19 幸福
クラスでの仕事を終えて、私と初音は文化祭でにぎわう校舎内をめぐっていた。目についたクラスの出し物に並び、実行委員企画のゲームに参加し、体育館で劇を見た。
気づけば太陽は空高く昇っていて、秋を知らない太陽がうだるような暑さをもたらしていた。涼しさを求めて、私たちは体育館出口から校舎へ向かおうと歩き出して。
「あ、ねぇ花蓮。坂東くんがいるよ」
ジャリ、と砂混じりの音が耳に届く。踏みとどまった私は、無意識のうちに視線を初音が指さす方へと向けていた。
そこには、玲音がいた。運動部の出店で接客をする彼は、来場者である壮年の女性に微笑んでいた。その笑顔は、私が望んだそれだった。
時間が少しずつ、玲音の日常を取り戻させている。
それが分かって、私は安堵に胸打たれた。その隣に私がいなくてもいいやと、そう思えた。
「……花蓮?」
心配そうな響きのある初音の声に、私は無言で笑い返した。大丈夫だと、そう告げようとした。けれど、私だって学んでいる。大丈夫だと言うほどに、私の心は張り裂けそうになるのだ。
その痛みを感じないために、私はその言葉を使わない。けれど多分、この思いも時間が経てば風化する。それでいいんだ。それで、いい。
陸上部の仲間に肩をどつかれて顔をしかめる玲音。
女子部員にキャーキャー言われる玲音――その集団の中には、鬼頭さんの姿もあった。
誰も幸せそうに、楽しそうに笑っていた。
そこには、隔意もなく、ただ甘酸っぱい青春だけがあった。
目を細めてその光景を見続けていた私の視界に、ずいと近づいた初音の顔がアップで映る。一歩私は後じさりする。
無言の視線が、私を貫く。
「……なんで玉せん?」
何と言ったらいいか迷って、私はごまかすように先ほどから見ていた陸上部の出店の内容に触れた。
陸上玉せん。エビせんべいに卵を挟んだ、お祭りでたまに見かけるもの。マヨネーズとソースでふやけたせんべいがいい味を出していて、ややせんべいが湿ったくらいが私は好きだった。
「ああ、エビせんべいが陸上トラックに見えるから、だって」
「玉せんにするためにトラックが真っ二つに割れることになるけど、いいの?」
「さぁ、もう毎年の恒例みたいなものだし、風物詩というかルーティンワークというか、なんとなくこの学校の陸上部と言えばこれ、みたいな感じなんじゃないかな?冷凍の蒸し卵を焼いて挟んでいるから、よく出店で食べるのとは違った触感がして面白いと思うよ?」
「なんで知ってるの……って、文化祭で食べたからよね」
この学校の文化祭は、たぶん公立の高校の中ではそこそこの規模だ。入場者も特に制限があるわけでもないし、さらには三日間という時間にわたって開催される。文化祭は地域の人はもちろん、在校生の家族、それからこの学校の受験を検討している中学生にも門戸を開いている。文化祭中には生徒会執行部が中学生向けに学校紹介を行っており、その準備もあって役員である悠里が忙しかったのだ。
多分、初音は去年文化祭に足を運んであの玉せんを食べたのだ。うん、流石に今日すでに食べているということはないだろう。
……さすがに初音はそこまでの食いしん坊キャラでも天然ちゃんでもないはずだ。
「……何かおかしな考えの波動を感じた気がするよ?」
「気のせいよ。それより、ここにいるとお腹すかない?」
「良い匂いだよね。玉せんもいいけど、フランクフルト、焼きそば、団子もいいね」
体育館前の職員駐車場は、文化祭期間中には部活動の食事関係の屋台に変身する。衛生問題で講習を受けるような手間は必要らしいけれど、メニューを選べば店を出すことができるのだ。並ぶ屋台には、それぞれの部活動の名前と、ユニークな名称が並んでいた。剣道部の「あなたのハートを貫く団子」に、陸上部の「トラックエッグ」、水泳部の「夏のプールサイド」、美術部の「アートの園」など、主張の激しい看板が並び、客引きの声が響いていた。ちなみに、彼らがこれだけ熱心なのは、この手の行事への参加態度が部費の配分における考慮対象の一つであるからだ。まあ、楽しくてやっているという側面も多分にあるのだろうけれど。
おそらくは学校内で最もにぎわっているそのスペースは相応の人気があり、私はその集団の中に入っていくのをためらった。それにお昼は弁当を用意してきているし、わざわざ高いものを買う必要はないと思う。
「ちょ、ちょっと⁉」
けれど、初音は私の腕をつかんで、その体からは想像もつかないほどの力で私を人ごみへと引っ張っていく。玲音のことを眺めていた少し前よりも、その場所は激戦区と化していた。
鐘の音が聞こえる。
普段の昼食の時間が来ていた。
校舎はたくさんの生徒たちを吐き出す。押し寄せる波に押されるようにして、気づけば私たちは陸上部の屋台に並んでいた。
