25 選択

 昨夜から明け方まで続いた雨のせいか、吹きつける風には秋の冷たさがあった。振り続けた雨の足跡が残る道を、私は憂鬱な足取りで進んだ。文化祭三日目。それは祭りの最終日であり、そして玲音と悠里が互いの関係に決断をする日。

 玲音が選ぶ道が、二人にとって幸せな未来でありますように。

 そう願う私は、思考に耽るあまりよけそこなった水たまりに勢いよく足を踏み入れてしまい、ばしゃりと冷たい水滴を足に浴びることとなった。

 ひんやりとした水が靴の中にしみこんでいく。気持ち悪い感覚は、私の心をこれでもかと憂鬱にする。


 まるで不吉の予言のようだと考えてしまい、私はあわてて首を横に振った。







 生徒会執行部主催、クイズ大会におけるジンクス。それは大会の優勝者が公衆の面前で告白をして、その翌日である文化祭最終日、開かずの教室で二人きりで愛を告げれば末永く結ばれるというもの。開かずの教室とは、生徒会室の二つ隣、真隣の文化祭倉庫と直接つながっている、鍵を紛失されてしまっていて直接入ることのできない教室のことだ。

 その教室は文化祭期間だけは隣の倉庫を通って入ることができ、まるでこの逢瀬のためにあると生徒たちに噂されていた。そして、それを初代クイズ優勝者が使ったことで噂はジンクスとなり、今に続いている――


 そんな話を、俺はクラスメイトの男子から聞いていた。ちなみに名前は知らない。情報通を自称して話し始めた彼の眼は下世話な輝きを放っていて、俺は生返事でそいつを追い払った。

 昨日、クイズ大会の終わりに悠里に告白されてから約半日。俺はいまだに自分の中で答えを見いだせずにいた。時間を置けば置くほど、悠里を受け入れることによって自分がマイノリティだと周囲に知られることになる実感が広がり、不安が押し寄せた。

 ばれたくない、引かれたくない。そんな思いでいっぱいだった。

 大手を振って悠里と付き合えるという事実は、今の俺にとっては少しの価値もなかった。


 答えは出ない。けれど、選択の時は刻一刻と近づいていた。






「……優希から声をかけてくるなんて珍しいね?クラスのほうは大丈夫なの?」


「大丈夫ですよ。自分のクラスの出し物は昨日までで終わりですから。さすがに個人の負担が大きすぎるからと、今日は終日お休みです」


 日下部優希。わたしの友人であり、たぶんもう少し一緒にいれば腐れ縁の幼馴染と呼んでもいいかもしれない間柄の男子。小学一年生から豪運の下で六年間同じクラスになり、中学に入ってからも二年間同じクラスだった優希は、わたしの中でとても大きな存在を占めていた。

 だから中学三年生の時、わたしは彼に告白した。

 好きだと、そう伝えた。わたしは、たぶん、優希のことが好きで。そして彼と離れ離れになるのが嫌だった。

 卒業の雰囲気にあてられての告白だったけれど、わたしの思いに嘘はないはずだった。

 けれど、優希はわたしの目を見て、そして言った。

 時間が必要だ、と。

 優希にもわたしにも考える時間が必要だって、そう言われた。わたしは正直、とても腹が立った。それだけで優希のことを嫌いになることはなかったけれど。

 その時初めて、わたしは日下部優希という友人のことを、何も見ていなかったのだと知った。優希がそんな提案をするなんて、わたしには想像もできなかったから。


 そして優希が心は女性なのだと宣言して、私の頭は真っ白になった。


 あれから半年少々。

 わたしと優希の関係はわずかに変わって、けれど今でも変わらず交友があった。わたしと優希は、時折運命のいたずらのように偶然街で遭遇し、あるいは昔のように気心知れた友人として休日と共に過ごした。

 わたしと優希は、友人だった。その関係が清く正しい恋人同士のものだったかどうかは、わからない。

 長い時間を惰性的に過ごして、そして多分、わたしたちの恋は終わった。

 燃えるような一時の感情は失われ、けれど今も、わたしと優希は一緒にいた。


 それがたぶん、わたしたちの答えだった。


「話したいこと、聞いてもいい?」


 覚悟のにじんだ横顔へ、私は目を向ける。廊下を歩くわたしたちの横を、たくさんの人が通り過ぎていく。ちらりと、優希の顔から視線を下ろす。ペルソナ様の、仮面をまとった彼が、そこにいた。

 一目見て男性だとはわからない、完成された仮面。けれどそれは仮面ではなく、わたしに対してさらけ出してくれた本当の彼なのだと、今のわたしはわかっている。


「たくさん、考えました」


「うん、知ってるよ」


 優希がたくさん悩んだことを、わたしが知らないはずがない。わたしのために考えて、悩んで、苦しんで、それでも考え続けてきてくれたことを、わたしは知っていた。休日のひと時に、何気ない下校時に、式の時にクラスの列に並んでいるときに、見てきた優希の顔から、わたしは彼の悩みを知った。実践を、知った。

