26 決断

「……これでも忙しい身なんだ。話は手短に頼むよ」


 飄々と肩をすくめる久世くんが、振り返りざまに口を開く。全く笑っていない目が、わたしたちを視界に収めた。

 真っ暗な闇のような目は、わたしたちを映しているようには思えなかった。まるで自分が吸血鬼のような鏡に映らない化け物になった気がした。


 久世くんの気迫に飲まれたらしい優希が、パクパクと口を開閉する。言葉の出ない彼に勇気を与えるように、わたしは彼の手をぎゅっと握った。

 ひどく冷たい手には、けれど確かな鼓動が感じられた。


「……へぇ、そんな関係になったんだね?」


「ああ、お陰様で初音と付き合うことになりましたよ」


「おめでとう、といえばいいのかな?初音さん」


 別に久世くんに祝福されてもうれしくない。わたしは彼の空気に飲まれないように優希の手を強く握って、小さく頭を下げた。


「それで、何の用かな?まさか、これ見よがしに恋人関係を突きつけに来ただけではないだろう?ああいや、師匠のことだからその可能性もあるかな。君は、僕にはとことんひどく当たるからね……あの日も、そうだったよね」


「……やめろ」


「やめないよ。あの日、君に押し倒された日は、僕にとって人生の始まりだったんだよ。僕の中で抑えられていた思いがあふれて、鎧がはぎ取られて、本当の僕がこの世界に生まれたんだ。ねぇ、どうしてそれを祝福してくれないんだい?君は僕をこの世界へと誘ってくれた恩人だろう?」


「……あれが、自分の罪だからだ」


「へぇ、罪の意識はあったんだ。でも、別に罪だなんて思わなくてもいいよ。だって僕も進んで身を任せたところがあったし、それに今となってはいい出来事だったと思っているからね。君は、そう思わないのかな?」


 何度だって、久世くんは優希に問いかける。その言葉が、まるで槍のように優希に突き刺さるのを私は幻視した。


 わたしにはわからない話は、けれどわたしの思考の中で確実に焦点を結んでいく。像が明瞭になっていく。悠里くんの言葉、優希の苦しそうな声、気づいてくれるなというように爪を立てられた手。

 痛くて、けれどそれ以上に優希が痛がっていることが分かって、私は彼に寄り添って立ち続ける。

 その手のぬくもりがなければ、たぶんわたしはもっと早く、この場所から逃げ出してしまっていた。あるいはかつてのわたしだったら、この場所へ足を踏み入れることを避けたと思う。


「彼女は知っているのかな?まさか、知っていて師匠と付き合うことになったのだとしたら、趣味が悪いと言わざるを得ないけれど」


 これまで優希を見続けていた久世くんが、わたしに視線を向ける。濁った瞳が、私を映す。

 恐怖が、背筋を走り抜ける。遠くでカラスが一声鳴いた。


 思考が、像を作り上げる。開かれた道、罪、優希と久世くん。


「…………知ってるよ」


 わかったよ、と言うべきだったかもしれない。

 その言葉に肯定して見せたわたしを、久世くんは汚物でも見るような目で見つめてきた。その眼は、私という存在のすべてを否定しているようだった。


「…………ふぅん、そっか」


 これほどどうでもよさそうに聞こえた言葉は、きっとわたしの人生で初めてだった。久世悠里という人間は、完全にわたしに対する興味関心を失っていた。

 無関心。わたしという存在は、久世くんの中から完全に消え去った。


「……それで、こうしてこの場に来たということは、『自分のことは忘れて前に進め』とでも言いに来たのかな?それとも『玲音に自分を重ねるな』『玲音に自分を追わせるな』かな?まさか、僕にはメサイヤコンプレックスの趣味はないよ。僕の感情は、僕のものだ。他の誰の経験だって、誰の思いだって、僕の経験でも思いでもないんだよ」


 久世くんの言っていることが、わたしにはわからない。わたしと心を通わせることを完全に拒絶した彼の言葉は、わたしの心に届かない。その言葉が届くのは、今はこの場で優希ただ一人。


「……悠里、君にとっての救いは、坂東君の救いになるとは限らないんだよ」


「玲音は救われるさ。僕がそうであったようにね。なにせ、僕と玲音は運命に愛されているんだから」


 歌うように、両手を広げた久世くんが告げる。その言動は、イエスマンしかいない環境で全肯定されてきた狂信者のようだった。


「君がシナリオを描いて、作り上げた運命に、ですか?君のシナリオには、致命的にかけているものがあるんですよ」


「……何が言いたいのかな?」


 すん、と久世くんの顔から感情が消えた。ためらうように震える優希を力づけるように、わたしは彼の腕を引いて、私に顔を向けさせる。

 決意を込めて、わたしは優希に頷く。揺れ動いていた優希の目が定まって、わたしに向かって頷きを返した。


「坂東君の思いを、価値観を、君は考慮していない」


「……玲音は僕が好きだよ。間違いない」


「自分がそうなるように仕向けたから……ですか?」


「……うん、そうだね。否定はしないよ。邪魔な花蓮が都合よく消えてくれてから、坂東が女子に近づかれないように噂を流布したし、彼の前で女性らしいそぶりをして誘惑だってしたし、巧みに玲音の心に入り込んで見せたよ。でも、最終的に玲音は僕に応えてくれた。彼は僕を好きになってくれた。……それが、すべてでしょ?」


「…………」


 わたしも、優希も、もう何も言えなかった。久世くんとの間には、決してわたることのできない広く深い隔たりがあった。そして、その亀裂に橋を架けることを、久世君が許さなかった。


