21 悪口
「ほんと、ありえねぇよな。玲音のやつ」
雷に打たれたように、その言葉は衝撃をもって私の心を、脳を、震わせた。理解できなかった。どうしてそんなことを平気で言えるの?玲音がどれだけ苦しかったか、少しでも想像してあげられなかったの?
わかっていた。だって幼馴染の私だって、自分が悠里と一緒にいる意味を理解せず、玲音を誤解させて傷つけてしまったから。
けれど、だからと言って彼らを許せるはずがなかった。
壊れた私の心が、叫んでいた。これ以上、玲音を傷つけさせてなるものかと。
だから私は、にじむ視界の先で玲音の悪口を言っている男子たちを睨み、そちらへ一歩を踏み出して。
「止めてください!」
これまでにない大きな声が出た。そして、私の心の中は空っぽになった。
向けられる不審な視線が、私の中にあったはずの言葉を、きれいさっぱり吹き飛ばしてしまった。
知らない男子たちは足を止めて私を見る。多分、上級生。玲音よりも全体的にがっしりとした体つきの彼らを代表して、一人が口を開いた。
「……なんだよ、お前?」
私は、何、なんだろうか?玲音の友人?幼馴染?それとも悪口が許せなかった正義の人?わからない、わからなくて、答えは見つからなくて、けれど私は、必死で言葉を探した。
「玲音を……玲音を悪く言うのは、やめてください」
「あ?玲音?あいつが何だってんだよ」
「あれじゃね?こいつの玲音に惚れてんじゃね?」
「ほんと、なんでどいつもこいつも玲音、玲音言ってるんだろうな?あいつのどこがいいんだ?部活にもろくにこねぇで文化祭当日だけちゃっかり参加しやがってよぉ。それなのに女子たちはキャーキャー言いながら玲音の奴を見てるし、ほんと、わけわかんねぇよ。なぁ、お前さ、玲音のどこがそんなに好きなんだよ。俺らに教えてくれよ?そうしたら俺らだって玲音のことを好きになれるかもしれないだろ?」
ギャハハハ、傑作!と声が響く。その声を前に、私は何を言えばいいかわからなかった。気づけば男子たちは私が逃げられないように取り囲んでいて、周囲に黒い壁が立ちはだかっていた。
私は必死に考える。玲音の、好きなところ――
「玲音は、頼りになって、ぶっきら棒だけど優しくて、でも不器用で、だから玲音の隣にならびたいし、玲音を支えてあげたくて――」
ヒュー、と口笛が一つ。彼らは、私を見下ろしてニヤニヤ笑っていた。分かっていた。彼らにこんなことを言っても、何の意味もないって。ただ見世物になっているだけだって。
私はたぶん、告白したかったのだ。玲音が好きだと、玲音に伝えたかったのだ。
けれど、私が告白するだけで玲音を傷つけてしまうかもしれないから。行き場のない私の思いは、こんな形でしか声に出せない。
「へー、支えてあげたい、ねぇ?だったら俺はどうなんだよ?ほら、支えてあげたくなるだろ?不器用で頭も悪くてさぁ、な、支えてあげたくなってくるだろ?」
私は口を引き締めて首を横に振る。玲音だから、支えてあげたいのだ。玲音だから、隣に立ちたいのだ。玲音だから、幸せであって欲しい。
私が幸せを望むのは、彼らじゃなくて、玲音だ。自分勝手な私は、そうして首を振り、そして彼らの顔つきが、変わった。
「はっ。やっぱり男は顔ってか」
「なぁ、コイツ意外といい顔してるよな?」
「胸はないけどなぁ?」
「バッカお前ら。こういう気丈な奴は泣いてる姿がきれいなんだよ……ってか、なんか目赤くないか?」
無遠慮に私の顔を覗き込もうとする男子から顔をそらす。ドン、と背中が別の男子にぶつかった。
地面に膝を付く。さっき擦った膝がじくじくと痛んだ。
私の視界に、影が落ちる。
にやにやと笑みを浮かべる男子たちが、近づいて来る。その一人が、楽しそうに足を振りかぶる。
私は頭を抱えて、丸くなって――
「何してんのよあんたたちっ」
怒号が聞こえた。聞き覚えのあるようなないような、そんな少し高い女子の声。
げぇ、と男子たちが気勢の削がれたような声を上げる。
脱兎のごとく逃げ出した男子たちの足音が遠ざかり、代わりに一つの足音が近づいて来る。
「大丈夫あんた……って、え?」
「ふぇ?……鬼頭、さん?」
そこには先ほど玲音と一緒に陸上部の出店で活動していた鬼頭澪の姿があった。
「大丈夫、じゃなさそうね」
大丈夫と、私が返す暇もなく鬼頭さんはずんずんと私に近づき、私の足を一瞥した。私も鬼頭さんの視線につられて、足元を見る。膝の擦り傷。
それを認識した次の瞬間には、鬼頭さんは私に抱き着くような体勢になっていて、そして。
「え?」
彼女は私を抱き上げて、お姫様抱っこをして颯爽と歩き出した。
