第4話 Fingers crossed

 面接の日、僕はオーストラリアにいるはずだった。中高の同級生の卒業旅行に参加するためだ。出願の際に都合が悪い日程を書く欄があって、そこに旅行中の日程だけは避けてもらえるように書いていたのだが、あまり意味はなかったらしい。

 Skype面接なので旅行先から参加することも考えたが、現地のWiFiトラブルやフライト遅延などのリスクを考えて、慣れている東京のアパートから参加する。旅行には飛行機を遅らせて面接の翌日から合流することにした。


 面接当日。あと二時間ほどで開始というところで、一応スーツに着替える。修士課程の時の大学院入試はカジュアルな格好で参加したが、もしかするとオックスフォードはにうるさいかもしれない。

 流石に緊張している。面接の準備の必要はないと言われたが、学部レベルの確率論のおさらいくらいはしておこうかと、伊藤清の『確率論』を取り出す。確率論の基礎的な概念を扱っているのだが非常に情報量が多く読むのが大変な本で、学部二年の頭から二年半をかけて友人たちと輪読をした。分厚い輪読ノートは今でも宝物である。僕は数学科にはいかなかったので、現代的な測度論的確率論の知識はほとんどがこの本を読む過程で吸収したものである。しかし、研究では確率微分方程式こそ頻出するのこの本に載っているような内容を直接扱うことは少ない。

 ページをパラパラとめくって、目に入った定理が説明できるか自問していく。大数の法則、中心極限定理、停止時刻、マルチンゲール、任意抽出定理。英語だとoptional sampling theoremだったよな。ここまでは大丈夫。ページをめくる。

 ドゥーブの上渡回数定理——手が止まる。これなんだっけ。あ、マルチンゲールがジグザグする回数の期待値を抑えるやつか。マルチンゲール収束定理の証明に使うやつ。上渡回数、上渡回数って英語でなんだ。検索するが出てこない。

 ——そうだ、あの本があった。David Williams『Probability with Martingales』を開く。これはやさしめの確率論の洋書だが、マルチンゲールの性質を使って色々な確率論の基本事項を証明していく一風変わった本だ。目次を目でスキャンしていく。

 Doob's Upcrossing Lemma ——あった、これだ。忘れてた。それにしても上渡って単語、upcrossの直訳だな。他で使わないし。

 あとは大丈夫だろう。マルコフ過程、連続時間確率過程ときて確率解析はもう随分研究で使って慣れている。


 面接官はメールを送った二人。面接開始時刻の二分前、片方のSkypeから顔文字のスタンプが届く。随分カジュアルだ。チャットで返事を返す—— Hello. I am ready.

 通話がかかってくる。出ると先生二人が一つのパソコンの前に並んで座っている。ちょっと狭そう。

「やあサトシ、聞こえるかい?」

 面接が始まった。


 志望動機をさらっと聞かれる。Skype越しの英語に苦戦し何度か聞き返しながらも答えていく。大ボスのような雰囲気の年上の先生が主に会話を進めていく。手元にあるのは僕の志望動機書だろうか。

「結構色々勉強してるようだね。面白かった授業とかはある?」

「そう……ですね。僕は工学部出身なんですけど、プロフェッサー・クスオカが確率解析の授業をしにきてくれたことがあって、それはとても面白かったです」

 プロフェッサー・クスオカ——楠岡成雄先生は、日本の確率解析の大家で、この先生たちとも非常に分野が近い。応用分野にも造詣が深く、手法の一つは「楠岡近似」として広く知られている。僕が学部三年の頃、東大数学科の名誉教授として工学部に出張で確率微分方程式の講義をしにきてくださっていた。一般的な工学部の三年生には少々難しい内容だったが、ちょうど伊藤清の教科書を読んでいた僕はとても楽しませてもらった。