 気が付けば久世くんはわたしたちの前から姿を消していて。


「……これでいい」


 そんな声が、優希の口から聞こえた気がした。

 がさり、と背後で物音がして。

 慌てて振り返ろうとしたわたしの背をつかんで、優希が動きを妨害してきた。


「……どうしたの?」


「大丈夫だ。坂東君も、天野君も、そして久世君も、たぶんこれで、別の道へと歩き出せるはずだ」


 寂しそうに、苦しそうに笑う優希が見ていられなくて、私は彼に飛びついて唇を重ねた。

 驚きに目を見張る彼は、吐き気を感じた様子もなく、ポカンと目を見開いて凍り付いていた。







 舞い散る埃が高いところに設置された窓から降り注ぐ光に照らされて、蛍の光のように輝いていた。まるで宗教画のように幻想的な切り取られた世界の中で、悠里は机に座って待ち続けた。


 雪解けを喜ぶ新芽のように、悠里が花が咲いたような笑みを浮かべた。満開の笑みは、けれど俺の顔を見て凍り付いた。

 たぶん俺は、ひどく苦い、あるいは苦しい顔をしていたと思う。たくさんの情報で、たくさんの思考で頭がいっぱいになったこんな状況でこの場に来たくはなかった。こんな中途半端な状況で、決断に踏み切りたくはなかった。


 けれど、決断の時が来た。


 静まり返った校舎にはほとんど人気はなかった。すでに文化祭の日曜午前の部は終わっていて、学外からの来場者は学校外に出ていた。昼食の時間が終わって三十分ほどの今は、すでにほとんどの生徒が後夜祭あるいはフィナーレに向かって体育館に集まっているはずで。

 それが終わってしまえば、この場所に二人きりでいられることはなくなる。そして、おそらくは今ここに悠里がいることさえ、生徒会役員としての仕事を誰かに肩代わりしてもらってのことなのだとわかっていて。

 だから、あまり時間をかけるつもりもなかった。


「……答えを、聞かせてもらえるかな」


 そんなはずがないと、そう揺れ動く悠里の目を見て、俺は心臓を締め付けられるような息苦しさを感じた。けれど、言わないといけない。宙に浮いた状態を続けるなんて、そんな不誠実なことはしたくなかった。


「……悪い。悠里とは、付き合えない」


 頭を下げて、絞り出すように、俺はそう告げた。

 顔を、あげられなかった。どんな顔をして悠里の顔を見ればいいか、わからなかった。

 それに、目元ににじむ涙を、悠里に見られたくはなかった。


「……どうして、か、聞いてもいい……かな」


 無機質な、何かをこらえるためにフラットになった声が聞こえた。足元しか見えない悠里の表情は、わからない。

 感情を押し殺す、声に震えが入らないように努めて、俺はゆっくりと口を開く。


「……絶対的な、価値観の差があるからだ」


「価値観の差?そんなの、これからすり合わせていけばいいよ。だって……」


 だって君は、僕のことが好きなんだろう――続く言葉は、たぶんそんな感じだったのだろうか。俺が悠里を好きなことは、間違いなく悠里にばれている。花蓮の口から伝わったわけではなく、悠里自身が俺に惚れてもらうためにこれまで行動を続けて、俺の言動から確信を持ったから。

 俺は、悠里という存在に振り回された道化だった。そしてそんな道化は、けれど訓練されたことにしか対応できない。思考を誘導されてきた俺は、精神的に弱くて、未熟だった。

 悠里という人物が好きになって、自分の思いを制御されたとでもいうような言葉に吐き気を覚えて、それでも悠里が好きで――けれどそれでも、見逃せないものがあった。


「悠里は、男が好きなことを、どう思ってるんだ?」


「……どうって、自分の個性の一つだと、そう思ってるよ」


「そう、か。俺はな、男が好きだって、悠里に恋愛感情を向ける自分が、気持ち悪くて仕方がなかった」


 息をのむ音が、聞こえた気がした。


「俺は、自分がおかしいって、そう思わずにはいられなかった。開きなおって公衆の面前で告白をするなんて、できるわけがない。周りからおかしな存在だと見られるのが、怖くて仕方がない。そして多分、この違いは、きっとひどい破局の道につながると思うんだよ」


「だから、付き合わないって?互いに好き合っていても⁉玲音、僕は玲音が好きだよ!誰に何と思われようと、何と言われようと、玲音が大切だよ。玲音以外に、大切な人なんてこの先現れるとも思えないんだよ」


 ぽたりと、光るしずくが床に落ちて散る。涙が、あふれていた。それは俺の涙か、あるいは玲音の涙か。

 にじんだ視界は、ゆがんだ世界しか映さない。


「俺は自分が気持ち悪くて、自分が嫌いで、こんな自分が悠里の隣にいることに、耐えられないんだよ。一人の人間として立つことすらままならない俺が、俺の好きな悠里の隣になんて居て欲しくないんだよ。だから俺は――」


 言葉を、止めた。もう一度、決断の言葉を告げるために。けれどその言葉は、続きを得ることはなかった。


「やめて!」


 バン、と勢いよく扉が開け放たれた。とっさに顔を上げた俺は、開かれた扉の先にいた人物の顔を見て目を見開いた。


 隣の文化祭倉庫から続く扉の先から、髪をはねさせた花蓮が勢いよく飛び込んできた。

 花蓮は荒い息を繰り返して息を整え、それからまっすぐに俺を見つめた。決意を示すように、片手が胸の前で強く握られていた。


 そうして花蓮が、口を開く。


「私は、私は……玲音が好きだよ」


 遠くで、フィナーレの会の始まりに沸く声が響いた。

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