第16話 How can I be Hilarious?
しばらく寝転がってボーッとしていると落ち着いてきた。もう一度だけ論文をチラッと見るとまた反射的に胸が苦しくなることを確認した。しばらく研究はしない方がいいのだろう。何日かしたら治ることを期待するしかない。
今はヒラリー・タームの初週だったが、マイケルマスの演習授業の最終回が二日後に予定されていた。演習授業は講義後にあるが、マイケルマスの講義の後すぐにクリスマス休暇に入ってしまうので、こうやって演習の最終回が次のタームの頭に行われることもある。
今日が演習レポート提出の締め切りだが、十二人のクラスで二人からしか送られてきていない。講義から時間も空いてしまったし、再びのロックダウンで生徒たちもモチベーションが保てていないのだろう。この分量なら明日だけで終わる。
実際、採点は特別楽しいわけではなくともなんとかなったし、解説も滞りなく終わった。これで一つの科目の全演習授業をやり切ったことになる。
一月の後半ごろから寮の人たちはパラパラと戻ってきていた。ロックダウン下ながら、移動に関する制約は前年よりも緩められていたようだ。どの制約がどの時点で解除されたかを全て思い出すのは困難なのだが、マスクを取らなければ、外でなら世帯外の人と会うことも許されていたと思う。
まずトーマスが戻ってきて、それからゲーマーの彼も戻ってきた。人が増えて、キッチンが荒れ始めていた。
言及していなかったかもしれないが、寮は家具付きで、食器も最初から十分にあった。ヨーロッパの賃貸は家具付きであることが多い。みんな濡れた食器をそのまま水切りの金属かごに入れていくのだが、上からどんどん重ねるのでいつまで経っても乾かない。二日に一回くらい棚から食器が全て消え、僕が根負けして全部再度拭いて戻す、ということが多かった。ベラと二人のときは量も少なく、彼女も特に不衛生な性分ではなくこれは問題にはならなかったが、四人になると問題だった。
もっと問題だったのは、スプーンやフォークなどのカトラリー類だった。注意して置かないとかごの線の隙間から落ちるので、多くのカトラリーはもはやキッチンの表面に置かれていた。それらが折り重なっているところは常時水溜りのようになっていた。この問題はクリスマス前にももちろん発生していて、そのときは僕がキッチンで見つけた穴あきボウルのようなところに置き始め、何となく他の人もそれに従っていたのだが、クリスマスが明けて全部リセットされてしまったようだった。
不衛生耐性のない僕がチキンレースに負けて働かされるのがうんざりしてきて、フロアのWhatsAppグループに長文でお前らいい加減にしろと文句を述べさせてもらった。その最後に「もし僕がイギリスの文化から照らして頭のおかしいことを言っているようだったら、ぜひ教えて欲しいです」と付け加えた。これはおそらくイギリスの文化に即した嫌味の言い方である。
すると唯一まだ寮に戻ってきていないジェイクからの「サトシ、お前は衛生的なだけで何も間違っていない、極めて普通のことを言っている」というメッセージがあり、イザベラも「ジェイクに賛成!」とのことだった。
他の二人は何も言わなかったが、以降はキッチンの衛生面は明らかに改善された。
数日後に寮に戻ってきたジェイクとちょうどキッチンで遭遇したとき、この話題になった。
「サトシみたいな奴がいるのは良いことだと思う」
「本気で言ってる?」
「いや俺はアメリカでしばらく暮らしてたこともあるんだけど、イギリスに戻ってきてイギリスの若者が本当に不衛生だってことが目につくようになって。あいつらはちゃんと誰かに言われるべきだよ」
「そういえば、あと一つ言わなかったんだけど、洗剤がいっつも流されずにこうやって食器に白くこびりついたままになってるのも汚いよね」
「え?これは洗剤だから綺麗だよ」
やっぱり僕はイギリスの文化がよくわからない。
二月に入り、少しずつ研究ができる精神状態になってきた。再発防止のために、自分の中で博士課程を通してのルールを決めた。土日は絶対に数学から離れる。平日でも、夕飯のあとは研究しない。といっても、ここから数ヶ月の間はそもそも週に高々三日くらいしか稼働していなかったと思う。
二週間に一回くらい寮の人たちで散歩にいっていたが、明らかに運動不足なので、VRゴーグルを買った。目当ては卓球ゲームだった。僕は中学の頭からかれこれ十年以上卓球を割と真剣にやっている。オックスフォードにも卓球部があるだろうとラケットを持ってきていたが、ロックダウンのせいでする機会はなかった。
ネット上でリアルだと評判だったEleven Teble Tennisというゲームをやってみると、コントローラーが実際のラケットより軽いこと以外は本当に現実さながらで楽しめた。ラケットの跳ね方やラバーの摩擦力なども調整できる。体より先に目が疲れるのだが、日に一、二時間オンライン戦に潜るようになった。
