20 怪物

「それじゃあ私は行ってくるよ」


 手芸部の店番があるという初音を、手を振って送り出す。その姿が見えなくなるまで見続けた私は、小さく息を吐いた。

 朝からいろいろなことがあった。相談して助言をもらって、玲音が以前のように過ごしている場面を見て、玲音との関係をあきらめる決意をできた。


「どうしようかな……」


 心がいっぱいになっていた私が一人で見て回るには、文化祭の熱は激しかった。その活気にあてられて、私はすぐにダウンした。


 人気のない中庭のベンチ。古びたそれはもとの塗装のほとんどがはげ、もとの木の表面をさらしていた。木の陰に存在する半ば忘れられたそれに座り、私はほっと息を吐いた。

 喧噪が遠かった。遠くから響く人の声も、活気も、ここには届かなかった。

 カサカサと葉擦れの音が響く晩夏の中、私は木漏れ日の下でぐったりとベンチに沈んだ。


 どれくらいそうしていただろうか。渡り廊下から近い位置にいる私のほうへ、聞き覚えのある声が近づいてきていた。やや怒りのにじんだその声の主が初音のものだと気づくまでに数秒の時間がかかった。


「ねぇ、聞いてるの久世くん⁉」


「聞いているよ。全く、君は思っていたよりも随分と勝気だね。もっと物静かな子を想像していたよ。親友の存在がそうさせるのかな?」


 花蓮が怒りながら名前を呼ぶ相手は、私の幼馴染であり玲音が好きな相手である、悠里だった。

 悠里はさすがに辟易した、といったような声音で、足を止めて初音にそう告げた。

 心臓が飛び跳ねるかと思った。だって、悠里と初音は、私からそう遠くない場所、中庭の中央あたりで立ち止まって話し始めたのだから。私がいる場所のすぐ近くで止まらなくてよかったという思いが一つ、こんな場所で喧嘩しなくてもいいだろうと文句を言いたくて、どうしてそんなに怒っているのか初音に聞きたくて、私の友人にそんな冷たい声で告げる悠里に怒りを抱いて、盗み聞きしている形になってしまった自分に嫌悪した。


「花蓮に何かしたら許さないよ?」


 ヒートアップした花蓮の声は、遠くの喧騒にかき消されることなく、正確に私の耳に届いた。


「何かって、何かな?」


「それは……坂東くんのことよ。久世くん、あなた確か、夏休み前に坂東くんの家の前で待っていた花蓮に会って、話をしたそうね」


 どうして初音がそのことを知っているんだろうか。私は初音に、そのことを話していない。だって話せば心配されるだろうから。そして、友達思いな初音はきっと、今みたいに悠里に突っかかっていくと、そう確信していたから。だから初音には秘密にしていたのに、どうして初音が私が玲音の家の前で悠里と会って、誤解されたことを知っているのだろう?


「それがどうかしたの?というか、よくそんなことを知ってるよね?女子っていうのは、何から何まで全部共有しないと気が済まないものなのかな?」


「ごまかさないで。ねぇ、それで気になって、私は花蓮に聞いたことがあるの。久世くんの家の場所をね」


 記憶を掘り返す。確か、夏休みに文化祭準備の作業をしている際にそんなことを初音に聞かれた気がする。あの時はどう答えたんだったか――


「……個人情報を勝手に流布するとか、駄目じゃないか」


「花蓮はそんなことをしないよ。ただ、大体の位置は教えてもらったけれど。それで、わかったの」


 何が、わかったのだろうか?私はドクンドクンと大きく脈打つ心臓の上を片手で押さえながら、初音の次の言葉を待った。


「……久世くん。あなたが、意図的に誤解されたということよ」


 …………は?

 私の頭は真っ白になった。悠里が、わざと玲音に誤解された。それはつまり、悠里は玲音の思いに気づいていて、告白されないように私との関係があるように見せた、というの?


「意図的に誤解されるなんて意味が分からないね。玲音も花蓮も、僕にとって大切な幼馴染なんだよ?」


 大切な幼馴染、そう思っていてくれることが、うれしかった。悠里にそう言われて、私は感動で泣きそうだった。けれど、今はそれ以上に心が動揺でいっぱいで、私は今にも飛び出していこうとする体を押さえて、じっと次の言葉を待った。


「花蓮に聞いた久世くんの家の場所を考えると、久世くんがあの日坂東くんの家の前を通ったことがおかしいの。だって、久世くんの家はこの学校から五分かそこらで着く場所にあって、坂東くんや花蓮の家とは歩いて十五分ほどの距離があるんだから」


「……僕が別の用事でそこへ向かった可能性だってあるよね?」


「その用事を説明せずに追及をかわそうとしているんだから当たりだよね?それに、学生服で、学校用の荷物を持って坂東くんの家の方まで行く理由なんてないよね?」


 確かに、そうだ。悠里はあの日、学校帰りにそのまま玲音の家に来たような恰好をしていた。だとすれば、何が理由があったと考えるのが自然だ。でも、だからと言って悠里が玲音に私との関係を誤解させるために行動したなんて――


「……はははははっ」


 低く、冷たい笑い声が私の耳に届いた。それが悠里のものだとはすぐにはわからなかった。


「……認めるの?」


「うん、そうだね。認めるよ。僕はあの日、花蓮との関係を玲音に誤解させるためにあの場所へ向かったんだよ」


「!」


 心臓が飛び出しそうだった。心臓と、それから悲鳴を堪えるために私は口に手を当てた。ばくんばくんと心臓が強く鼓動を刻んでいた。どういう、こと?ぐるぐると頭の中で渦を巻く疑問は、悠里の裏切りという結論を見せていて――


「花蓮が、邪魔だったからだよ」


 「大切な幼馴染」という言葉との落差に、今度こそ私は心を凍り付かせた。大切で、けれど邪魔な幼馴染。どうして?さっきの悠里の言葉に嘘はなかったはず。じゃあどうして、悠里は私に邪魔なんて言うの?どうして?

