いじゃない静けさだった。

 少なくとも動揺の境地にいた私を落ち着かせる程度には、その時間には価値があるものだった。


「ねぇ」


 初音が口を開く。私は顔を上げて初音を見る。けれど、その口から次の言葉が出ることはなかった。

 初音はただ、私の足に自分の足を絡めて、にへらと笑った。

 艶のある足が煽情的に私に絡みつく。おなかの中がわずかに熱を持った。ぼうっと、初音を眺める。

 美少女。初音のような容姿を持っていたら、私は自信をもって玲音に告白できていただろうか。

 玲音のことが好きですと、そういうことができていただろうか。

 そうすれば、何かが変わっただろうか。


 楽しそうに笑う初音に対する高ぶりから目をそらすように、私は意味のない思考を巡らせた。


 けれどたとえ私が初音のようなかわいらしい容姿をしていて、自分に自信があったとしても、きっと私は玲音とうまくいかなかっただろう。

 無意識のうちに他人のあり方を否定するような私が、玲音に好かれるはずがない。


 思考にふける私は、初音が私のことをまっすぐ見つめていることに気付かなかった。その目に宿る心配げな光も、初音の決意も、私は知らなかった。見えては、いなかった。


 お風呂から上がっても、私たちはのんびりとたわいのない言葉を重ねた。私も初音も、学校でのことなんて口にしなかった。口にすれば、現実を直視せずにはいられないから。あるいは初音は、私のためを思って口を閉ざしてくれていたのかもしれない。そう思うと、独りよがりな自分が私は嫌になった。

 私は、自分のことばかりだ。嫌がらせに巻き込まれてしまった初音に、私は何もしてあげられていない。私のせいで傷ついている初音を守ることもできない。自分勝手に失恋に傷ついて、その言動で私は玲音をひどく傷つけていて。悠里にもとても心配をかけてしまっている。クラスの雰囲気を悪くしているのも私。


 暗くなっていく思考を追い払う、私は軽く頭を振った。

 不思議そうに私の顔を覗き込んでいた初音に、なんでもないよ、と私は告げた。


「わたしね、花蓮のことが好きだよ」


 うす暗い部屋の中、一つのベッドで背中合わせに横になった私に、初音がそう語りかける。

 ドクンと心臓が跳ねた。それは、恋愛的な好きだろうか。もしそうだとすれば、私はなんと答えればいいだろうか。

 私の悩みは杞憂だった。


「ああ、もちろん友人として好きって意味だよ?」


 私の動揺に気付いたのかはわからないが、初音はおかしな空気を吹き飛ばすようにからかい交じりの声音で告げた。


「私も……初音がいてくれてよかった」


 好きだと、そういえたらよかった。けれど、それはひどく大切な言葉だから。私はその言葉を、まずは玲音に伝えなくちゃいけなくて。だから、今ここでその勇気を使ってしまうわけにはいかなかった。

 けれど、初音はそんな私を逃してはくれない。


「花蓮は、わたしのこと、好き?」


 今度は、ふざけた空気のない真剣な声だった。いや、最初の一言も、ひどく真摯な声だった。初音は私を逃がしてくれない。

 暗がりの中、背中に初音の体温を感じ、初音のにおいを感じながら、私は考える。私は、初音のことが友人として好きだ。一緒にいて楽しいし、一緒にいるだけで救われた気になる。それは精神的に依存しているとかそんな意味じゃなくて、互いに足りないところを支えあう、無二の友としての思いだ。

 だけど、私はその言葉をいうのをためらう。好きと言ってくれる初音に、私も思いを伝えたい。言葉を返したい。けれど喉元までこみ上げた言葉は形にならない。

 脳裏に浮かぶ怒りに顔を染めた玲音が私を見ていた。


「私は……」


「花蓮は?」


 たった一言。その言葉が遠かった。震える言葉は、やっぱり喉に引っかかって出てこない。

 そんな私の背に、初音の手が触れる。気が付けば初音は私のほうを向いていたらしい。それから、初音は背後から私のことを抱きしめた。

 ぬくもりが、体に満ちる。そこでようやく、私の体がひどく凍えていたことに気づいた。力の入っていた体が氷解していく。

 こわばりが消え、脳裏の玲音の姿が薄れていく。


「花蓮、思いはね、言葉にしないと伝わらないんだよ」


 わかってる。わかってはいる。幼馴染だから私のことを言わなくても理解してくれるなんてありえない。初音が私の思いを正しく理解してくれているかなんてわからない。だから私は、私たちは、言葉を交わすのだ。思いを、伝え合うのだ。

 それにおびえていたら、前に進むことなんて出来はしない。


 息を吸う。初音の匂い。普段、抱き着いてくるときに香る、初音の甘い匂い。

 心を落ち着ける。前に回されていた初音の手に手を添えて、口を開く。


「私も、好きだよ。友人として」


 そっか、と初音は小さくつぶやいた。

 それから、きゅっと私を抱く腕に力を込めて、初音は私の背中に頭をこすりつける。

 背中に冷たさを感じた。

 初音の体は、震えていた。初音は、泣いていた。

 ああ、これまで初音はどれだけ苦しかっただろう。明確な理由も正当性もない悪意にさらされて、傷つかないわけがないのだ。けれど、あるいは彼女以上に傷ついている私がいたから、初音は私の前で弱さを見せなかったのだ。

 大丈夫だよ。そう告げるように私は初音の指に自分の指を絡ませる。

 小さくすすり泣く声が少しだけ大きくなる。


 初音が泣き止むまで、私は背中を貸して、その手を握り続けた。


「ありがとう、初音」


 私たちは傷ついた戦友。

 傷をなめあい、励ましあい、そして敵に立ち向かう。


 大丈夫、私たちはまだ歩いて行ける。

 隣に互いがいる限り。

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