第31話 British Universities and Colleges Sport

 二年目のマイケルマスでは、卒業要件のうちの最後のTAをやることにした。この時点で僕はチューター、つまり教えるだけの人をやる権利も獲得していたのだが、解説よりも採点の方が好きだったので、最後もそれでいこうと思ったのだ。とはいえ、生徒の答案を前にすると字が読めなかったり文句が自然とあふれて来るのだが。

 前年度と同じ科目をやると楽だしそれでも良かったのだが、それだと作業感が強くなってしまうので、関数解析のTAをしようと夏休み中に希望を出していた。


 関数解析というのは、よく無限次元の線形代数と言われる。線形代数はボーッと勉強しているとどこで有限次元性を使っているのか分からなくなってくるので、関数解析の方が僕は好みである。

 たとえば理系の人が大学の初年次などに学ぶ行列。高校の学習指導要領は結構変わるので人によっては高校生のうちに習った人もいるかもしれない。これは、有限次元のベクトル——たとえば座標平面上の点——に対するある種のを記述するものだ。平面上の点を原点から二倍遠ざける。反時計回りに九十度回転させる。こう言った操作は線形変換と呼ばれ、行列は線形変換を表す一つの方法である。

 三倍の長さのベクトルに対してをかけると、変換後のベクトルもまた三倍になる。二つのベクトルの和にかけたの結果は、それぞれのベクトルに対してかけた変換の和になる。こういう性質を線形性とよぶ。この線形性は世の中の至る所で活躍しており、線形代数は工学的にも非常に大事なのだ。

 線形代数を大学の最初に学ぶと、どうしても行列が主役になりがちだ。数を長方形のマス目状に並べたもの、くらいの認識の人も多いと思う。ただし、線形なものは行列以外にもたくさんある。たとえば関数の微分。関数の微分は、上で述べたを満たしている。それから積分もそうだ——変換の対象がベクトルから関数に置き換わっていることを除けば、見知った線形代数となんら変わりがない。

 昔の人たちはきっとどこかで気付いたのだろう、関数もベクトルだと思えばいいんだと。少なくとも僕たちはそうやって、関数の空間やその一般化を対象とする線形代数——関数解析に歩みを進めることになる。

 現代の枠組みでは、僕の専門の確率論は関数解析と切っても切れない関係にある。微分積分、特に積分を一般的に取り扱う測度論というものがあって、今の確率論は測度論に立脚しているし、関数解析に出てくる多くの意味のある例は測度論由来のものになっている。

 僕が大学一年のとき、何か焦りながらいろいろな分野の数学書を読みつつも、あまり興味が合わないことが多かったのだが、その中で面白いなと思えたのが測度論——ルベーグ積分の本だった。その本のあとがきに「この本を学んで興味を持った人は、確率論や関数解析を学んでみるといい」という記述があった。僕はそれを読むまで、確率論が数学の分野だと思っていなかったのだ。数学に近くて遠い統計というものがあって、確率論は統計の人がやっている何か、だと思っていた。

 それからはずっと確率論と関数解析の勉強をしてここまで来た。このあとがきが今の僕を支えているのだ。


 関数解析への長い回想があったが、この先を読む分には先に書いた数学の話は一旦忘れてもらっても問題ない。

 僕は無事、関数解析のコースのTAをすることになったのだが、タームが始まって間もなく、隔週の木曜にやるというのでチューターと合意してしまった。

 木曜にTAをやることに何の問題があるのか。木曜に解説の授業があるということは、基本的には火曜か早くても月曜の夕方に答案を受け取ることになる。採点と授業準備を考えると、TA前の水曜は基本的に潰れることになる。

 では水曜日が潰れることに何の問題があるのか。あるのだ——BUCSが。


 BUCS(British Universities and Colleges Sport)とは、いわば英国学生体育連盟のようなもので、日本でいう学生リーグやインカレのようなものを取り仕切る団体だ。他のスポーツがどうなっているかは分からないが、男子の卓球の場合、十月から二月末にかけて、クリスマスの周りを除いて毎週のようにBUCS——バックスの試合がある。水曜日の午後に。

 そんな平日に大学の運動部の試合をやって大丈夫なのか、というのが至極真っ当な反応だと思うのだが、イギリスではバックス・ウェンズデイといって多くの大学スポーツの試合が水曜に固められている。驚くべきことに、ほとんどの大学では水曜日に授業がないというのだ。ただし、オックスフォードとケンブリッジはそんなことは気にもかけず授業をガンガン入れるので、プレイヤーを集めるのも一苦労だという。