他の娯楽で言えば、この頃はオックスフォードの日本人会で麻雀大会が行われていた。もちろんオンラインで、天鳳を使ってやっていたが、十六人が集まり、一回戦、準決勝、決勝と二位以上の勝ち抜けでトーナメント方式で行われた。僕は決勝までいったが、決勝で四位になり景品は逃すことになった。勝ち負けはともかく、麻雀の後もさらに一局打ったり雑談をしたりと、気が紛れたと思う。
しかし、二月中旬の研究集会は最悪だった。運営上のトラブルはあまりなかったと思う。僕自身の発表もあり、それもなんとかなったのだが、オンラインで参加者のモチベーションも低く、全体的に質問の少ない集会になった。
そもそも僕はあまり人の学会発表を聞くのが得意ではない。日本語だとしてもそもそも数十分の間に他の人の研究を理解できるわけがないし、最初の五分くらいで置いていかれるのが常だ。自主ゼミのように逐一突っ込みながら話を聞いていけばついていけるが、時間の限られている発表ではそれも無理だ。細部については後で論文を読めばいいので発表を聞くときには大ざっぱな流れを把握すればいいが、それは別に興味があるなら発表前に要旨に目を通せばいい。僕にとっては、学会や研究集会の発表を聞くこと自体に意味があるとしたら、概要ではない細部のところで自分の研究に繋がるようなポイントがごく稀にあるかもしれない、ということくらいだろう。
これは研究集会自体に意味がないと言っているわけではない。研究者というのは一般に孤独である。特に数学のように理論的な分野では、周りの人には、何をやっているか、モチベーションからして理解されないと思った方がいい。下手したら、同じ国に自分の研究の理解者がいないことだってありうる。しかしほとんどの研究者は人間なので、意味がないことをやり続けることはできない。
だから、近い分野の研究者たちは、何ヶ月かに一回くらいは集まって、仰々しくも発表会をして、美味い飯を一緒に食べる。自分たちのやっていることには価値がある、という集団幻想を育てるのだ。ほとんどのそれが幻想であっても、そうやって維持されてきたコミュニティから時には本当に意味のあるものが生まれ、それが科学の発展を支えてきたんだと思う。
……というのは僕の偏ったものの見方なのだが、それを差し置いても共同研究が生まれるのは圧倒的に対面で行われる集会に決まっている。質問時間に聞けなかった、わざわざメールでは送れないような質問は、後で登壇者に聞けるかもしれない。対してオンラインの研究集会には、特に初参加の人間にとってはモチベーションの向上に繋がるようなものはない。開催文化や運営の知識の継承という意味では、開くことに意味はあるのだろうが。
この研究集会で、僕の幻想は育つどころか萎んでいった。
——ほとんどの人は、お互いの発表をろくに聞いてないじゃないか。同じ分野の研究者にすら興味を持たれなかったら、研究ってなんのためにやってるんだっけ?
税金まで使って。
こういったモヤモヤが影を落とし始める一方、研究はまた楽しくなり始めていた。一月に論文を投稿した数日後にハラルドが見つけてくれた文献を読むと、僕のやっているランダム凸包問題の亜種はランダム行列のコミュニティでも検討している人がいるらしい。
その亜種の論文にうまく工夫して僕の手法を適用とすると、その論文で結論を出すために置かれている技術的な仮定を全て取り外せる、つまり、その仮定なしでもその論文の結果を証明できるということに気づいた。
技術的な仮定、というのは例えば「京都に住んでいる人は琵琶湖の水を飲んでいる」という定理における「京都に住んでいる」の部分だ。ただしここでは細かい反論は認めないものとする。
さて、前述の定理は「琵琶湖疏水の存在」を用いて導ける比較的簡単な結果だ。しかし、ある人が例えば「琵琶湖に存在した水分子は河川による流出、蒸発、降水、水蒸気としての大気中の移動などを通して約百年で世界中の水源にまんべんなく行き渡る」ということを証明したとしよう。すると、「京都に住んでいる人」に限定せずとも、琵琶湖ができて百年目以降の人間なら誰でも琵琶湖の水を飲んでいることになる。反論は認めない。
「人が琵琶湖の水を飲んでいる」という形の主張に対し、琵琶湖疏水の存在を用いるか水の循環を用いるかで、人の属性を限定する必要の有無が大きく変わるわけだ。僕が気づいたのは、まさにこういう話だった。全く異なる手法を使っていたため、既存の論文の結果を大きく一般化することに成功した。これは嬉しい副産物だ。
一月末のはなんだったんだろう。研究はとても順調だった。
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