第3話 I can't speak English
オックスフォードの先生に送ったメールの返事が届いていた。若手の先生で、四十歳前後の准教授。もう一人の返信はなかった。
「連絡ありがとう。とても良いと思う。面接でお互いの共通の興味について話そう。面接ではラフパス理論やマリアバン解析の専門知識は求めないから特に準備する必要はない。基本的な解析学や確率論について少し聞くとは思うけれど」
あっさりした内容のメールだったが、安心感があった。とりあえず出願に集中すれば良さそうだ。
金策については、二つの可能性が浮上してきた。
一つは、ある機関が科学オリンピック代表候補者向けの奨学金を立ち上げており、これは高校時代に別の科目のオリンピックに出ていた友人に教えてもらった。まだ今年度の募集は出ていないが、まだ去年立ち上がったばかりで該当者も少ないものなので融通が少し効くかもしれない。
急いで連絡すると「次の募集開始は春だが、次の秋からの留学生が応募してくれても構わない」旨の回答だった。もちろん貰えると決まったわけではないが、可能性が一つでも残っていたことはありがたい。
もう一つは、東大の学内向け奨学金だ。研究科の国際交流チームに話を聞きに行ってみると、今応募できるのはほとんどが東大に籍を置いたままの交換留学生向けの奨学金だが、一つだけ海外大に籍を移す学生でも応募できるものがあるという。これは人工知能分野の研究をしている大学院生に的を絞ったものだったが、楽観的に考えれば応用数学は広義のAI研究だ。これは締め切りが出願締め切り直後だったので、こちらの応募書類とオックスフォードの出願書類とを並行して処理することになった。
語学力。英国留学によく使われる語学試験は、TOEFLの他にもIELTSという主にイギリス英語向けのものがある。機械化が進んでいて返事のない画面に向かって話しかける形でスピーキングをテストされるTOEFLに比べて、IELTSのスピーキングは試験官との会話という側面が強い。IELTSは9.0を満点として0.5点刻みでスコアが算出され、オックスフォード数学科の博士課程ではTOEFL iBT 100点あるいはIELTSのスコア7.0が要求される。これは学部生や他の文系学科よりは低い基準だが、英検1級相当以上のレベルだと言われている。
ハタチの頃に受けたTOEFLでパソコンの画面相手に全然喋れなかったこともあり、IELTS 7.0を目標に勉強することにした。現状を知るために1月末の試験に申し込んでおく。
僕は英語が嫌いである。英語で論文を読み書きすることに慣れ始めてはいたが、それでも日本語でやった方が何倍も効率がいい。何度も聞き返し、結局聞き取れていないのに相槌を打ってしまう。子供のような語彙で必死に喋っているとき、そんな自分を馬鹿にしているもう一人の自分がいる。
そんな姿勢で本当にモチベーションを保ってスコアを上げられるのか半信半疑ながら、少なくとも一人では無理だと英会話教室を探す。その中で、二、三ヶ月の短期集中を謳うスクールを見つけた。どうも、講師とのミーティングは週一回だが毎日数時間分の学習メニューを管理してくれ、そちらがメインだという。
「科学的アプローチ」であることをあまりにも押し出しており若干胡散臭さを感じながらも、無料カウンセリングを経て良さそうだと思ったので始めることにする。いくつかの教材が家に届く。
IELTSの試験はリスニング・リーディング・ライティング・スピーキングの四技能に分かれていて、それぞれが0.5刻みの9.0点満点で採点される。四技能の平均点を0.5点刻みになるように切り上げ、最終スコアが計算される。たとえば、大学受験とさして変わらないリーディングで8.0が取れれば、他の技能が6.5でも最終スコアは6.875を切り上げて7.0になるわけだ。
リーディングが足を引っ張らないことを見越して、短期間で点数の上がりそうなリスニングとスピーキングに注力することになった。基本のメニューは英単語帳・シャドーイング・瞬間英作文となる。毎日の学習メニューがオンラインのスプレッドシート上で共有される。単語帳は語学学習においてお馴染みだが、大学受験で聞いたこともないような単語をいくつも覚えることになり一筋縄ではいかない。
中学の頃にシャドーイングを英語の授業で少しやったことはあったが、あまり自主的にやることはなかった。IELTSの過去のリスニング教材を聞きながら、少し遅れて自分でも発音する。何日か同じ音源を反復し、最初は会話文が書き下されたスクリプトを見ながら、最後には何も見ずに音だけで。数日で自分の能力の劇的な変化など感じようもないが、少なくとも特定の音源をほぼ覚えることによる達成感はある。あとはこの反復によってリスニング能力や発音が向上することを信じて淡々とやり続けるしかない。