「クスオカか、それはいいね。じゃあ確率過程とかは好き?」

「そうですね、マルチンゲールとかの理論は面白いと思います」

「じゃあマルチンゲール収束定理はどうやって証明する?」

 世間話のような気分になって油断していた僕は、突然数学の質問になって少々びっくりしてしまった。少し冷静になって考える。むしろラッキーじゃないか。さっき復習しておいて助かった。

「Upcrossing Lemmaは仮定していいですよね?」

「もちろん」

 Upcrossing Lemma ——上渡回数定理を仮定すれば証明は簡単だ。任意の有理数ペアを固定すると、その間のジグザグの回数の期待値は定理から有限になる。だから考えている確率過程の上極限と下極限がそのペアのにくる確率はゼロだ。あとはいつも通り有理数の稠密性と可算性を使えばいい。

 試験官の先生方は僕の説明に満足したようだった。


 いくつか質問が続いたあと、若い方の先生が口を開く。

「確率過程の話をしているし、フィルトレーションの定義も教えてくれる?」

 フィルトレーション、あるいは増大情報系とは、時間が進むによって明らかになってくる場合分けを数学的に定式化したものである。例えば、一つのサイコロを転がす試行を繰り返すことを考えると、10回目の試行が終わった時点で、出た目によって6の10乗通りのに分岐している。しかし、11回目の試行についてはまだ分からない。どの世界線が選ばれるかは分からないが、試行回数に応じてどう分岐していくかの法則はサイコロを一度も振らなくても分かる。

「はい。フィルトレーションとはシグマ代数の列で、時間添字に対して単調増加なものです」

「普通もう少し条件追加するよね?」

「右連続性ですか?連続時間の場合はそうですね」

「それもあるけど、もう一つ」

「うーん……あ、完備性!」

「そうだね」

 よかった、と思った瞬間、しばらく喋っていなかった教授が口を開く。

「完備性はダメだ。絶対に仮定しちゃいかん」

 若手の先生が返答する。「なぜ?仮定するのが普通でしょう」

「ダメだ。完備性を仮定したせいで大変なことになった論文もある」

 ——こうして口論が始まり、僕は十分近く画面の前で苦笑いを続けていた。参加しようにも、二人とも早口になり、何を言っているか聞き取れない。そういえば、完備性の仮定がない教科書があって何が違うのか他のと比べたことがあった気がするな、結局どうだったんだっけ……。

 今は面接中だからこれは後で我々だけで話し合っておく、と二人が再度こちらを向いたあとは、またいくつかの質問があった。確率論以外にもいろいろな話を聞かれ、リー代数についての質問で一つ、プログラミング言語についての質問で二つ、答えられなかったものがあった。とはいえ、総じて悪くない出来だったと思う。


 開始から四十分ほどが経過し、面接が締めに入る。年上の教授が話す。

「君みたいな生徒にはおそらくオファーすると思うが、奨学金の問題があるから確約はできない。ヨーロッパ内の生徒の枠は結構あるが、それ以外の学生の予算は限られてて、数学科内でも取り合わないといけないんだ」

「奨学金なら日本側で取れるか今動いているところですが」

「まあそれも最終手段としてあるが、研究者を目指すならこういうお金は勝ち取っていかないといけない」

 最後に若い方の先生に英語のスコアは取らないといけないよと念押しされ、五十分足らずで面接が終わった。


 直後にオーストラリア旅行があったのは気が紛れてよかった。ケアンズとシドニーを満喫した。旅行前から少しずつ新型コロナが話題になっていたが、まだそれほど深刻な雰囲気ではなく、むしろその時期のオーストラリアでは大規模な山火事による大気汚染の方が問題視されていた。滞在中、ダイヤモンド・プリンセス号についての報道が少しずつ世間をざわめかせていった。

 シドニーからの帰路、台湾での長距離乗り継ぎ中だった。シドニーからの深夜便で寝不足だったが、メールの着信通知を見て目が覚める。オックスフォードの教授からだ。

 ——受験してくれてありがとう。9月からのプログラムにぜひ参加してほしい。

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