第5話 Can you graduate?
受験の際、実は二つのコースに同時に出願していた。
片方は、CDT(center for doctoral training)と呼ばれる政府や企業からお金が出ているプログラムで、オックスフォードの数学科では確率解析グループが特別に予算を集めて学生を取っている。このプログラムでは基本的には数学科に所属することになるが、一年目にはインペリアル・カレッジ・ロンドンと合同のコースワークがあり、それ以降も出資企業との共同研究をベースとして進んでいく。一年目は授業を受けるのが基本となり、トータル四年間のプログラムになっている。
もう一つは、普通の数学科の博士課程(DPhil)で、企業との共同研究といった要求は少ないが、CDTに比べて奨学金の枠が少ない。こちらは三年間のプログラムである。実際に三年で卒業する人はほとんどおらず、五年目に突入する人も少なくないということは、この時点では知るよしもなかった。
2020年においてはむしろ、オックスフォードではなくもう一つの卒業が差し迫っていた。
先に合格通知をくれたのはCDTで、共同研究先の候補企業に履歴書を渡しても良いかとのことだった。企業の出資によって金回りの良いプログラムで、四年間の学費を全額負担してくれる上に給料も出る。より自由に研究ができるということでDPhilの方が志望度は高かったが、とりあえず留学はできそうで安心していた。
それから二週間ほどして、DPhilの方からも合格通知が来た。なんと年始にAさんが言及していた——元は首席入学者のためだったという—— Clarendon奨学金を受け取れることになったという。これは完全な憶測だが、二月の面接での口ぶりから察するに、数学科全体で誰をどの奨学金に割り当てるかの調整に時間を要したのだろう。
この結果は願ったり叶ったりであり、DPhilの方で話を進めてもらうことになったのだが、合格通知書には続きがあった。
——七月末までの修士号取得および必要な英語のスコアの達成を条件とする。
現在は三月であり、僕は修士一年だった。このままいくと、修士号を取得できるのは翌年の三月になってしまう。
欧米の大学の一年は秋から始まる。日本では春からなので、日本人が海外の大学や大学院に入学するときは半年間のギャップイヤーを設けるのが普通である。僕と同じタイミングで東大に入学し、その半年後に東大を休学や中退してハーバードやオックスフォードに入学した人たちを知っている。
大学院留学であってもそれが普通で、修了後に浮いた半年は元いた研究室で研究員として雇ってもらったり企業でのインターンに勤しんだりと様々なパターンがある。
僕の場合はそれとは異なり、修士二年の途中で留学するタイミングでの出願だった。修士の途中で別の大学のプログラムが始まってしまった場合は、半年間だけ所属を二重にして修士論文の提出のために冬に一時帰国する、というパターンが一般的だ。僕もこのパターンを想定していた。二重在籍がどちらかの大学のポリシー上許されなければ、東大修士の中退もありうると思っていた。そもそも、数学科のDPhilの出願時点では修士号は要求されていなかったからだ。
明示的に修士号を要求されてしまったからには、考えられる選択肢は一つしかない。早期修了、つまり飛び級である。東大には早期修了が制度として存在し、例えば数学科の博士課程は学生を早く卒業させまくる方針らしく、早期修了した知り合いが何人もいる。修士にも制度自体は存在し、東京大学大学院学則によれば、「優れた業績を上げた者」については一年以上の在籍で十分とする旨が書かれている。
しかし、僕の所属する情報理工学系研究科においては、修士の早期修了は前例がなかった。前例がないということは、制度設計からしなければいけないということだ。普通の修士であれば、何月までに原稿を提出して何月に審査会があり——という大枠のスケジュールが決まっているが、早期修了となると個別の対応が必要になってくる。また何をもって早期修了に値する優れた業績とするかのコンセンサスも存在しない。もちろんこれらは僕が勝手に推測した一般論であり、実際に僕にできたのは研究室の教授たちに頼みこんでどうにか早期修了できるように上で話を掛け合ってもらうのを待つことだけであった。
修士で書いた論文の一つがこの頃にジャーナル——学術雑誌のことだ——に採択されたことが功を奏したのかわからないが、どうにか早期修了のプロセスに載せてもらうことができた。指導教員らとの話し合いの上、既に修士課程中に執筆した論文三本に加え、安全をとって現在進めている四本目の内容まで修士論文に盛り込もうということになった。また、博士課程の審査プロセスに倣って予備審査を行うことになり、実質的には予備審査が行われる少し前の五月末までに修士論文を執筆し、審査員の先生方に送ることになった。
