28 吐露

 文化祭倉庫――正確には生徒会準備室と呼ばれるそこは、けれど文化祭に必要な器具で埋め尽くされた、倉庫という言葉が似あう狭苦しい灰色の部屋だった。

 鍵のかかっていないその扉を開けば、わずかにくぐもった玲音と悠里の言葉が聞こえてきて、私は体を硬直させた。


『……悪い。悠里とは、付き合えない』


 清々しい思いや覚悟なんて、一瞬で吹き飛んでしまった。

 嘘だと信じたかった。けれど続く言葉が、沈黙が、重苦しい空気が、空耳なんかじゃないことを私に突きつける。

 固まっていた私は、分割して体育館へと移動する最後のクラスの移動開始を告げる校内放送を聞いて硬直から立ち直り、慌てて薄暗い教室へと滑り込んだ。扉を閉めれば、校内に響いていたはずの放送はぱたりと聞こえなくなった。かつて音楽室だった場所に仕切りを作って生徒会室や倉庫を作った――どこかで聞いたそんな話を思い出した。


 ゆっくりと、抜き足差し足で部屋の中を進む。部屋の左奥、開かずの間に続く扉の前へと、近づく。


 そうして扉わきに置かれていた暗幕の山の陰に隠れるように膝を丸めて、私は玲音と悠里の言葉を聞き続けた。それは、「二人きりで愛を確かめあう」というジンクスに倣った行為だったけれど、たぶん無駄な行為だった。

 玲音と悠里の思いはもはや決定的に食い違っていて、二人が付き合う未来なんて、想像もできなかった。


 ぎゅっと唇をかみしめて、私は扉越しに二人の声を聴く。静まり返った部屋は、二人の荒い息遣いまで私の耳に届けた。


 両手が震えた。ひどく寒く感じた。盗み聞きをしているという罪悪感が私を苛んでいく。昨日から、こんなことばっかりだ。

 それでも、この場から逃げ出そうとは思わなかった。私は玲音に思いを伝えたくて、けれど悠里が振られたから告白する、なんてことは許せなかった。それに何より、けんか別れに終わってしまいそうな二人を止められるのは私だけだ――そんな正義感を心に燃やしていたりもした。


『俺は自分が気持ち悪くて、自分が嫌いで――』


 やめて、とそう叫びたかった。玲音の言葉を、止めたかった。玲音は、そんな人じゃない。玲音は気持ち悪くなんてない。おかしくなんてない。そう言ってあげたかった。少しでも玲音の気持ちを和らげてあげたかった。それに何より、私が好きだった玲音が、自傷行為をするように言葉で自分を傷つけていくのを聞いているのが、堪えられなかった。

 心が、泣いていた。私の心が、玲音の心が泣いていた。

 その叫びを、悲鳴を、私は聞きっぱなしにできなかった。


 開かずの間で、二人きりで愛を確かめ合う――それがどうしたと、浮かび上がった言葉をねじ伏せる。今、今行かないといけない。今止めないといけない。今じゃないと、すべてが手遅れになる。


 一瞬で息が上がった。苦しくて、痛くて、つらくて、そしてそんな状態に玲音がおかれているという事実が、私の心を傷つける。


 叩くように扉を開いて、私は玲音と悠里がいる部屋へと飛び込んだ。


「やめて!」


 お願いだからやめて、これ以上、自分を傷つけないで。その言葉を、続けないで。

 狭い部屋で小さくこだました私の悲鳴が消えて行って。

 呆然とした顔をこちらに向ける玲音と悠里と、私の目があった。


 玲音も悠里も、泣いていた。辛くて、悲しくて、痛くて、どうしたらいいかわからない。傷ついて休む場所を見つけることもできない、迷子のような顔をしていた。

 胸が痛んだ。まるで私を駆り立てるように、ドクン、ドクンと、心臓が強く脈を刻む。息を整える。胸に手を当てる。

 きゅっと握った拳には、初音の手のぬくもりが感じられた。行ってらっしゃい――私を信じ切った初音の顔が思い浮かんだ。


「私は、私は……玲音が好きだよ」


 その言葉は、するりと私の口から零れ落ちた。まるで、そうすることが自然であるように、私は玲音に向かってほほ笑んだ。


「私は、玲音の努力を知ってるよ。いつも掃除が終わったら一目散にグラウンドに向かって、すごい早さで着替えをして、準備して、一番に走り始める玲音を知ってるんだ。慣れないアルバイトを懸命にこなしてた玲音も知ってる。すごく格好良かったよ。……数学が苦手で、四苦八苦しながらも逃げずに向き合ってきた玲音も知ってる。この学校に入学するために、中学三年生の頃、毎日遅くまで図書室に残って勉強してたよね」