 わたしの告白が流れてしまってはいないのだと、優希の心の中で生き続けているのだと、それを知れただけで、もう十分に幸せだった。


 わたしが足を止める。

 優希も、足を止める。

 まるでエアポケットのように開いた空隙で、わたしと優希は向かい合う。

 本日は閉店している、ペルソナ相談所の前で。


『待っていてくれてありがとう――』


 昨日、ペルソナ様として投げかけられた言葉が、私の中で残響し続けていた。


「……好きかどうか、その答えは未だに自分の中に見つからないんです」


「わかってるよ。だから、わたしも答えを焦らせなかったの。でも、いいの?」


 そんな状況で答えを出して後悔はしないのだろうか?……たぶん、答えを出しても出さなくても、後悔すると優希はわかっていた。そんな目を、していた。

 答えの有無にかかわらず、決断にかかわらず、時間は絶えず流れていく。そしてわたしたちの在り方も、関係も、少しずつ、確実に変わっていく。

 取り返しのつかないところまでたどり着いた先で得た答えが、かなう可能性はないから。だから優希は、その答えを選んでしまう。その答え以外を、選ぶはずがなかった。


「付き合おうか」


「うん。よろしくね」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 彼の悩みも、彼の失敗も、彼の絶望も、苦しみも、ある程度のところまでは私はすでに聞いている。その苦悩に寄り添うことは、たぶん今の私ならできる。今のわたしたちなら、二人で歩いて行ける。

 それだけの確信を持てるだけの時間が、過ぎていた。


「……でもその前に、一つだけやり残したことがあるんです」


「知ってるよ。久世くんのことでしょ?」


 以前私が告白した際、彼は恋人がいると言っていた。男の恋人がいると、私に告白した。自分の心は女性で、男の人が好きで、けれど君の気持ちに確かな答えを出したい――独りよがりだと思っていたその言葉の意味は、わたしの中で大きく変わった。


 予感はあった。久世くんの中に見る言動に、面影があった。わたしの知る優希が、久世くんの中で生きていた。それにたどり着いたのは、昨日のことだったけれど。


「わたしも、一緒に行くよ」


 わたしは、優希に告げる。親友の花蓮のために、わたしは久世くんのもとへ向かわなければならない。

 しばらくためらうように視線をさまよわせた優希は、私をまっすぐに見て頷いた。






 その場所へ足を運んだのは、半ば無意識のことだった。

 文化祭実行委員会本部。そこは各クラスで選出された文化祭実行委員たちが仕事をする場であり、そして実行委員のサポートをする生徒会役員たちが文化祭期間中に作業をする場所でもあった。

 複数の人影が歩き回り、あるいは机に向かって作業を続ける中、俺は開かれた窓から室内を見回し、一目で悠里の姿を目に捉えた。

 電卓をたたきながら書類を書き進める悠里。完成した書類は次々とわきに積みあがっていく。それが何の作業かはわからなくても、悠里が楽しく作業していることを、そして男が好きだと告白した悠里をその場が受け入れていることだけは強く感じられた。

 口元に微笑を浮かべながら作業をする悠里は、その教室の中で異物ではなかった。歯車の一つとして存在する悠里に、ぶしつけな、あるいは好奇心むき出しな視線は向けられてはいなかった。

 悠里の行動が勝ちとった信頼が、そこにあった。


 悠里と同じように作業をしていた女子生徒が――確か生徒会執行部の一人だったはずだ――書類を手に悠里へと近づいていく。手渡された書類を見て素早くコメントする悠里だが、その女子は書類や悠里の言葉など気にしていなかった。その顔はまっすぐに悠里へとむけられていて、その眼には隠し切れない熱と、憎しみの光があった。

 ああ、たぶん彼女は悠里のことが好きだった女子の一人だ。昨日の悠里の告白は、彼女にとって大きな裏切りで、そして悠里は好きな相手から一転して、憎しみの対象になったのだと思う。


 そんな状況に悠里を置いてしまっている俺自身に、腹が立って仕方がなくて。

 何かを言おうとした俺は、けれど悠里がふと廊下側に視線を動かそうとしたのを感じて、あわててその場に座り込んだ。

 バクバクと心臓が音を立てていた。

 足音は、近づいては来なかった。

 一分か、二分か、あるいは五分ほどの時間が経っていたかもしれない。


 俺はその間、廊下で教室側の壁に背中を預け、柱の一つの陰になるような場所に座り続けた。


 悠里は、俺が見ていたことに気づいただろうか?もし俺のことを気づいていて、そのうえで俺が避けるように姿を隠したことを見ていたら、悠里はどう思っただろうか。傷ついたか?あるいは、臆病な俺に共感して苦笑でもしたか?

 背中に当たる壁が、ひどく冷たかった。


 いつまでもこうしているわけにはいかないと、俺はゆるゆると立ち上がろうとして。


「久世君はいますか?」


 教室の入り口で悠里のことを呼ぶ男の声が聞こえた。俺は再び柱の陰に隠れた。

 こっそりと端から悠里と男子をのぞき込もうとして、俺は再び柱の陰に舞い戻った。

 そこには、二人の女子の姿があった。クラスメイトの斎藤と、ドレス姿の女子――たぶん先ほどの声は、その人物のものだ。


「何かな……君か」


 声と容姿が一致せずに困惑している俺の耳に、悠里の声が届いた。男子にしては高めの声は、けれど一瞬にして感情のこもっていない、機械のような響きのある声音へと変化した。その声の理由は、女装男子か、あるいは斎藤か、どちらなのだろうか。


 場所を変えよう――そう言って歩き出した悠里がこちらへ来ないように祈り続けた。祈って、そして動揺した。

 悠里のことを盗み見て、隠れて、来ないでくれと祈る――俺はこんなに、情けない人間だったらしい。


 幸いにも足音は遠ざかっていき、三人の背中は廊下の反対側へと向かっていった。

 俺はいてもたってもいられなくて、姿の消えた三人の後を追って歩き出した。

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