第3章 2年目

第24話 Refresher's lifestyle

 2021年10月4日。昼頃に羽田を出た便で、ロンドン・ヒースローに向かう。イギリスはまだサマータイムなので、時差は八時間だ。この復路のフライトは偏西風の影響で往路よりも約一時間長く、十二時間を少し超える。

 ただし、日本に帰ってきた時よりは時差ボケは楽になる。僕は元々夜型なので、少し夜更かしすればイギリスでは健康的な朝型生活が待っている。


 ヒースローに夕方に着き、オックスフォード行きのバスに乗る。マスクを着けることを促す自動音声が流れる。数人の乗客を見渡すと、ほとんど誰も着けていない。

 去年よりいくらか気楽な旅だ。車内放送くらいの綺麗な英語なら十分聞き取れるし、スマホには電波が入っている。といっても、バスのWiFiもスマホの4G回線も、バス旅中は繋がらない時間の方が長かったかもしれないが。

 オックスフォードに着くと十九時台だった。まだ真っ暗ではない。去年と違って身軽だ。持ち物はリュック二つだけ。それ以外の荷物はオフィスに置いてきていた。荷物の回収は明日することにして、とりあえず今日はカレッジに直行しよう。


 Catzに着いて、で新しい部屋の鍵を回収する。入国後検査用のコロナ検査キットも届いている。

 ロッジを出て右にずっと歩くと、MCRの丸い建物が左手に見えてくる。これは一年前にジェイクたちと記念撮影をしたところだ。その向かい——右手にある二つのユニットが大学院生用の寮スペースらしい。

 Catzは巨大なカレッジで、何十もの学部生の寮のユニットがある。一つのユニットは三階建てになっていて、各階には五人から十人くらいが入っているようだ。しかし、院生に関してはこのユニット二つとCatz Houseの合わせて百人ちょっとの収容能力しかなく、二年目以降は基本的には追い出される。

 去年のCatz Houseの学生代表の交渉のおかげで、ロックダウン中にCatz Houseに住んでいて今年もまたCatzにカレッジとして所属する人は、このメインの建物に住めることになっていた。その片手に収まる該当者たちのうちの一人が僕だったのだ。

 だから、ユニットの同じフロアに住んでいる人は僕以外ほとんどが一年目ということになる——後に判明することだが、実際二年目は僕だけだった。


 ユニットの入口に学生証をかざすと、ピッと音が鳴ってドアが開く。今年はちゃんと開いてくれた。

 入ってすぐに上への階段があるが、僕の部屋は今年は地上階だ。選べるなら、あまりイギリスで地上階に住むのはおすすめしない——ジメジメとした日が続くと、朝起きたらナメクジがあなたの部屋の壁を歩いているかもしれない。

 階段を上がらずにまっすぐ行くと少し広めのキッチンがあり、その左右に数部屋ずつあるようだ。僕は左側だった。部屋に入って、荷物を下ろす。

 今年の部屋には、去年と違ってトイレとシャワーがある。去年よりは快適そうだ。唯一共有なキッチンもチェックしておこう。


 キッチンに入ると、アジア系の女性がいた。

「ハイ、サトシです。日本出身。君は?」

「私はディア。インドネシア出身よ」

「キッチンだいぶ物で埋まってるけど……もう結構来てるの?」

「うん、あなたが最後じゃないかしら」

 去年は人数も少なかったし食器は共有のものを皆使っていたので、だいぶ光景が違う。

「もしかして、シェアの食器はない?」

「アー、ここの棚に入ってるやつはシェアってことになってるけど、汚いし、誰も使ってないわ」

 と言ってディアが開いたスペースには、二、三枚の埃に覆われた食器があった。使われている様子はない。

「そうか、コップもないのか……」

「私の余ってるやつあるし、貸そうか?」

「本当に?じゃあ今夜だけ借してくれる?明日街でなにか買ってくることにするよ、ありがとう」

 去年とは随分と様子が違う生活になりそうだった。このキッチンは十人で共有しているので、このあと数日の感じではほぼ常に誰かに使われていた。またそもそも最後に来た僕が道具を置くスペースもない。バス・トイレは部屋にあるので、キッチンを使わなければ日常で同じフロアの人々と関わることもない。