瞬間英作文というのはライティングの対策ではなくスピーキングの対策である。日本語の文章をパッと見て瞬時に英語に置き換える練習をする。最初の方は例文も短く使う文法も決まっており簡単だが、だんだんと長く複雑になり難しくなる。パッと訳せなかった例文はできるようになるまで何度も復習する。週一のミーティングで出題してもらい、学習範囲が定着しているかを先生にチェックしてもらう。
毎日三、四時間をこれらの学習に充てる。中高時代であっても、毎日こんなに英語に取り組んだことはなく、時には始めるのが遅くなって日付が変わることもあった。しかし、先生から指定された学習時間だけは一度も破らなかった。
書類をかき集めてなんとか出願を終わらせた後、月末のIELTSの試験日がやってきた。ようやく英語学習のルーティーンに慣れてきた頃である。飯田橋駅から江戸城外濠沿いを歩いた先にテストセンターはあった。直前まで耳を慣らせるためにリスニング教材を聞き続ける。少し時代が戻ったかのような景色と耳から入ってくる情報がやけに不釣り合いだった。
まず午前中にスピーキングのみの試験があった。試験官と軽く自己紹介をして、試験が始まる。IELTSの試験内容は公開してはいけないので、実際の問題をここで書くことはしないが、ハズレを引いた。
スピーキングの試験はもちろん日常会話における英語でのコミュニケーション能力を見られているのだが、当然話題によってコミュニケーション能力は変わってくる。誰だって自分の趣味の話になれば饒舌になる——極端な話数学についてならば英語であっても大抵の試験官より流暢に話せるだろうし、イギリスの歴史の話なんてされた暁にはお手上げである。だからそういう差がつくような問題は出ないと思っていたが、出題されたのは次のような問題だった。
「軽自動車と高級車をどちらか一つ買うなら、どちらがいいか理由とともに述べてください」
残念ながら車には興味がないし、買う予定もない。そりゃお金があれば高級車を買えばいいんだろうが……。そもそもこれは英語力を問う試験になっているのか?と言うような思考が頭の中を支配して、ほとんど自分のスピーキング能力をアピールするに至らなかった。最後の質問もこんな感じだった。
「駐車場の安全性について、どう思いますか」
どう思う、どう思うかって?車上荒らしとかってこと?そんなこと考えたこともない、日本では犯罪は全然身近じゃないですからね。お宅の国は知りませんけどね。そりゃAIとかが発達して駐車場ないだけでも監視カメラと自動警備システムで守れるようになったらすごいとは思いますけどね。でもそれ駐車場に限りますか?あー確かに駐車場ってのは人々が財産を剥き出しで置いてる結構珍しい場所ですもんね。その意味では明るい場所なのかとかそういうのも考えて駐車場選んだ方がいいのかもしれないですね。そもそも自分ちに車庫があるのが一番ですがね。例えば東京みたいに都会だとそうもいかないかもしれませんけど。でも東京だったら車を持たないで良いという話もありますね。
今でこそ分かるが、全く興味がない話題であっても、英語がある程度運用できる場合にはこう言えばいいのである。当時はスピーキングを世間話の場と捉えることが全くできず、質問を正解のあるクイズかのように捉えてしまっていた。その結果、考えたこともないような質問に対して、僕はフリーズしてしまった。
喋らない——これは、スピーキングの試験において、最もやってはいけないことである。
カフェで昼食をとり、午後の試験を受ける。スピーキング以外は割と実力どおりだったと思う。テストセンターのパソコンを使って受験したが、リーディングとリスニングは紙でやるよりも少しやりにくいなと感じた。
二月に入って、IELTSの結果が返ってきた。リスニング6.0、リーディング7.5、ライティング6.0、スピーキング5.5。結果6.5点。0.5刻みで考えればあと一段階ではある。しかし、全体で7.0はおろか6.5を超えているのがリーディングしかない状況はまずい。すべてを改善しなければならない。
そんな折、オックスフォードの先生からメールが届いた。
——面接は三日後とします。
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