22 安息
文化祭二日目。
私の気力も一晩経てば十分に回復した。メンタルの鍛えられた私にとって、恋の完全な終わりは、それほど傷つくことではなかった――わけではない。
たくさん泣いた。玲音が悠里と一緒になれると知って、嬉しかった。玲音に笑顔が戻ると予感できて、幸せだった。改めて完璧な形で突き付けられた失恋は、辛かった。悠里に嫉妬して、そんな醜い自分に、私は泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて。
それでもひどくあっさりと私は眠りについて、明日という時間が訪れた。
カーテンの隙間から差し込んだ朝日がまぶしくて、私はゆっくりと目を開けた。鏡の中には腫れぼったい目があって、けれど早くに目覚めてしまったおかげで、私は十分に目元を冷やすことができた。ぱっと見で腫れがわからない程度にはなったと思う。
泣いたことがバレないかと少しおびえながら、けれど清々しく、そして空虚な気持ちで私は学校への道を歩いた。無機質な建物、行きかう車、追い越していくスーツ姿の大人、集団で楽しそうに笑う生徒たち。すべてがまぶしく、そして色が抜けて見えた。
ああ、私の恋は終わった。あれほど私の中で燃え盛っていた恋の炎は、今やかすかな愛の灯となって、凍えそうな私の心を何とか温めていた。
そのかすかなぬくもりを感じながら、私は学校の門をくぐり、戦いの場へと一歩を踏み入れた。
多分悠里は、この文化祭で玲音に告白する。だから私は、それを見守ろうと思う。それが多分、私に許される唯一のことだから。
頑張って、悠里。玲音、しっかりね。
「おっはよう!」
朝からテンションの高い初音が、勢いよく飛びついてきた。たたらを踏みながらも転倒を逃れた私は、ぽんぽんと初音の背中に手を当てて、おはよう、と答えた。
初音が、腕の中で私の顔を覗き込む。探るような眼が、私を捉えた。以前の私だったら、その目から逃れようとするように視線をそらしたと思う。けれど今日の私は違う。
私は初音と目を合わせたまま、何、と首をかしげる。
ううん、なんでもない、と初音は私から離れてぱんぱん、と制服のしわを伸ばした。
ふと、周囲から向けられる視線に違和感を抱いた。もはや慣れてしまった嫌悪感とは違う、なんというか、恐怖のような感情が私たちに向けられていた。あるいは、困惑だろうか?けれどそのことに関する思考は、初音の大きな声に吹き飛ばされてかき消えてしまった。
「文化祭二日目だよ!」
「そうだね。でも、ちょっとテンション高すぎない?」
「文化祭なんだよ、文化祭!いやぁ、すごいよねぇ。わたし、小学校も中学校も文化祭なんてなかったからすごく新鮮で、見るものすべて目新しくて、きらきら輝いて見えるんだよね」
わちゃわちゃと振り回される両腕が、とても楽し気だった。
「へぇ、私は中学の時に文化祭はあったよ。その代わり、あれ、合唱コンクール?はなかったけど」
「あー、文化の祭典、みたいな形で文化祭の代わりで合唱コンで濁すのがわたしの学校だったよ。全校生徒が多くて収拾がつかないから文化祭をしませんって、おかしいよね?」
頬を膨らませて告げる初音の顔がかわいくて、私は初音の頬を指で突きたいのをぐっとこらえた。
「そんなに多かったの?」
「そうだよ。全校生徒千百人オーバー。マンモス校ってやつだよ。狭い学校にぎゅうぎゅうに押し込められて、一時は特別活動教室とか音楽室の一つとかを教室に変えて凌いでいたんだよ。わたしの代が人数的にピークでね?それはもう、行事ごとになると先生たちがピリピリしていたよ」
私は元気いっぱいな中学生三百人ほどが修学旅行などで浮足立った様を想像した。うん、収拾なんて付けられそうにない。
その後も、小学校も児童会がなくて、とこれまで通ってきた学校の人数の多さによる不利益をぶつぶつとつぶやく初音とともに、私はクラスTシャツに着替えるために更衣室へと向かった。
二日目のクラス出し物の係は、私と初音の時間がバラバラだった。そのシフト表を見て、私は自分の相方が誰だったか思い出して思わず顔をしかめた。
奇縁というべきか、私の隣の欄に載っていたのは、昨日私を保健室まで運んで手当してくれた鬼頭さんの名前だった。
いろいろと思うところはあったし、昨日泣き跡を見られてしまっているだろう鬼頭さんにあまり近づきたくはなかったけれど、私はひとまず後ろ向きな感情を抑えて、初音に連れられて文化祭を満喫することにした。
初音がクラスの売り込みに向かってしまい、私は今日も当てもなく学校内をぶらついていた。土曜日だからか昨日以上に学外の人の姿が多くみられた。若々しいエネルギーを秘めた、どこかおどおどした制服の集団は多分見学に来た中学生だろう。子連れの親子は、生徒の家族だろうか。お年寄りの姿もあれば、他校の制服を着た高校生の姿もあった。