鬼頭さんが足を使って保健室の扉を開く。女子として、いやそもそも常識人としてその行動はどうなんだろうか。けれど鬼頭さんの両手を封じてしまっている元凶である私は何か言える立場ではなかった。
私が開けばよかったと気づいたのは、消毒液の独特なにおいが香る保健室に一歩を踏み入れた時だった。
「ったく、誰もいないのかよ」
そうぼやいた鬼頭さんは、ベッドの一つに私を下ろして座らせ、勝手知ったる様子で薬品棚を物色して消毒液と絆創膏をつかみ取った。
「しみるからな」
ぶっきらぼうに言い捨てる鬼頭さんに、私は玲音の姿を重ねていた。ああ、鬼頭さんは玲音とお似合いだ。けれど、玲音と悠里は両想い。鬼頭さんの恋は、叶わない――
消毒液が患部を流れ、血の混じった液がティッシュで食い止められる。
それから、鬼頭さんは絆創膏を丁寧な手つきで私の膝に張り、ぺしん、と一回傷を叩いた。
「っ⁉」
うめく私は顔を上げ、鬼頭さんを睨んだ。そうして私は、助けられてから初めて、鬼頭さんと目が合った。揺れる瞳、うっすらと充血した目。苦しそうにゆがむ顔。何か、あったのだろうか。その顔はまるで泣いた後のようだった。
何かを言いたげに開かれた口は、けれどすぐに閉じて。
保健室に沈黙が満ちる。
やや薄暗かった保健室が、明るくなる。
雲に遮られていた西日が顔を出し、窓から陽光が部屋の中を照らしていた。
淡い黄色の光に背中を押されるように、鬼頭さんが口を開いた。
「告白、したんだよ」
誰に、とは鬼頭さんは言わなくて。私も、聞くことはなかった。ただ、どうして私にそんなことを話すのかと、私はじっと鬼頭さんを見つめた。
「どうしてって、そう思ったよ。あたしには、自信があった。あたしは坂東に並び立てる人間だって思ってた。坂東も、あたしのことをよく思ってくれてるんじゃないかと、期待してた」
そして鬼頭さんは、文化祭という一大イベントにかこつけて玲音に告白をして、振られたのだと寂しそうに笑った。だが、わからない。それを私に語る意味は、何なのだろう。
「どうしてって、何度も聞いて。そしたら、ためらいながらも坂東は答えてくれた。そしてあたしは多分、玲音を気持ち悪いものを見るような目で、見てしまったんだ」
ガタン、とベッドが揺れた。
勢いよく立ち上がったせいで膝が痛んだけれど、そんなことは気にならなかった。
私は、鬼頭さんにつかみかかった。
「どうして、どうしてっ」
どうして、そんな顔ができるの?好きだったんじゃないの?だって、私のことを牽制する位に玲音のことが好きだったんでしょ?なのにどうして、覚悟を決めた玲音に、そんな傷つけることができるの?
「やっぱり、あんたは知ってたんだな」
知ってた――そうだ、私は玲音が、男を、悠里を好きなことを知っていた。そして、鬼頭さんは私がその事実を知っていると、判断した。
「『あいつはそんな顔はしなかった』……そう、坂東に言われたんだよ。それで、あんたの顔が浮かんだ。坂東が最初にその話をした相手がお前なら、坂東のあの警戒も、少しはわかった気がしたんだ」
なぁ、何をしたんだ――鬼頭さんはそう私に尋ねる。玲音に何をしたのかと、そう問いかける。そこにはもう、恋敵に対する憎しみはなかった。鬼頭さんの中から、燃えるような恋心はもう、消えてしまっていた。
「私は……玲音に、悠里が好きだって告白されて、協力を求められたの」
ゆっくりと鬼頭さんの襟から手を放して、私は思い出す。セミの鳴き声も、喧騒も、遥か遠くの世界の音だった。静寂に満ちた保健室に、私の声だけが響いた。
話し始めたら、止まらなかった。
協力の必要はないと言われたこと、玲音の家に向かって、悠里に会った。私と悠里が付き合っていると、それから私がそれを見せびらかす嫌な奴だと誤解されたこと。関係はこじれて、けれどどうにかしたくても私の言葉は届かなくて。玲音が落ち込んでるのは、傷ついているのは私のせいだってみんなが責めてきて、苦しくて、それでも玲音に幸せになってもらいたくて――
「さっきね、悠里と花蓮が話している会話を、盗み聞きしてしまったんだ。悠里は、玲音が好きだって言ってた。両想いなんだよ。これって、奇跡みたいだよね」
私は暗くなった空気を吹き飛ぶように大きな声を出した。空元気が乗った声が、空しく響いて消えていった。
「なあ、あんたはまだ、坂東のことが好きなんだろ?だったら――」
「だったら、何?そんなこと、鬼頭さんには関係ないでしょ?」
それから、私は傷の手当てをしてくれたことにお礼を言って、鬼頭さんに背を向けて歩き出した。
