オックスフォード数学記

サトシ

第1章  0年目

第1話 DPhil at Oxford?

 2019年12月30日、夜。シャワーを浴びようとベッドから起き上がる。机の上のiPhoneが震える。一通のメールが届いていた。件名が目に入る。

 ――DPhil at Oxford?

 メールの内容にさっと目を通し、シャワールームに入る。心拍数が上がっていた。


 僕は当時23歳、東大の修士一年生で、数理情報というよくわからない名前の専攻にいた。専門はその中でも、数値解析だったり確率論だったり、複雑・ランダムな対象を人間やコンピュータが現実的に扱えるようにするための分野だ。そのまま東大で博士に進むものだと思っていた。


 以前に留学を考えたこともあった。ハタチの頃、一つ下の後輩を誘ってアメリカのボストンに二週間滞在し、知り合いを辿ってMITとハーバードの学生や研究者に何人も会って話した。

 今の僕は、その頃の僕が何を考えていたのかよく分からない。特に何か特定の研究上の興味がある訳でもないのに、PhDを取るために留学したい?そんなガキに、わざわざ時間を取ってくれた研究者の先輩方には感謝している。

 ボストンの少し上品なレストランでフィッシュアンドチップスを食べながら、10歳以上離れた日本人研究者と話したのを覚えている。

「別に優秀な人が海外に出るわけじゃない」

「そうなんですか?」

「実際僕の学科同期で僕より遥かに優秀で日本に残って成功している人は何人もいる。僕がただ外に出て挑戦したいと思っただけ」

 フィッシュアンドチップスがイギリス料理だということも、数年後に飽きるほど食べることになるということもまだ知らなかった。

 

 そもそも留学に興味があったのはもともと海外志向だったからではない。海外はどちらかというと嫌いだった。今でもそうかもしれない。ドアは不必要に重いし、ご飯は舌に合わない。街を歩いているだけで危ない臭いが漂ってくる。何より、英語を喋らないといけない。

 それでも留学を考えていたのは、高校の頃出ていた数学オリンピックがきっかけだった。

 十八歳の夏、南アフリカ共和国の首都ケープタウンで開催されたIMO・国際数学オリンピックに出場した。そこに至るまでの長大なストーリーは今は割愛することにして、そこで僕は金メダルを取った。金メダルといっても、一位という訳ではない。IMOでは、約六百人の出場者の上位およそ十二分の一に金メダルが配られる。もちろん、とはいっても金メダルを取るのは簡単なことではない。既に参加者は各国でトップクラスに数学が得意な人たちなのだ。

 IMO2014の表彰式の座席はメダル別になっていて、僕はベトナム代表の男子の隣に座った。表彰式が始まるまでに結構時間があって、色々と話した。それぞれの国の数オリ事情の話とか、数オリ代表になったら国内のどの大学も無条件で入れて1年間施設で数学の訓練をする国もあるらしいよ、とか。

 そもそも僕は国によって教育システムが違うとかいうのが頭では分かっていても、それは実感を伴った理解ではなかった。彼はアメリカの大学に行くと言っていた。数オリの代表は海外に出るのが当然だ、という風に。

 最近、Twitterである論文が話題になっているのを見た。組合せ論のある有名な予想が解けたらしい。ふと目に入ってきた著者を見ると、見覚えのある名前だった。Googleでその著者を検索すると、研究者としてのホームページが見つかる。Gold Medal - International Mathemartical Olympiadと受賞歴に書かれていた。

 やっぱり彼だ。

 ホームページには彼がこれまでに書いた信じられない量の論文が掲載されていて、「あなたの隣に座っている人がフィールズ賞を取る確率は決して低くはないのです」とIMOのセレモニーで誰かが言っていたのを思い出した。僕と話していた時には既に、彼にはこの景色が見えていたのだろうか。