 ぎゅっと拳を握る。痛くて、けれどそれ以上に心臓が破裂しそうなほどに傷んだ。心が、悲鳴を上げていた。


「どう、して……」


 震える声で、小さくこぼす。幸い、吹き抜ける風が木の枝を揺らして、私の声をかき消してくれた。


「どうして花蓮に邪魔だなんて言うの?ひどいよ」


「君だって、薄々わかっているんだろう?師匠の……優希の友人の女子だっていうなら、わかるはずだ」


 何を言っているんだろう。その言葉の意味はよくわからなくて。私はただ、悠里が私に対して何を考えているかだけが知りたかった。他のことは、一切頭に入ってこなかった。


「……僕はね、玲音が好きなんだよ。恋と呼んでもいいし、愛と表現してもいいかもしれない」


 悠里の言葉が、ハンマーとなって私の心に振り下ろされる。バリンと、心が砕けた音がした。傷つきひび割れた私の心がバラバラになって、喪失感が私を襲った。

 そうか、玲音と悠里は、両想いなんだ。男同士で互いに理解者であるなんて、どれほど運命的なんだろうか。

 私は、運命に愛されてはいなかった。愛されていたのは、玲音と悠里。私は邪魔者――そうか、私は悠里にとって、玲音を奪いかねない邪魔者だったんだ。玲音と私が話しているところを見て、悠里がどれだけ心痛めただろう。玲音が私を好きになるんじゃないか、男の自分は玲音には受けれ入れてもらえないんじゃないか――そう苦しんだはずだ。


 私は、玲音だけじゃなくて悠里のことも傷つけていたみたいだった。


 ああ、私は悪魔なのかもしれない。

 以前クラスメイトに言われた言葉が脳裏をよぎった。幼馴染二人を傷つけ、そのことに気づきもしない化け物。

 私は二人の幼馴染失格だ。

 私は、玲音と悠里の側にいてはいけない。

 二人の元から、立ち去らないといけない。

 今すぐに、少しでも早く。


 突き動かされるように、私は茂みの後ろから飛び出して、初音と悠里に背を向けて走った。初音の声が、聞こえた気がした。

 けれど多分、気のせいだ。

 どうか初音にも悠里にも、私が盗み聞きをしていたことがバレませんように、嫌われませんように――そう祈りながら、私は走った。

 視界が、雨に濡れていた。

 にじむ世界は、風邪をひいた日のように揺らいでいて、私は足を滑らせた。

 膝が痛んだ。真っ赤な血が、膝小僧からにじんでいた。

 じくじくと痛むそれは、けれど少しだけ心の痛みを紛らわせてくれた。


 足を引きずりながら、私はゆっくりと保健室に向かって歩き出した。


 私は大丈夫。だから玲音、勇気をもって悠里と向き合ってあげて。


「ほんとうぜーよな、あいつ」


 にじむ目が視界を奪う。だから、その声ははっきりと私の耳に届いた。


「だよなぁ。部活サボり続けておいて、文化祭当日だけ参加とか、何様のつもりだってんだよ」


 ゆっくりとペースダウンしていく。近くの男子生徒の集団へと、眼を向ける。部活に来てなくて、文化祭の部活企画に参加した生徒って、それって――

 そして、決定的な言葉が私の耳に飛び込んだ。


「ほんと、ありえねぇよな。玲音のやつ」


 私は頭が真っ白になって、そして――






「花蓮?どう、して……」


 地面を踏みしめて誰かが走る音を聞いて、わたしは慌てて背後を振り向いた。そこには、わたしたちに背を向けて全力で走り去っていく花蓮の、大切な友人の姿があった。

 聞かれていた――動揺が、私の動きを縛る。その間に、花蓮は私の視界の中から完全に消えてしまった。

 花蓮に、今の話を聞かれてしまった。幼馴染の二人を、坂東くんと久世くんのことを何よりも大切にしている花蓮が、今の話を聞いてしまった。

 絶望が心に満ちる。花蓮がわたしからも離れて行ってしまう予感がした。そんなの、駄目だよ――


「ふふっ」


 場違いな笑い声が、聞こえた。私は目を怒らせてその男を見た。

 悪魔という言葉がふさわしいうすら笑いを浮かべていた久世くんが、私を見て、嗤う。


「ありがとう。君のおかげで花蓮を完全に牽制できたよ」


 謀られたのだと、わたしは察した。久世くんは、花蓮に今の話をわざと聞かせた。

 どうして、どうしてそんなことを――


 花蓮は坂東くんが好き。

 坂東くんは久世くんのことが好きだと、花蓮に告げた。

 久世くんは花蓮との関係を、坂東くんに誤解させた。

 久世くんは、坂東くんが好き。

 花蓮が、邪魔だった―――


 パズルのピースが、組み上がる。それは、背後でうごめく最悪の悪意を示すものだった。


「花蓮を……排除するため?」


 その怪物は、赤い唇を持ち上げて、にっこりと笑った。

 うすら寒い笑みが、私の言葉が正解であることを物語っていた。


 久世悠里は、怪物だった。

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