 いくつもの玲音が、思い浮かんだ。大切な私の記憶。頑張ってきた玲音。そんな玲音の背中を見ていたから、その強さを知っていたから、私はいやがらせされてもくじけずにいられた。


「それに、玲音の弱いところも知ってるよ。中学の頃、体育大会のリレーのアンカーで抜かれて、校舎の陰で一人悔し涙を流していたよね。悠里に告白されて、どうしたらいいか真剣に悩んでいた玲音のことも知ってるよ。それから、男が好きだってことを言いふらされるんじゃないかって不安で、私のことをにらんでいたことも、知ってるんだ」


 でも、それが玲音だ。玲音は、そういう人だ。

 そして、


「そんな玲音が、私は好きだったよ」


 正直、今も夏休み前のように純粋に玲音のことが好きだとは、言えなかった。だから、過去形。思いに嘘はないけれど、けれど少し変わってしまった私の思いの残り火を、けれど玲音の心に火をともすために、私は玲音に告げる。


「だから、だからさ。自分のことが嫌いだなんて言わないで。玲音は気持ち悪くなんてない。悠里の隣に立つ資格がないなんて、そんなことない。玲音はちゃんと、悠里に並べるすごい人なんだよ」


 玲音の顔が、ゆがむ。いくら泣いたって枯れることのない涙が、目ににじんだ。

 ゆがんだ視界の中を、つぅっと澄んだものが流れていく。玲音の頬を、一筋の涙が伝った。

 震える口は固く引き結ばれ、けれど玲音の目には、強い光がともっていた。ああ、これで玲音は、大丈夫だ。


 私はそんな判断から、視線をずらす。左に立っていた玲音から、右側へ。呆然と私の言葉を聞いていた悠里へと、視線を移す。「何だ?」と細められた目が私を射抜いた。


「……私ね、悠里も大切だよ」


 恥ずかしいことを言っている自覚はあった、けれど言わなければならないと思った。私は玲音に幸せであって欲しいけれど、それは他の人を見捨てる理由にはならないから。玲音にとって悠里は大切で、悠里以外の人も大なり小なり必要な存在で。だから、玲音のことで愚痴を言っていた陸上部の男子たちにもう少し言い方があったんじゃないかって、今では後悔している。

 パクパクと口を開閉する悠里を見ていると面白かった。むくむくと湧き上がるいたずら心を何とか押しとどめる。今は、そんな時じゃないんだから。


「正直尊敬してるんだ。だって、私には何もないから。玲音が好きで、でも玲音との関係が取り返しのつかない状況になるのが怖くて、変化が嫌で逃げ出したロクでなし。やりたいことなんてないし、頑張りたいことだってなくて、ただ何となく日々を送っているだけ」


 私は、空っぽだ。私のアイデンティティは、たぶん玲音のことが好きだということだけ。私という存在は空っぽで、だからこそ玲音や悠里が酷く眩しく映った。

 何を言っているんだと、そう言いたげに悠里がクシャリと顔をゆがませる。ぐしぐしと袖で目元を拭う。涙は拭えても、充血した目と赤くなった目尻が、泣き跡をくっきりと残していた。


「悠里って、人前に立って何かをするのが苦手だったよね。小学生の頃はいつも誰かに隠れるようにしてた。多分、女の子みたいって言われた顔をみんなに見られたくなかったんだよね?でも、変わった。前に進みだして、トントン拍子に生徒会役員に当選して、毎日遅くまで学校のために活動していた。気配りができて、みんなに優しくて、玲音が惚れるような、悠里はそんなすごい人だよ」


 だから。だから、前を向いてよ。たった一度失敗したくらいで、玲音に告白を受け入れてもらえなかったからって、落ち込まないでよ。悠里ならできるよ。前を向いて、歩いていける。だから――


「……僕には、君がよくわからないよ」


 私の言葉は悠里に遮られて、喉元まで出かかって止まった。


「……わからないって、何が?」


 まるで冷や水を浴びせられたようだと思った。途端に動かなくなった口を何とか動かして、私はそんな言葉をひねり出した。体が震えそうで、片手で腕を抱いた。

 気が付けば、体はひどく冷えていた。


「玲音から逃げ出して、それでもずっと玲音のことが好きで。遠くから見つめるばかりだったはずなのに、なぜか君は玲音が僕のことを好きだって知った。玲音から、そう言われたんでしょ?君に恋愛の観察眼があるとは思えないからね」