楽し気に廊下を歩き、言葉を交わす彼らの姿を見ながら、私はつい自分の隣に目をやってしまう。
そこには誰もいない。初音も、玲音も、悠里もいない。そのことが寂しくて、けれど努めて気にしないようにして、私は思いついた場所へと歩を進めた。
「いらっしゃい~」
間延びした声を上げたのは、教室に入ってすぐのところで机にだらしなく肘をついた女子生徒だった。多分二年生。長い黒髪を乱れさせる妖艶な女子。大きな胸が机の板で変形していて、一番上のボタンから深い谷間がのぞいていた。
思わず私が胸に手を当ててしまったのは悪くない。そして絶望が私を襲った。
私の胸は、硬かった。
牛乳だろうか?けれど毎日朝、コップ一杯飲んでいる。牛乳ではなく豆乳を飲むべきなのだろうか。確かどこかで、大豆がいいと聞いたことがあるような――
私がガン見していたせいか、彼女はポッと頬を染めて、私に向かってゆるりと微笑んだ。恥ずかし気な笑顔が、私の胸を打ち抜いた。
落ち着け、私。いくら失恋したからって、初見の女性に心射抜かれていてどうするんだ。私にはまだ、玲音と悠里を見届ける使命がある。それに、この女性に抱いているのは尊敬か畏怖か、あるいは憧憬だ。恋愛感情とその他を混ぜるのはよくないだろう。
私はその生徒から視線をそらし、教室の中をぐるりと見まわした。毛編みの帽子、藤かご、ビーズのストラップ、羊毛フェルト。雑多な作品が並ぶそこは、初音が所属する手芸部の展示教室だった。
「壊さないようにやさしく触ってあげてくださいね~」
背後からけだるそうな声が投げかけられた。振り返って、机に座る彼女に確認を取る。
「触ってもいいんですか?」
「もちろんよ~?だって、手触りも含めての作品だもの」
そんなものかと納得し、私は「丁寧に触ります」と言葉を返して早速机の上に並べられた作品を見て回った。色とりどりの作品はどれも丁寧に作られていて、中には奇天烈な作品名が示されていたり、どれだけ製作が大変だったか、その工程と所要時間を詳細に描いた案内などがあって、なかなかユーモアにあふれていた。
その中に私は、初音の作品たちを見つけた。
ビーズで作った、真ん丸なペンギンたちが私を見つめていた。緑、青、赤、ピンク、黄色――無数のカラフルなペンギンたちは、氷を模した台の上に並び、楽しそうに戯れていた。製作途中の単体では見たことがあったけれど、これだけ集まれば壮観だった。ペンギンたちは全部で十九。そのどれもが色が違って全てが愛らしかった。
「あらぁ、初音ちゃんの知り合いかしら~?」
すぐ後ろで声がして、私は驚いて背後を振り返った。そこには、机に体を預けていた店番の女子生徒がいて、私は自分がどれだけ集中してペンギンたちを見ていたのか知って恥ずかしくなった。あるいはこの人が音もなく移動してきたのだろうか。
うん、なんというか気配なく近づいてきても違和感がない変わった雰囲気があると思う。
「あ、はい。私は天野花蓮といいます。教室で作っているところを見たことがあって……かわいいですよね」
「そうよねぇ。私はビーズには挑戦したことがなかったのだけれど、これを機に試してみようと思ったわぁ。まずは……やっぱりこのペンギンちゃんたちかしら」
微笑みながらペンギンの一体を優しく撫でる。細くて長い真っ白な指で触れられたペンギンたちが、とてもくすぐったそうだった。なんというか、母性を感じた。
「花蓮ちゃんも興味があったら手芸部に顔を出してみてね?初心者でも大歓迎よ~?」
「楽しそうですね」
「週に一回か二回くらいだし、のんびりとやらせてもらっているわぁ。あ、私は北条ゆかりよ。ひらがなで、ゆかり、っていうの。手芸部の部長をつとめているのよ~」
よろしくねぇ、と相変わらず間延びした声とともに差し出された手を、私はおずおずと握った。
一度手芸部に顔を出してみるのもいいかもしれない。文化祭準備では初音と一緒に何か作品を作るということはできなかったけれど、それはきっととても楽しそうだ。それに、ゆかりさんが部長をつとめる部活なら、きっとぎすぎすした人間関係もない気がした。
ひらひらと手を振って、手芸部部長のゆかりさんはまた自席へと戻っていった。私はそれからしばらく手芸作品を見て回って、ゆかりさんに頭を下げて教室を後にした。
次は……確かそろそろ生徒会企画があったし、そこへ行ってみようか。
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