第2話 Before doing the maths
大晦日、十九時前。応援してくれるという両親との通話を終え、N先生に出願の意志を伝えるメールを書いていると、逆にN先生から「少し前までオックスフォードでDPhilをしていたAさんが東京でポスドクをしているから、色々教えてくれると思う」と追加で連絡先を教えてくれる。
Aさんにメールをするとすぐに返事が返ってきて、年明けに東大の近くのカフェで会うことになった。
学位留学というものは、普通何ヶ月も、下手したら何年も時間をかけて準備するものだ。それを一ヶ月足らずで出願まで持っていかないといけないのだから、必要最低限の対策しかすることができない。
留学に必要なものは三つ。学力、経済力、語学力である。
学力に関しては、これが受験における本質であるはずなのだが、とりたてて留学のために準備する類のものではない。国内の大学であっても、ある程度真面目にやっていれば身に付くものだ。もちろん、ある教授のもとで学びたいという意志があり、その教授の専門に精通とまではいかなくとも入門していることが望ましい。事前に出願先にコンタクトをとるのが普通だ——これは国内の大学院進学でも同じではあるが。とりあえず論文を読んだ二人の先生にメールを送っておく。
もう少し形式的なところでは、出願における重要な書類は僕自身の志望動機書(Statement of Purpose)と三通の推薦書(Reference Letter)である。
推薦書は東大の学部・修士の指導教員それぞれ一人ずつにお願いするとどちらも快諾していただき、N先生を含めて三通を確保した。N先生は内部の人間だが、別のグループである確率解析グループに出願する分には問題なさそうということだった。推薦書に関して自分にできることはほとんどない。
志望動機書は、A4のPDFファイル二ページ以内ということ以外は様式自由。ネットでも色々と調べたが、「先生に見てもらいながら何十回も書き直した」などと実現不可能そうなアドバイスが載っており、諦めて思うがままに書き出すことにした。
—— I would like to study at University of Oxford for DPhil in Mathematics. The motivation is obvious. I am truly interested in mathematics, especially in stochastic analysis and its applications in numerical analysis and data science. My passion is to understand and handle infinite/continuous information with randomness using finite data.
N先生にも一度だけ見せてコメントをもらったが、イギリスの博士課程の立ち位置に少し気をつけなければならなかった。
日本の教育システムでは、学部四年、修士二年、博士三年というものが標準的だ。これはアメリカに倣っていて、アメリカでは、例外もあるが基本的には学部四年、修士と博士は一括で五年のPhDということになっている。しかしイギリスの場合、学部三年、修士一年、博士三、四年と学部・修士が非常に短い。これはアメリカ風のリベラルアーツ教育をイギリスが採用しておらず学部で入ってすぐに専門教育が始まるのもあるが、より大きくはイギリスの修士はほとんどが研究学位(research degree)ではなく教育学位(taught degree)であることに起因する。
オックスフォードにはMPhil(Master of Philosophy)とよばれる研究を行うための2年間の修士課程プログラムもあるのだが、僕の周りのほとんどはMSc(Master of Science)という授業と試験がメインの学位であり、日本の修士課程のように研究が主目的になっているものではない。
この違いにより、イギリスの博士課程は研究経験を大っぴらには求めておらず、日本の博士課程入試のように具体的な研究計画を準備していく必要はない。詳細な研究テーマの記述は、むしろ逆に指導教員側のテーマを受け入れる気がないのではないかと受け取られかねない。
とはいえ、逆に長く研究をやっているということは強みでもある。この時点で僕の成果としては一本の出版論文と三本の投稿中の論文(プレプリント)が世の中に公開されており、この研究実績、大学での成績と数学オリンピックでの経験をもとに一ページ半を埋めることになった。N先生にコメントされたのは僕が「研究計画」と銘打ったセクションで、ここでは具体的な研究上の興味に加え、他の研究にも興味があるというアピールを盛り込んでおいた。
1月5日。Aさんと無事カフェで落ち合う。自己紹介もほどほどに、大学院入試の話に移る。
「君は論文もあるわけだし、条件付きのオファーをもらうこと自体はそこまで難しくないと思う」
「条件付きっていうのは?」
「日本人だと英語のスコアを入学までに達成するっていうのが多いんじゃないかな。あとは資金を学生側で確保するならってやつもあるね」
「N先生は基本給料が出るって口ぶりでしたけど」
「専攻によるかもしれないけど、自費とか国内の奨学金で留学してる人も結構いると思うよ」
「そうなんですか……」
オックスフォードの学費は高い。数学科の博士課程の場合、当時のレートでは2020年秋からの学費は年間約300万円であった。執筆時点では円安に加えてさらに値上がりし、2024年秋からの年額学費は500万円にものぼる。ただし、英国内の学生はこの三分の一程度で済む。僕の出願時点ではイギリスがまだEUに属していたため、ヨーロッパ圏の学生も英国内の学生と同じ金額設定だった。逆にいうと、一人当たりのコストが高くなるため、ヨーロッパ圏外の学生は現地で奨学金のサポートを受けにくくなるのである。
「だから日本で船井とか柳井とかの奨学金を取っていく人が多いんだけど、一応出願するとオックスフォードが大学としてやってる奨学金に自動で応募されるようになってて」
そう言いながらAさんがノートパソコンを開いて奨学金がいくつも書かれたサイトを見せてくれる。
「このClarendonっていうのはもともと各学科の首席入学者がもらう奨学金で、これが貰えたらすごくいいんだけど。あと日本人限定のやつだとオックスフォード神戸っていうのがあって、年に二人くらいもらえるはず」
「二人ですか……」
「基本的に自分からアクションを起こして応募できるオックスフォードの奨学金はあまりないかな、いくつか例外もあると思うけど」
「ありがとうございます」
帰宅してお礼のメールをすると、Aさんが日英の奨学金情報についてのサイトをいくつか送ってくださった。
結局のところオックスフォード側の奨学金に期待するのはかなり分が悪い賭けになりそうなので、日本での海外留学生向け奨学金を探すことにする。
しかしこれが全然見つからない。
欧米への海外留学は基本的に秋に始まるのだが、出願はその前の冬に行われるのが一般的だ。そして、ほとんどの海外留学支援の奨学金は、出願シーズン前に応募締め切りがあるのだ。だから、これからそういった奨学金に応募しても、それは2020年秋ではなく2021年秋に入学する人向けのものになってしまう。
両親も、流石に自費での留学は現実的ではないだろうと言う。語学が最大の障害だと思っていたが、そうではなかった。
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