第28話 People visited, problems revisited
卓球部のトライアルがあった日の夜、Sくんの主催する日本人院生たちの集まりがあった。
二十人くらいが集まっただろうか。多くが一年目の人で、出身や所属も含めてコミュニティは多種多様だったが、まとまった人数がいるのは現在MBAに通っている人たちと、日本の省庁から派遣されてきた官僚たちだった。コミュニティと言えるほど結び付きはないが、東大理系出身というのも一大勢力を占める属性として存在はしていた。
MBAというのは日本語では経営学修士と訳されるが、オックスフォードに来るまで縁のなかった僕の雑な理解では、企業の経営側を育てるためのコースで、入学には数年間の社会人経験を必要とされる。
MBAの人だけでも、企業から派遣されてきていて戻るつもりの人、派遣元の企業を辞める前提でキャリアをステップアップさせるために来ている人、そして既に会社を辞めて自費で来ている人がいた。どうやらMBAは九月の段階でプログラムが始まっており、そこだけで十人以上いる日本人たちは既にある程度結びついているようだった。
僕が話を聞いて面白かったのは官僚の人たちだろうか。コロナの混乱のまっただ中でのあれこれを話せる範囲で教えてもらった。
他にも海外でボランティアをしていた人や国際機関で働いていた人、親が日本人だが親の帰省でしか日本で過ごしたことのないような人など、例年であればオックスフォードにはこうも多様な人たちが日本からだけでも集まるのか、と驚いた。とはいえ、ある側面ではオックスフォードの日本人コミュニティというのはかなり一様だ。日本社会の考え方は遅れていて、バカにしていい。そういう価値観が大勢にとっては批判なく自明の理とされていたように思う。これはある種逆張りで海外に来ているような自分には居心地の悪いものでもあった。
なんにせよ、オックスフォードのカレッジ制に続き、こういう多様な――少なくとも自分と大きく異なる――バックグラウンドの人たちと自然に関わりが発生するというのは留学のメリットに数えられると思う。たとえば東大でそのまま博士に進んでいたら、僕が能動的に動かない限り、人間関係は収束していっていただろう。たとえば、マサキさんのような人とも出会うことはなかったかもしれない。もちろんそれは多くの人にとって、お互いに、ということだ。
この飲み会で最も話が合ったのは、ハシモトさんという男性だ。有名私大の文系学部から日本の三大重工の一つに就職し、そしてそこを辞めて自費でオックスフォードのMBAに来たらしい。
かといってそういうビジネスの話やアカデミックなところで盛り上がったわけではなく、文字通り趣味が合ったのだ。漫画である。彼はマサキさんと同じくらいの世代で、かなり漫画が好きでそれでいて微妙に読む漫画が被らないので、お互いにオススメし合うことになった。
僕が勧めたのは『ブルーピリオド』で、僕は当時電子書籍で全巻持っていたが、ちょうどその頃アニメの放送を記念して原作漫画が無料で公開されていたので、布教がしやすかった。ハシモトさんにおしえてもらったのは『アオアシ』で、僕はすぐに電子書籍で読み始め、どハマりすることになる。
ハシモトさんとはこのあとも長い付き合いになる。これもまたオックスフォードに来なければなかっただろう。
月曜日にはOUJSの年始の集まりもあり、やや交流過多になってきていたが、その翌日のミーティングで現実に引き戻された。
前の週からミーティングは再開していたが、そこでは今ターム中に行わなければならないトランスファーをどうするか、という話を主にしていた。テリーなどは「ああいう事務的なことは心配しても仕方ない」という風だったが、この大学ではぼーっとしているとすぐに留年してしまうだろう。
どういうことかというと、例えばトランスファーについては毎ターム全員向けのメールが一本流れてきて「このターム中にやらないといけない人はこのターム中にやってねー」というような内容で、実際には自分で動かないと気がついたら締切を逃すことになりかねない。東大では救済措置がかなり充実していて、卒論や修論の締め切りについては事務や指導教員からのものを含め再三注意喚起を受けるし、そもそも皆が同じタイミングで進んでいくので失敗も起きにくい。なにより、大学側からの学生を卒業させようという意思を感じる。それでも留年する人は留年する。