大丈夫。玲音はきっと幸せになれる。
玲音の隣に、私は要らない。
ふわふわとした感じがした。
まるで地面を踏みしめることができていないような、そんな夢の中にいるみたいな感覚。
ようやくたどり着いた保健室の扉を開けて、あたしは廊下を見た。
そこにはちょうど、廊下の先に消えていくあいつの姿が見た。
天野花蓮。
成績が良くていけ好かない奴。いつも飄々としていて、どちらかというと一人を好むおかしな女子。初音っていうやつと一緒にいることが多くて、坂東と中学が同じで、坂東に好意を寄せていた奴。
あいつは、坂東は男が好きだとわかっても、顔をしかめなかったという。それを聞かされてもまだ、あいつは坂東が好きだった。
あたしは、坂東に告白されて、気持ちが悪いと思った。理解できなかったし、理解したくなかった。あたしという人間が、坂東という存在を嫌悪した。そして、あっけなくあたしの恋は消えた。
でも、あいつは違った。あいつは、坂東に告白されても顔を歪めることはなくて、坂東を嫌いにならなくて。
すごい奴だと、思った。つい手を貸してやりたいと思った。
そう思ったのは、あいつの去り際の顔が、今もまだ脳裏にこびりついて離れないから。悲しそうで、苦しそうで、けれど嬉しそうな笑顔。
清濁併せ呑んだようなあいつの顔が、美しいと思った。
あいつは多分、まだ坂東のことが好きだ。その恋を、あたしは応援してやりたい。
坂東からあいつを引き離そうとして、その上坂東を傷つけたあたしの、せめてもの罪滅ぼしとして。
そういえば、あいつ――
「花蓮!」
ふと頭によぎった思考は、そんな焦りのにじんだ声にかき消された。
斎藤初音が、肩を上下させながら、私の前で急ブレーキを踏んで保健室の中を覗き込んだ。そして、その中に人影がないと見て取ると、すぐに私の方へと顔を向けた。そして一瞬、クシャリとその顔が憎悪にゆがんだ――気がした。
「ねぇ、花蓮は⁉」
「あいつなら、もう消毒も終わってどっか行ったぞ」
だからさっさと去れ、と追い払うようにあたしは手を振った。
「そう、花蓮を運んでくれてありがと」
冷たい目をしながら、そう言われた。どうして、お前はそんな目を向けるんだ?あたしは怒りを覚えながらも、別に、と視線をそらして言った。
なんだか、負けた気がした。
「……でも、許さないから」
「何がだ?」
まただ。またこいつは、憎悪の目をあたしに向けてくる。あたしが一体、こいつに何をしたんだよ――
「花蓮と、それからわたしをいじめさせたことを、わたしは絶対に許さない」
「っ、待――」
あたしが伸ばした腕をするりと躱して、彼女は再び廊下を走り出した。意味が、分からなかった。けれどその言葉は、確かな重みをもって私の腹の中に居座った。
あいつらを、いじめさせた?少なくともあたしは、あいつらをいじめてなんかいない。
けれど、あの目が、濁った暗い瞳が、その言葉に真実味を帯びさせる。底なしの闇に、あたしは飲まれた。だから口を開くのが遅れて、あたしは彼女を捕まえられなかった。
あたしは、いじめなんてしない。そんな必要がない。だってあたしは、十分に優れているから。やっかみなんてしない。あたしは、あたしの力で坂東に並べると、そう思っていた――本当に?
心の奥から、暗い感情が湧き起こる。
本当にあたしは、彼女を、天野をやっかんでいなかったか?坂東と中学が同じなあいつを、羨んだことはなかったか?
思い出す。坂東がおかしくなったのはあんたのせいだろ――そう、彼女を責めた時のことを。あの時、あたしは自分の行動が正しいと信じて疑っていなかった。坂東がおかしくなったのは、はたから見ていて間違いなく彼女のせいだった。彼女が何かをした。私が好きな坂東を、おかしくした。
だからこれ幸いと、これ以上坂東に関わるなと、あたしは彼女にくぎを刺して――
「……そうか」
あたしは、自分がクラスの中でも中心的な、スクールカーストで高い地位にいる自覚がある。だからあたしの願いを周りの者が勝手に酌んでくれる。
――なら、あたしは意図しないうちに、彼女たちを、天野花蓮を排除するように周りの人間に求めていたんじゃないのか?
そう思ったら、いてもたってもいられなかった。はらわたが煮えくり返る思いをしながら、あたしは教室へと小走りで向かった。あたしの顔に泥を塗るような行為をしたやつを、あたしは許さない。
それは、あたしにとって数少ない、あたしの芯だった。
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