第29話 How uncertain are you?

 オックスフォードにはいくつかのアジア食品店がある。ハイ・ストリートから橋を渡ってカウリー・ロードに入り、少し進んだところにあるのがソウル・プラザだ。韓国を押し出してはいるが、日本と中国の商品もあり、たとえば味の素の冷凍餃子などもある。今年は去年ほどキッチンを使えないし食堂もあるので、渡英して一週間経ってからようやく来ることになった。白ご飯が恋しくなった時のために、韓国語の書かれたパックご飯をカゴに入れる。寮に入るたびに毎回炊飯器を使うなという注意書きがあり、結局僕は最後までパックご飯に頼ることになった。

 日本のお菓子はあまり置いていないが、韓国版の似たようなものはあり、たとえばオリオン社のチョコパイ(Choco・Pie)は日本のエンゼルパイとチョコパイの中間のような味をしている。東京で一人暮らしをしている時から家でお菓子を食べることは少なかったが、こっちへ来てさらに減った。このチョコパイはそれでも無性に甘いものが食べたくなった時に買いに来ることがある。あとは、普通のスーパーで売っているベルギーエクレアかな。

 チョコパイもカゴに入れて、粉末スープなどのエリアに移動する。目当ての品は、インスタントみそ汁である。これは日本語の商品で、ズボラ海外生活では重宝するかもしれない。

 冷凍食品も買おうかと思ったが、このまま夕飯があるのでやめておこう。


 Taberuという日本食レストランは、カウリー・ロードの南側にある。前年度に住んでいたCatz Houseから五分、スポーツセンターからも五分くらいのところだ。

 この数軒西側にはSushi Cornerというレストランもある。昨年度にロックダウンしていた頃には、このあたりの店をよく使っていた。このうちUber Eatsで頼めるのはSushi Cornerだけで、ここの牛丼―― Gyudon Beef Don ――はジャンキーでかなり美味しい。イギリスで食べられる日本食というのはブランディングのためかどこか上品さを押し出していることが多いので、こういうものもまた貴重である。ただしSushi Cornerは店内も少し脂っぽいので、僕はイートインではTaberuが満席のときにしか使ったことがない。

 Taberuはというと、牛丼やラーメンもあるが、弁当のメニューが充実している。弁当といっても、イベント等で出てくるようないい感じの黒く塗られた木の箱に入っているだけで、中身は定食のようなものだ。ご飯のエリアには、中央に半分に切ったプチトマトが乗せられていて、日の丸弁当を梅干しなしで表現している。弁当メニューはおよそ十二ポンドで、当時のレートだと1900円ほどだ。ランチ時間帯は十ポンドでラーメンやどんぶりと一品の組み合わせが選べるので、少しリーズナブルになる。

 僕が渡航してからの一年でポンドは135円から150円台後半まで上がっており、円安ヤバいねえというのが日本人たちの挨拶がわりだった。この傾向はこのあとの留学生活でもずっと続くことになる。僕は奨学金をポンドで貰っていて被害は少なかったが、JASSOなどで円建ての人たちはかなり深刻そうだった。


 夜八時という約束だったが、マサキさんは工学部のオフィスから自転車で来るから少し遅れるとのことで、席を確保がてら僕は先に店に入っておくことにした。

 久しぶりに来たのだが日本人らしき店員さんが増えているようだった。どちらかよく分からないので英語でテーブル・フォー・トゥーと伝える。店の奥側へ向かう階段を数段上がり、奥の部屋に入ってすぐ左の席に案内される。

 とりあえず水を頼んでおく。イギリスでは水道水が飲めて、大概のレストランではタップ・ウォーターをくれといえば水が無料で貰える。Taberuでは最初に人数分のコップと水入りの大きなくびれのあるガラス瓶がもらえて、水が足りなくなることはない。

 同じく水道水が飲めるはずのドイツでタップ・ウォーターをくれと言うと、ものすごく怪訝な顔をされた上で、まあトイレの洗面台でコップで組んでくるのは止めないけど……みたいなことを言われたことがある。郷に入っては郷に従え、ということだ。


 そうこうしているうちに、マサキさんが到着した。二人とも弁当を頼んで、せっかくなので何かシェアしようということになった。

「寿司でもいいですけど、刺身盛り合わせとかですかね」

「刺身いこう!イギリスで刺身食べれるの面白いね」

 実際、海外ではあまり生魚を食べる文化は希薄なので、友達と日本食レストランに行って刺身をシェアしても「生魚は食べないんだ」といって手をつけない人が一定数いる。

 店員さんに注文し、今日の本題に入る。

「前言ってた研究分野の話ですけど、もうちょい詳しく聞きたいところですね」

「そうだよね、こっちも教えてほしい!」


 繋がりがありながらまったくの異分野二人の研究談義が始まった。

 マサキさんによると、車などに使われている電池はバッテリーが切れないようにものすごく安全側に倒しているので、実際にはもう少し使える場合でも、充電が必要だと言い出すようになっているらしい。

「だから、不確実性を定量化しないといけないんだ」

 不確実性の定量化―― Uncertainty Quantification ――は勃興しつつある応用数学の一分野である。僕は抽象的なコンセプトに惹かれて修士時代に洋書を少しさらったことがあるが、具体的にやろうとするとケースバイケースに終始してしまうのかな、と思っていた。確率論を使って、不確実性を定量化しながら、制御などの工学的な処理を行いたい、というのがざっくりしたモチベーションだ。

「でも、どうやってやるんですか?夢物語じゃなくて、何か分野として研究は進んでるんですか?」

「ベイズだね。今この路線で一番研究が流行ってるのはベイズ最適化で、これは関数にガウシアンプロセスを仮定して、どうやって効率的にブラックボックスな関数の値をサンプリングして最適値に近づいていくかの手法だね」

「えっと……ちょっと用語がわかんないです。ベイズは分かりますけど、まずガウシアンプロセスって機械学習の人の文脈だと何を指すんですか?ブラウン運動とかはガウス過程ですけど、そういうことですか?」

 マサキさんによれば、関数全体に事前分布のようなものを仮定するらしい。ガウス過程については添字が時間になっているものしかイメージしていなかったのだが、結局はその添字の集合が一般化されているということだった。


「ベイズ最適化だと、ボーリング調査がよく例に出されるんだよね」

「ボーリング調査ってあの地層みたいなの抜き出してくるやつですよね」

「そう。下に何があるか分からない土地があるんだけど、あなたはそこから金鉱を見つけたい。出来るだけ少ない回数のでそれをやりたい、って設定」

「そんなことできるんですか?」

「できる。もちろん確率的にってことだけど。最初はその周辺の土地の情報からなんとなくの成分の予測みたいなものがあって、それが事前分布だね」

「各地点ごとにってことですよね。独立に?」

「いや、独立じゃない。ガウシアンプロセスだから。一点での値を観測すると、関数全体の分布が更新される」

「ああ、近い地点は成分が近いはずだ、みたいなことですか」

「そう。で、金鉱に近づくためによりが得られそうな地点で次の調査を、っていうのを繰り返すってこと」

「調査地点の選び方をどうするかっていうのがベイズ最適化のアルゴリズムってことですか」

「そういうこと。で、探索と活用のトレードオフってのがある」

 聞き慣れない単語のオンパレードで、頭がパンクしそうだったが、不思議とテンションは上がっていた。Uncertainty Quntificationってアブストラクト・ナンセンスじゃなかったんだ。もしかしたら理論と応用のはざまには自分の知らない世界がもっと広がっているのかもしれない。

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