 そんなわけで、トライアルの直後、キャプテンから「水曜日は大丈夫か」と聞かれていた。


 TAもあって最初の数週間は試合には出られていなかったのだが、練習には参加していて、少しずつ雰囲気が分かってきた。スクアッド——試合に出る可能性のある選手たちだけの練習は週二回で、火曜夜と金曜昼。金曜は午後二時から練習が始まるので学部生は授業もあるだろうにと驚いていたが、みな色々とやりくりして練習に来ているようだった。とは言っても、日本の「運動部」から想像されるものとは全く異なり、来るも来ないも自由、ちょうど僕が東大で所属していたサークルと似たような感じだ。

 コロナのこともあって人数制限や誰が来ていたかの把握が必要なようで、部員はスプレッドシートに名前を書き込んで練習参加予定を表明する形式になっている。チームの練習以外にも、木曜や土日にも二時間ずつくらい卓球部が体育館をとっていて、ディベロップメント・スクアッドというチーム一歩手前の人たちのセッションや、初心者にも選手にもオープンなセッションも用意されている。

 チーム内で共有されているスプレッドシートはもう一つあり、これは試合日程ごとに参加可否を書き込んでいく形式だ。オックスフォードの男子はファースト・チームとセカンド・チームがバックスのリーグ戦に参加しているようだ。僕の名前はファーストのスプレッドシートでは八番目、セカンドのスプレッドシートではファーストの上から四人が消えているため四番目に書かれている。全体では二十人以上名前が書かれているので、僕のトライアルでの様子を見てある程度強いと思ってこの位置に書いてくれているのだろうか。

 どうやら試合は各チームが四人ずつ出して総当たりをやって十六試合、そして最後にダブルス一試合をやって合計十七試合の結果で勝敗が決まるようだ。僕が思っていた卓球の団体戦とはずいぶん違うが、試合がたくさんできるので文句はない。

 僕がTAで忙しくしている間の様子を眺めていると、どうやらキャプテンは単に一軍で参加可能な選手を上からとり、その人たちを除いたうちで参加可能な選手たちを二軍戦に送り込んでいるようだった。なので僕が希望すれば少なくとも二軍の試合には出られるということだ。こういった連絡はすべて、Facebookのグループチャット、つまりMessengerで行われている。


 スポーツのレベルは、国によって大きく異なる。代表選手のレベルで言えば、日本は中国を除けば男女ともにトップクラスに強い。ヨーロッパにも強い国はいくつかあり、ドイツやスウェーデン、最近ではフランスなんかは日本を倒しても全くおかしくない。イギリスには強い人もいるが、総合的なレベルではここに挙げたヨーロッパの強豪や日本に比べれば劣ると言えるだろう。

 それは悪いことばかりではない。ここでは僕は、日本にいる時よりも相対的に選手だということになる。

 卓球部の練習に参加して、ようやく英語から解放されるひとときをイギリスで見出すことができた、と感じた。スポーツそのものには言葉は必要ない。卓球をすれば、喋らなくともお互いの性格が伝わってくる。そして、たとえ英語が下手でも、スポーツを通してコミュニケーションが取れれば、興味を持ってもらえるのだ。もちろん、上手ければなお良い。


 イギリスで暮らさなくとも分かることかもしれないが、英語が下手な人はこの土地では肩身が狭い。もう少し具体的には、わざわざ興味を持ってもらえないのだ。人が人とコミュニケーションを取るのは一定のリソースを割く行為であり、みな暗に何らかのリターンを期待している。それは安心感であったり、幸福感であったり、あるいはかもしれない。

 コミュニケーションそのものに難があれば、それを踏まえてなお期待できるがなければ、社交辞令を超えて友達になることは難しい。日本人同士、アジア人同士で固まるのは楽で、しかし現地のコミュニティに属ていないという感覚も無視できないところに浮かんでいる。

 だから、僕はこの国で数学を頑張るしかない。それが僕にあるなのだから。でも、僕が中学の頃からずっとやっている卓球も、その何かにもしかすると入るのかもしれない。久しぶりに毎週できる卓球を純粋に楽しむ気持ちと、それが日本にいる時よりも強固にアイデンティティに絡みついてくる感覚とが同時にあった。


「サトシ、今週行けるな?」

 十月二十日。僕のオックスフォードでのデビュー戦が決まった。

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