 去年と違うのは、食堂がすぐそこにあることだった。去年もCatz Houseの面々で何度か訪れていたが、片道二十分ほどかかるので、そう頻繁には行けなかった。新しい寮の部屋からなら二分くらいで行けるので、毎食でも使える。ということで、キッチンはほとんど使わずに生活することになった。


 翌朝、案の定早く目覚めたのだが、食堂の朝食が始まるのは来週からのようだ。仕方がないので、数学科で荷物を取りに行く道すがらにスーパーに寄ることにした。スマホの地図で調べると、少し遠回りになるが、シティセンター近くの歩行者天国エリアを少し北に出たところのテスコに行くのが良さそうだった。

 イギリスのスーパーマーケットの二大チェーンがこのテスコ(Tesco)とセインズベリーズ(Sainsbury's)だ。テスコの方がと言う人もいるが、僕にはあまり違いは分からないし、イギリス人も単に近くにある方を使っているように見える。

 オックスフォードにあるもう少しなスーパーがマークス・アンド・スペンサー、通称M&Sで、ここはプライベートブランドが充実している。日本人の友達に輸入食品店で買うと高いから、とここの紅茶のお土産を頼まれたことがある。他にもいくつかのブランドがあるが、オックスフォード付近の主要チェーンはこのくらいだろうか。あとはウェイトローズというのも郊外にあるが、僕は使ったことがない。

 僕の目当ては、朝食用のミールディールだ。ミールディールというのは、メイン、ドリンク、スナックをセットで買うと割引されるという仕組みで、テスコやセインズベリーズに限らずイギリス全土に普及している。メインにはサンドイッチやパスタサラダがあり、スナックにはお菓子もあるがゆで卵やカットフルーツ、シリアル付きヨーグルトなんかがある。

 メインとドリンクだけを買うよりスナックを付けた方が安くなるという謎の仕組みなのだが、この国で外食すると最低でも一食千五百円から二千円飛ぶのが基本のところを六、七百円くらいで済ませられるので、重宝するシステムなのだ。ただし、サンドイッチはどれも同じように味が微妙なので、あまり何度も連続で使うと精神的なダメージを受ける副作用がある。

 久々のミールディールを手に取り、セルフレジへ向かう。この国はセルフレジが充実している。日本のものとは違ってスキャンした商品を置く場所が決まっていて、そこで検出された重さがデータと異なるとエラーになる。だからセキュリティがしっかりしている、といえば聞こえはいいのだが、ちゃんと使っていてもしょっちゅう重さが合わないと言い出してエラーを吐く。その度に店員を呼んで次に進めてもらうことになり、UXとしては大いに改善の余地がある。


 数学科に着いて、オフィスに向かっていると、キッチンから出てくるティナに遭遇した。ティナはハラルドの学生で、ドイツと中国のハーフの女性だ。二月にあったオンライン学会を一緒にオーガナイズしたうちの一人で、三学年上、つまり今は五年目になる。帰国直前の七月にはティナと僕ともう一人が確率解析グループのうちでオックスフォードに残っていて、何度か一緒にランチに行っていた。

 彼女は友達が多く、よく喋るタイプだ。

「サトシ!帰ってきたの?」

「やあ、久しぶり」

「あ、そうだ!明日フレッシャーズ・フェア行かない?」

「それ明日なんだっけ、僕も卓球部とか話聞きたいから行こうかな」

 今年は日本から自分のラケットと卓球シューズを持ってきていた。

 

 二年目にして、ようやく本当の留学生活が始まろうとしていた。

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