「ちょっと!」
「ほら、何事も勇気があればこなせるんだよ」
ぱちんとウインクをして見せた初音は、けれどしっかりと手を握って私を逃がそうとはしなかった。列は意外と早いスピードで進んでいき、私たちはとうとう玲音の前にたどり着いてしまった。
「…………なんだ?」
冷たい玲音の声が、私の心に刺さる。玲音と同じく、何をしに来たと言いたげな鬼頭さんの視線にさらされて、私は逃げたくなった。般若のごとく顔をゆがめていく鬼頭さんは、けれど実に上手い位置取りで、その怒りの形相を玲音には見せない。きっと鬼頭さんは、これまでにも玲音に近づく女子たちをこうして牽制していたのだと思う。その動きには、一朝一夕のものではない慣れがうかがえた。
「玉せん二つ!」
びし、とピースサインを突き出した初音を見て、玲音が目をしばたたかせる。そうか、と一言つぶやいた玲音は店の奥へと個数を叫び、それから私たちに料金を告げた。
事務的にもほどがある会話で、けれどそこに大きな葛藤があることもわかっていて。それでも、たとえ仕事だからという理由があっても、玲音がまっすぐ私の目をむいて話してくれるのがうれしかった。
そして、こんなことで歓喜している私が、私は嫌になった。
包み紙に入った熱々の玉せんを受け取った私は、玲音に背を向けて歩き出して、すぐに立ち止まる。訝し気な視線が背中に突き刺さった気がした。邪魔だ、と言いたげな見ず知らずの生徒のにらむ目が、私をとらえる。
「上手くいくといいね」
悠里と玲音が上手くいくことを、私は陰で祈っているよ。
玲音の顔を見ることなく、私はそう告げて再び歩き出した。
それはあるいは、玲音と鬼頭さんの関係を願っての言葉だったかもしれない。
私は、玲音の笑顔を見ていたい。
幸せな玲音を見ていたい。
玲音が、幸せであってほしい。
ああ、これは愛だ。
その気づきは、私の心にすとんと収まった。
これは恋じゃない。これは、玲音のことを思う、愛という感情で、愛するという恋だった。
玲音に、幸せであってほしい。
玲音が愛しいから、玲音といたい。
でも、私のせいで玲音が幸せでなくなるのであれば、私は身を引くしかない。
「幸せであってね、玲音」
私はたぶん、今初めて、本当に前を向いて歩き始めた。
中学二年生のころから宙ぶらりんだった関係に終止符を打って、私は歩き出す。
愛してるよ、玲音――
歩き去っていく背中は、どこかすがすがしく見えた。お前は何を考えているんだ――俺のそんな疑問は、けれど喉を震わせることはなかった。
「何見てるのよ、坂東?」
花蓮の後姿を見送っていたら、不審そうな顔をした女子が話しかけてきた。確か……鬼頭だ。陸上部で同じで、クラスも一緒の女子。少々きつい外見をしていて、何より周りを威圧するような雰囲気を放っていて、正直嫌いなタイプだった。もっとこう、悠里のような支えるリーダーシップを持っているか、あるいは花蓮のように守ってあげたくなるタイプのような――
そこまで考えて、俺は動きを止めた。いぶかしそうな客の生徒の視線が突き刺さる。
だが、そんなものは気にならなかった。
俺は今、何を考えていた?何を思った?悠里と花蓮を比較しなかったか?
そんなはずはない。俺は悠里が好きで、花蓮が嫌いだ。あいつは、俺をからかって遊んだくずだ。
そう思う。そう思うのに。
先ほど見せた、泣いているような花蓮の笑みが、頭からこびりついて離れなかった。
『幸せであってね、玲音――』
言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。何度も何度も、残響のように響き続ける。
喧噪の中、立ち去る花蓮は、確かにそういっていたように聞こえた。それが一体どういう意味の言葉か、やっぱりこれもわからない。
俺を傷つけていたお前が、どうしてそんなことを言うんだ。幸せなんて、何を指して言っているんだ。
そんな疑問とともに、心は歓喜に満ちていた。やっと、花蓮という呪縛から解放されたと、そんなすがすがしさがあった。
それと同時に心に広がる寂しさは、見えていないふりをした。
この文化祭で、俺は悠里に告白する。
幸せになるために、幸せであるために。俺は告白の決意を固めた。
「ちょっと、まだですか⁉」
わずかに怒気のにじんだ声を聞いて我に返った。そういえば、今は接客の最中だった。あと少しで交代だ。だから、それまではしっかりと仕事をしよう。
そう意気込んだ俺の思考の一部始終を、その横顔を、鬼頭が見ていたことに俺は気づかなかった。
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