この突然降って湧いた早期修了にまつわる一連の流れでは、僕にできることはほとんどなかった。自分のために動いてくれた先生方に感謝すると共に、自分の手の届かないところで留学が立ち消えになる可能性を何度も考えさせられた。ちゃんとやろう。せめて自分にできることは。
DPhilとClarendon奨学金の合格の通知の少しあと、一月に応募していた東大の学内奨学金の合格通知が届いた。この奨学金は他の奨学金との併給を禁止しており、一応東大の事務を通して聞いてもらったが、Clarendonと同時にもらうことはできないようだったので、辞退することになった。同じ頃、問い合わせていた科学オリンピック代表候補向けの奨学金の応募が始まり、こちらは現地の奨学金との併給規定が緩かったので応募することにした。
Clarendon奨学金自体は名誉のある奨学金であり学費と生活費をカバーしてくれるが、実際に給料として貰って生活費にあてられる金額はイギリス国内で統一された基準額に基づき年間一万五千ポンドほどで、当時のレートで日本円にして二百万円と少しであった。オックスフォードは英国内でも生活費がロンドンに次いで高く、学生寮の一室でキッチンやトイレが共有であっても月に十万円前後かかる。若手研究者の待遇が悪い日本の大学界を揶揄するために囁かれる「海外の博士課程は給料が出るのが普通」という言説は、必ずしも海外の博士課程におけるいい暮らしを約束するものではないということだ。
加えて日本との往復などで出費が増えてしまう以上、財源は他にもあった方が良いということになる。
合格通知書に記された二つの条件のうち、一つは早期修了という形で見通しが立っていたが、もう一つ、つまり英語は淡々と学習する日々が続いていた。そんな中、ネット上で「留学する時のIELTSの点数、達成してなかったけど大学に頼んだらオマケしてもらえた!」とのブログ記事を目にして、オックスフォードの先生経由で一月末のスコアではどうかダメ元で聞いてもらうと、「スピーキングの点数がこれでは流石に無理」という回答が返ってきた。「かなりの改善(substantial improvement)が必要」という厳しい記述もあり少し凹みつつも、僕は総じて楽観的に受け止めていた。
本来、オックスフォードの公式ホームページに載っている数学科DPhilにおけるIELTSの基準は全体の点数7.0以上に加えて各技能が6.5以上ということになっている。しかし、僕の成績はリスニングとライティングが6.0と公式基準に満たないにもかかわらず、大学側からはスピーキング以外についての指摘がない。ということは、全体の点数として7.0が必要だったとしても、技能単位で見れば6.0のものがあっても許されるのではないか、と推測できる。これはもちろん、数学能力に比べて英語能力をほとんど気にしていないであろう数学科の先生方のサポートがあってのことだ。
英語の勉強も丸二ヶ月が過ぎ、講師と話し合って三月末にIELTSを再度受験することにした。リスニングとスピーキングは毎日四時間の英語学習を続ける中で明確に向上していた。
試験当日。同じ会場で、スピーキングが先なのも同じだ。
単にやりやすいテーマだったのかもしれないが、今度の試験官は喋りやすいように感じた。スピーキングの試験では語彙力も審査対象だ。前回はそんな余裕はなかったが、今回は難しめの単語も混ぜて話した。例えば、perimeterという単語は「周囲の長さ」という意味であり、海外の数学オリンピックの問題なんかを眺めていると遭遇する。しかし、初学者が誰でも知っている単語ではないだろう。こういう難しめの単語を会話の中で自然に挟むと、試験官が明らかに反応するのが分かった。スピーキングに関しては手応えがあった。6.0は堅い。あわよくば6.5も狙えるかもしれない。
リーディングは文章量が多く、最後まで解き終わらなかった。大失敗ではないと思うが、稼げてはいないだろう。リスニングとライティングはどのくらいのスコアになるかよく分からなかった。
IELTSの試験結果が返ってくる頃には、新型コロナが世界各地で猛威を振るい、イギリスは既に一回目のロックダウンの最中だった。試験結果はまずまずの出来だった。リスニング8.5、リーディング7.0、ライティング6.0、スピーキング6.0、そして総合点は7.0を達成した。オックスフォード側に再度このスコアで許してもらえないか問い合わせる。数時間ほどで、オックスフォード側からこのスコアで大丈夫だ、とのメールが返ってくる——これであとは修士号だけだ。
スコアを送ったメールには、少々ずるいかとも思ったが「新型コロナのこともあり、今後テストが受けられるかどうかも分かりません」とも書いていた。
これは嘘ではなかった。
メールの四日後、東京都に緊急事態宣言が発令される。
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