 でも、十八歳の僕はこうも思っていた。「アメリカの有名な大学に行って数学をするのが王道なのかもしれない。でも僕だって金メダルだ。なんなら僕の方が点数は高い。東大だって負けてない」

 僕には信念がある。経験もせずに何かを否定する人間になりたくない。に動揺してしまった僕は、留学をしないといけなくなった。母校の先生は言っていた。

「この先の人生、ムカっと来るものを大切にしてください。それはあなたの琴線に触れたということだから」


 シャワーを浴びながら考える。学部を出るタイミングで海外の大学院を受けなかったのは何故だったか。

 英語だ。

 MITなどのトップスクールに入ろうと思うと、120点満点のTOEFL iBTで100点取るみたいなことが要求される。僕はボストンを訪ねる一ヶ月前くらいに思い立って一度受験すると、76点。もう少し本腰を入れて対策し、滞在の終わりくらいにアメリカで受けると、83点だった。80点台というと決して日本人として悪いスコアではないのだが、100点を超えるにはかなりの努力が必要そうだということも分かった。受験英語が得意、というレベルでは到達できそうにない。正直、ただ「留学すること」を目的にして目指すには、あまりにも高い壁である。

 そうやってハタチの僕は留学を先延ばしにした。博士課程とかで半年くらい研究で滞在するとかがいいんじゃないか、なんて風に、特に具体的な策もなく考えていた。


 メールをくれた先生――N先生――とは、その年の夏に日本の学会で一度会っただけだった。たまたま発表順が前後で、PC周辺機器のトラブルか何かで少し話した。そのあとの懇親会でもっとガッツリ話すことになった。僕の修士課程の指導教員をしている先生とも交流があり、いくつか僕と研究の興味分野が被っていた。研究アイディアの話をすると「へぇ〜!なんか世界変えちゃいそうだね!」と別にふざけた風でもなく言っていた。

 なんとも明るい先生だと思った。N先生はオックスフォードに着任したばかりだが元々僕の専攻で助教をしていて、その頃の知り合いから聞いて僕に既に目をつけていたらしい。

「海外とか興味ないの?ウチでもいいし、アメリカとかもいい大学いっぱいあるよ」

「うーん、交換留学とかだったら結構興味あるんですけど、がっつり留学するのはやっぱ英語とかハードル高いですね」

「え〜?英語とか行ってからでどうにかなるでしょ」

「そうですかねえ」

「まあもし気が変わったらいつでも連絡してよ!」


 実は学会があった夏休みの頃、オックスフォードの教授が書いた論文をちょうど読んでいた。Cubature on Wiener spaceという論文で、十年以上前のものだったが、ブラウン運動の分布を有限個のパスで離散近似して確率微分方程式を常微分方程式の集まりとして数値的に解く、というとても興味深い内容だった。

 10月、そのあたりの研究を進めていくうちに思いついたアイディアを調べていたら、Kernels for sequentially ordered dataという論文で既に研究し尽くされていた。これはまた別のオックスフォードの先生が書いた論文だった。

 不思議と縁がある大学だとは思っていたが、この二人が翌年からの指導教員になるとは、まだつゆほども想像していなかった。


 シャワーを済ませ、メールを読み返す。DPhilというのはオックスフォードでの博士課程の呼び名のようだ。「この確率解析のプログラムが君の興味に合うのではないか」「通常は非常にcompetitiveだが、君なら受かる」「君ならここで世を変えるような活躍ができるのではないか」などの言葉がいくつかのリンクと共に送られてきていた。ここまで言われると、流石にこちらもグダグダと先延ばしにしているわけにはいかない。夏にさらっと話を聞いたときよりも、今はオックスフォードで行われている研究への興味も増している。

 英語の要件について少し確認すると、オックスフォードでは春にオファーをもらってから必要な英語試験のスコアを秋の入学までに取ればいいということらしい。もうこれで言い訳もできなくなった。

 出願しよう。


 出願締め切りまで一ヶ月を切っていた。







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