DPhilにおいては、トランスファーやその後の第二中間審査(コンファメーション)ひいては博士論文の提出のタイミングまで完全に個人依存である。それゆえ指導教員も自分の学生が今どの段階かを把握しておらず、僕が言い出してもまだ「そんなことは後でやればいい、数学の話をしよう」というような雰囲気だった。
僕は日本人のなかでも少し安全をとるタイプの人間だと思うので、しきりに先の話をしたがる様子は指導教員たちの目には異常な心配症として映ったかもしれない。とにかく、トランスファーについては一年目に書いた二つの論文をほぼそのままくっつけたものをトランスファー論文として提出すればいいということになった。このトランスファー論文については数学科のホームページに確かに五十ページ以内にしろという記述があり、僕の場合は既存の原稿を雑にくっつけて八十ページになったところからいくらか削る作業も発生した。しかし、後から同学年の人たちと話すと誰もその規定を把握しておらず「五十ページ?短いね」みたいな反応だった。トランスファー自体、教員たちもあまりルールを厳密に把握しておらず、トランスファー論文は審査員の先生方にしか共有しないから事務が何かを言ってくることもなく、やはり僕は異常な心配症だったのだろう。
トランスファーは確率的な数値積分なども守備範囲のN先生と確率的組合せ論が専門のO先生に審査をお願いすることになった。指導教員たちにメールを送ってもらって、N先生は即決だった。今日はその一週間後のミーティングだったが、まだO先生とは連絡が取れていないらしい。
この日のミーティングで、テリーは「このタイミングでサトシがこれから解くべき問題を考えよう」というニュアンスのことを言い出した。指導教員側であらためていくつかのざっくりとしたテーマを列挙し、ここからどう研究を進めていくか、という話し合いをしようということらしい。僕もとりあえずこの流れに乗ってはいたが、内心は複雑だった。
半分は、ありがたい話なのだ。指導教員側も僕の性質や専門性が一年前よりずいぶんわかっているので、彼らの思いつくテーマの中で僕に適性のありそうなことを推薦することができる。そこういう分野のドンのような人から身内としてどういうテーマがまだ残っているか聞けるというのは贅沢なことだ。それに、テリーは僕が春頃に送った例のメールの内容に対して気を遣ってくれているのかもしれない。
しかし、もう半分は、ネガティブな理由が根底にあることだった。僕が一年目にやったことは結果的にテリーやハラルドの専門から離れすぎている。彼らとしても、僕が分野に対するちゃんとした貢献をしているのか判定できず、もどかしい。テリーは「君の指導教員たちを活用できていないんじゃないか」という表現を使った。でも僕は、今自分がやっていることの先にあるものを見たいという気持ちもあった。博士課程って、自分が世界で一番詳しいものを生み出すことだよね。じゃあ指導教員の理解の範疇から離れていくことはある意味健全なことなんじゃないか。
それに、と僕の中の現実主義者が続ける。新しいテーマを今から始めなくても、今のテーマであと一本くらい論文を書けば、博士号はもう取れるんじゃないか。世の中では博士中に書いた論文が二、三本であるというのはよくあることだ。今から変に新しいことをしようという考えだけでテーマを変えて浅い結果しか生み出せくなるよりも、今そこにある疑問を解決することの方が意味があるんじゃないか。僕の心をあれだけ動かしたランダム凸包の問題は、本当に無意味だったのか。
水曜日。テリーやハラルドが紹介してくれた論文を眺めながらも、数学の中身以外のことが頭をチラつき、なかなか気分が乗らない。
Catzのメインの寮は食堂も近く快適だが、出るご飯は味がなくて単調である。気分転換に、と去年の寮の近くにあるアジア食品店で買い出しをしようと思い立つ。そういえば、マサキさんはCatz Houseに住んでると言っていた。どうせ近くに行くなら夕飯に誘ってみてもいいかもしれない。
そうして僕ら二人は、カウリー・ロードにあるTaberuという日本食レストランで午後八時に落ち合うことになった。
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