 開いた口がふさがらなかった。

 そんな私の様子を肯定と受け取った悠里が、ちらりと玲音を一瞥して、私に冷酷な視線を向ける。冷え切ったその目の奥が、けれどわずかに揺れていた。

 なんとなく、私は悠里が玲音の告白を聞いていたんじゃないかと思った。そう考えれば、悠里の焦りも、今の言葉の裏に込められた思いも、少しだけ理解できる気がした。

 悠里は、私と玲音が再び接近したのが怖かったんじゃないだろうか。


「あれだけ避けるように玲音から離れていた君がさ、一番に玲音の告白を聞かされたんだ。ねぇ、おかしいでしょ?おかしいんだよ。もし、その時花蓮じゃなくて僕自身に告白してくれていたら、こんなことにはならなかったのに」


「それ、は……」


 口が酷く乾いていた。悠里の刺すような視線から逃れたくて、私は何とはなしに玲音の方を向いた。

 そこには、歯を食いしばって堪える玲音の姿があった。これでもかと力が入った拳が、小刻みに震えていた。

 私と悠里が玲音を見る。その視線に気づいた玲音がごくりと喉を鳴らす。ためらうように一度口を閉じ、そして、ぎゅっと目をつぶった。


「……悠里に告白を受け入れてもらえない可能性を想ったら、怖くて告白できなかったんだ。情けないだろ?臆病風に吹かれて、思いの一つも告げられないとか、馬鹿げてるよな」


「そんなことない。私だって、もう三年以上言えずにいるんだから」


「ふぅん、じゃあ僕の勝ちだね。僕は五年前だから」


 ずい、と互いに身を乗り出した私と悠里の視線が交錯する。沈黙が訪れたのは、一瞬だけ。


「三年以上って言っただけで、小学生の頃にはすでに私も玲音を好きだったから!」


 悠里に負けたくはなかった。こんなことで競うのはおかしいとわかっているけれど、言わなければならない気がした。


「五年以上って言わない当たり、僕の方が早かったのは正解だろう?ほら、恋は早い者勝ちって言うよね?遅れた花蓮は僕に譲るべきなんだよ」


「だから告白は先に譲ってあげたでしょ⁉」


「譲ってあげたんじゃなくて、この期に及んで臆病風に吹かれたんだろ⁉」


「つまり私と玲音がお似合いってことだね?ありがとう!」


「そういうことじゃないよ。大体、玲音がアルバイトってどういうこと⁉僕はそんなの知らないんだけど」


「今年の夏に偶然入った喫茶店で玲音がバイトしていたんだよ」


「何が偶然なもんか。絶対調べ上げたうえで行ったんでしょ。中三の頃に毎日図書館に通って遅くまで残ってた~なんてことを知ってるストーカーが偶然なんて語るのはおかしいよね?」


「偶然は偶然よ!だいたい、悠里だって玲音を見るためだって言って、図書委員の仕事を代わりに引き受けてその時期図書館にいたでしょ!」


「あれは塾で忙しい生徒の仕事を代わってあげただけだよ」


「ダウト!彼女は悠里が笑ってない眼で仕事を変わるって迫って来て、頷くしかなかったって陰で泣いてたんだからね!ほんと、そういうところがあるから玲音の気持ちも理解できずにみんなの前で告白なんかしちゃうんだよ」


「告白をしなかった花蓮に言われたくないね。大体、みんなの前で告白する位に僕の思いが大きかったって証拠でしょ。この溢れんばかりの思いは花蓮にはないだろうね」


「私の方が大きいよ。私は玲音を愛しているからね。玲音を愛しているから、私は玲音が必要なんだよ」


「なにそれ?必要とか言ってる時点で玲音に依存する気満々だよね?大体、玲音を支えるのは僕なんだよ。僕が一番、これまで玲音を支えて来たし、これからも玲音の隣で玲音を支えるのがふさわしいんだよ」


「私の方がふさわしい!」


「いいや僕だね!」


「私が!」


「僕が!」


「ちょ、おい…………ほんと、ヤメロ……」


 ヒートアップしていた私の耳に届いたか細い声。動きを止めた私と悠里は、ギギギ、とさび付いた機械のように首をひねる。

 その先に、顔を両手で覆い隠してうなだれる玲音の姿があった。隠しきれていない耳は、一目でわかるほどに真っ赤になっていた。


「「可愛い」」


「可愛くねぇ!」


 叫ぶ玲音は、けれどやっぱり顔から手を離すことはなくて。

 私と悠里は顔を見合わせて笑った。

 おかしくて、愛おしくて、楽しくて、うれしくて、笑った。


 ああ、私はたぶん、こんな時間を求めていたんだ。


 玲音と何気ない言葉を交わして、そこには悠里もいて、小学生の時から変わらない時間を、求めていたんだ。


 変わらないものなんてない。自分自身も、玲音も悠里も、周りの環境も、全てが時間の流れの中で移り変わっていく。


 けれど今だけは、私と悠里はかつてのように笑った。

 そして私たちにつられて、ふっきれたように玲音も笑いだした。


 開かずの間に、私たち三人の笑い声が響いた。

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