第22話 Trapped, then trapped

 六月末に、オックスフォードで一回目のワクチンを打った。ファイザー製のものだ。学校の校庭のようなところに二メートル間隔で人が並び、一時間くらい待って、打つのはすぐだった。アレルギーはないですね、ここ最近体調が悪くなったりしていないですね、というのを医者が注射針を持った状態で口頭で確認してくるのだが、イエス、イエスという他なかった。

 ヨーロッパ諸国には、ワクチンを打っていればあとは三十分で結果の出る迅速抗原検査で陰性ならば入国できたのだが、日本やアメリカは少し厳しく、特に日本に行くためにはイギリス側を出国する七十二時間以内に採取した検体で陰性を出さないといけなかった。PCR検査は場合によっては丸二日かかるので、検査をするタイミングの自由度があまりなかった。

 既に言った通り、ヒースローでは一時間半から二時間で結果が出るLAMP検査というものをやっていて、僕はそれを出国二日前にオックスフォードから日帰りで行ってする予定だった。予約までしていたのだが、その日に日本人たち数人で晩飯の予定に誘われ、もうお別れになるかもしれない、とそちらを優先してしまったのだ。


 タイミング悪くヒースロー空港自体のテストセンターがLAMP検査を休止していて、再開するのは僕の出発の翌日とのことだった。そのため、七月最終日、バスで数分のところに開いたの別の業者のテストセンターへ向かった。

 そして、その結果は僕の予約したエールフランス航空の便が出発するまで通知されることはなかった。僕はパリ経由で関西国際空港へと帰る予定だったので、フランス入国はしないがパリでの空港用の書類も用意していて、念のために迅速検査も行っていた。その結果は三十分で陰性と出ていたのだった。

「検査結果が出ないんです……」とエールフランスのスタッフに話をし、迅速検査は陰性だったのにとこぼすと、それなら乗っちゃえば行けるんじゃない?という反応が返ってきたが、結局「待てよ、日本か、あそこはダメだ、入国に厳しすぎる」と僕はもう完全にアンラッキーな青年として扱われていた。

 スタッフは僕の責任ではないから便を振り替えられるんじゃないかという話をしていたが、関空行きの便はパンデミックによる需要減少に伴って減便していて、二、三日後ということだった。とにかく我々はもう行かないと、明日の早朝またうちのスタッフに話をするといいよ、といって彼らは去っていった。


 空港に居場所もないので、とりあえずテストセンターに行って状況の確認をしようとしたのだが、僕が再びテストセンターに着いた夜八時頃には施設は閉まっていた。僕の移動中に雨が強まってきて、僕はただびしょ濡れで立ちすくんでいた。

 数分間雨に打たれながらどうしようと考えていると、無線を持ったスタッフらしき女性が施設の内側を巡回しているのに運よく遭遇した。金属の柵越しに声をかけ、僕の検査結果が通知されていなくて、もう飛行機も乗り過ごしたんだけど、僕の検体はちゃんと検査されてるのか確認してくれないか、と頼んだ。

 内側の人からしたら、半泣きの日本人がずぶ濡れで立っていて、異様な光景だったと思う。その女性は何やら無線で話していて、僕の予約番号などを確認してから実験室のありそうな建物へと入っていった。

 数分して戻ってきて、あなたの検体はちゃんと検査はされてるんだけど、結果が出るのはまだ先みたい、とのことだった。ここでゴネればもしかすると返金くらいは貰えたのかもしれないが、全体の損害からすると検査の代金は誤差みたいなものだったので、そうか、とだけ言って居場所のない空港へと戻った。


 イギリスの家も引き払っていて今すぐにでも日本に帰りたかったので、羽田行きの便も調べると、ブリティッシュ・エアウェイズの直行便が翌日の午後に出ているようだった。この場合エールフランスから返金が貰えるかは分からないが、家のない国であと何日も過ごす苦痛やその間にコロナにかかってさらに帰国が遅れるリスクを考えると、翌日に羽田に行く方がずっといいように思えた。

 そして、急遽ブリティッシュ・エアウェイズの便を予約し、翌朝のヒースローでの別業者のLAMP検査も予約した。この検査が空港内で受けられるのはちょうど明日からで、僕はがとても悪かったのだ。


 それからの時間は過酷だった。まずはスマホの充電を確保しないといけない。僕がいたターミナルにはチャージスポットがほとんどなかった。

 歩いていて見つけたところは柱の下の方で、周りに椅子もないので充電をしながらリュックを枕に地べたに寝ることにした。全部、人生で初めてのことだ。深夜三時ごろに、巡回している警備員にをされることになる。乗り過ごして、次の便を待っているんだというと納得はしているようだったが、パスポートを出せと言ってきて、何のためとも言わずその番号をメモしていた。

 

 さて、僕はエールフランスでロンドン東京間の往復チケットを予約していて、行きに乗れなかったのでブリティッシュ・エアウェイズの東京へのチケットを購入していた。

 翌朝に空港で家族と電話していて兄に指摘されたのだが、まず往復チケットを片方だけ使うことは基本的に許されないらしかった。だからこのままだと日→英のチケットは買い直さないといけない。

 そして、往復チケットと片道チケットはほぼ同じ値段なのである。直感的には往復だと片道二回分なので片道の倍くらいの値段になると思えるが、往復割引というものがとても大きく作用し、特に日本とヨーロッパなどの長距離の往復はほとんど片道と同じ値段でできる。逆に、片道を二回とると大損することになるのだ。

 このときのブリティッシュ・エアウェイズのチケットは、直前に取ったことと円安の影響で三十万円に達するものだった。これをもう一回払わされてしまっては困る。急いでウェブサイトで変更しようとするが、できない。そしてカスタマーサポートに電話するが、リスニングに散々苦戦した挙句に、もうあなたのチケットは変更できないですねと言われる。

 それでは困る——幸運にも今いる場所は空港だったので、最後の望みをかけて、ヒースローのカウンターに行って事情を説明する。ここで僕が必死でアピールをすると、向こうは最終的に何やらカスタマーサポートよりも権限のありそうなスタッフに電話を繋いでくれて、カウンターの人を経由して事情を説明すると、なんとか往復のチケットに変更することができた。値段はほぼ変わらず、追加料金は一万円くらいだったと思う。

 後日のことだがエールフランスも返金に応じてくれて、は最小限に抑えられた。


 さて、朝に行ったLAMP検査は無事搭乗前に陰性となり、その数時間後に前日の検査結果も陰性と通知された。二時間と謳っているところを二時間もかけて丁寧に検査してくれて、非常にありがたい話である。

 保安検査場に進めるのがあんなに嬉しかったことはない。帰りの十時間ちょっとのフライトは体を休めることにした。


 日本に着くと、長い長いアトラクションのようなものが待っていた。それは大学でやる健康診断の歩く距離だけを百倍にしたような、羽田空港をふんだんに使ったものだった。

 僕はイギリスからの帰国で、イギリスは「変異株等流行地域」に指定されていたため、帰国者たちのうち最も待たされる列に振り分けられた。陰性証明に関する書類を提出し、帰国後の自主隔離期間に使われるアプリをインストールし、そして帰国後の検査を行った。

 この検査で陰性が確認されると、バスに詰め込まれ、今から横浜のアパホテルに行くという。帰国者は基本的に十四日間の自主隔離が義務付けられていたが、イギリスからの帰国の場合はそのうち初めの六日間は政府指定のホテルでということだった。


 ホテル自体は小綺麗で、支給される食事も美味しく、これが普段の状態だったらまあまあ快適だったと思う。しかし、部屋から出られない、日光が浴びられないというのは特にヨーロッパ側からの帰国者にとって大変な苦痛だった。

 時差ボケには、酷くなりやすいというものがある。日英はサマータイム下では八時間離れていて、日本の方が進んでいる。だから、日本からイギリスに行く場合は、現地時間に生活リズムを合わせるには八時間夜更かしすることになる。これは比較的簡単だ。しかし、その逆は大変難しい。十六時間夜更かしをするのも、八時間早起きするのも、人間にはそう簡単にできるようにはなっていない。

 ではどうやって生活リズムを現地のものに慣らせばいいのか。この答えは、日光を浴びることにある。現地で外を歩いて、夜のはずの時間に日光を浴びれば、体内時計は急ごしらえの調整を始めるのだ。

 しかし、僕の部屋は日光が入るでもないし、体を動かすことのできるスペースもなく、この六日間の間に生活リズムは全く日本のものに合うことはなかった。ちょうどこのころ東京オリンピックをやっていて、テレビで垂れ流していたのだが、見たい種目の時に限って僕は寝落ちしていて、夜になって目覚めて「見逃した!」と悲しむのだった。

 僕が目を覚ますのは決まって、朝昼晩の食事が支給されることを知らせる爆音の管内放送だった。このときだけ、僕たちはドアを開けることが許される。ドアノブにかかっている食事を回収して、洗い物を外に出して、また外界との関わりは閉ざされるのだった。

 一日に一回くらい自主隔離用のアプリに自動音声からの着信が入って、ちゃんと隔離していることを確認するためにカメラをオンにしろと促される。SFの管理社会って、意外とすぐに実現できるものなのかもしれないな、と思いながら、また眠る。


 そうやっていつ寝ていつ起きているのかもよくわからないまま六日が過ぎ、最後の検査にも問題がなかったので、ついに解放された。

 やっと、外に出られる。

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