第11話 A mathematician's building

 写真撮影は十月の下旬にあった。天気はあまり良くはなく、雨自体は小雨だったが、非常に風の強い日だった。サブ・ファスクの上にユニクロのダウンを雨避けに着て、フードを被ってチャックをいちばん上まで締めた。ジェイクなんかは、あまりの風の強さに、廊下で集合して一歩出た後に「もっと暖かい格好にするよ、すぐ追い付くから歩き始めてくれ」と部屋に戻ってしまった。

 カレッジに着いた頃には、少し雨が強くなってきていた。Catzの学生らしき人が高そうなカメラを抱えており、雨が止むまで待とうか、と言っていた。僕らが待機していたのは直径二十メートル弱くらいの丸い三階建ての建物の下だった。

 雨が少し止んだ間に四人で並んで写真を撮った。角帽を被ったら、カメラマンに「フォーマルな写真の時は角帽は被らずに抱えるんだ」と言われた。帽子なのに?その時の写真を見返すとベラの髪が大きく風に吹かれていて、僕の天気に関する記憶はあっているのだろう。

 一人ずつの写真も撮影した後、MCRに世帯ごとのお土産があると言われた。丸い建物の二階は大学院生用のスペースらしい。ここでいう二階とは日本でいう三階のことだ。イギリスでは外の地面と同じ高さの階はグラウンド・フロアといい、その上のフロアから一階、二階、とカウントしていく。

 二階のMCRにはお酒を含む飲み物とカレッジグッズの詰め合わせらしき袋が世帯ごとに用意されていた。ソファーやヨギボー、あるいは作業のできそうなちゃんとした机があり、棚にはボードゲームも数多く置かれている。

 MCRとはミドル・コモン・ルームのことで、学部生用のJCRと教授陣用のSCRに挟まれている。Jはジュニア、Sはシニアだ。基本的にJCRはカレッジメンバーなら誰でも入ることができ、MCRは院生限定だ。僕はSCRにも何度も入ることになるが、その話はまた今度。MCRというのはカレッジの院生の自治組織の名前にもなっていて、MCRコミッティーの選挙なんかもある。生徒会みたいなものだが、割とまとまったお金を使えるようだ。MCRにはバーもついていて、そこで飲み物を出すのもコミッティーのメンバーだ。


 帰りには四人でカフェに入った。キッチンや廊下で一人二人会うことはあっても、こうやって座って四人で机を囲むのは初めてだった。実際には寮にはもう一人いるのだが、今回は仕方ない。

 ここで改めてお互い自己紹介しようということで、ゆっくり話すことになった。あまり何を話したか覚えていない。オックスフォードには死ぬほどニッチな学位があるだとか、そういうことをジェイクが話していた気がする。彼は割とオックスフォードのを斜めに見ている節があった。そのあたりで僕と気が合うところがあったのだと思う。

 ベラは用事があるとのことでカフェの解散後に離脱した。三人で帰宅しようかというところで、ジェイクが小物店のようなものを見つけ、三人で入った。なにかイギリスらしいものでもあるかなと店内を見渡すと、コンパクトなチェスセットがあったので、「家でルール教えてよ」と二人に言いながら買った。

 後日、ジェイクにルールを聞きながら初めてチェスを指したところ、僕が勝った。別に勝って言い訳をする必要はないのだが、日本にはショウギというものがあり、それに似てるから、と説明しておいた。


 オックスフォードに来てからまるで数学の話題がないじゃないかと思われるかもしれないが、それは構成上の都合を超えてある程度正しい。

 オックスフォードの学期はターム制で、年に三つのタームがある。十月上旬スタートのマイケルマス・ターム、一月中旬スタートのヒラリー・ターム、そして四月下旬スタートのトリニティ・タームである。それぞれのタームはWeek 1からWeek 8までの八週間で、これがいわゆる授業期間である。

 学部生や修士の学生の場合は、最初の二学期に受けた授業群について、最後のトリニティにまとめて試験があることが通例だ。そもそも非常に強いプレッシャーのかかった全ての試験が一度に行われるので、最終タームの学生たちは大変である。学部生の寮から泣き叫ぶ声を聞いたという知り合いもいたし、悲しい事件が起こることもある。

 このあたりのことについて、一度カレッジの大人がメンタルヘルスについてオンラインで説明するセッションがあった。僕は参加できなかったのだが、参加したジェイクが珍しく憤っていた。カレッジの人は「学業のプレッシャーでメンタルを崩すのは普通のことです。薬もありますから、相談しに来てください」という旨のことを言っていたという。僕はこれを聞いてまあそんなもんなんじゃないかと思ったのだが、彼によると「だから安心してメンタル壊すまで勉強しろ。ちょっとくらい鬱になるのは普通のことだ」というニュアンスだったようだ。

 話が少し逸れてしまったが、2020年のマイケルマスのスタートは10月11日からだった。ターム開始前の一週間をフレッシャーズ・ウィークと呼び、ここでは新入生向けの様々なガイダンスや交流イベントがある。例年は、大テントでのサークル勧誘会のようなものもある。同時に世界中から人々が押し寄せるため、お互いが免疫を持たない病原体の交換の場にもなってしまっており、例年はタームが始まってから少し経つと皆がゴホゴホと咳き込み始める。これをフレッシャーズ・フル(インフルエンザのフル)という。

 2020年に限ればフレッシャーズ・ウィークはオンラインのイベントが主だったが、それでも生活基盤を整えるのと併せてかなり忙しかった。


 カレッジでの入学記念の写真撮影から少し時を戻して、僕が初めて数学科の建物に行ったのは10月5日だった。

 僕の寮からカレッジに行く時にロングウォール・ストリートに入るところで曲がらずにハイ・ストリートを西に直進すると、シティセンターの手前で通りが左に曲がる。そこで左ではなく右に曲がると歩行者天国になっているコーンマーケット・ストリートというのがある。あまり美味しくない日本食チェーン、それなりに美味しい日本食チェーン、マクドナルドなどが軒を連ね、土産物屋などもいくつかある。この歩行者天国エリアを北に抜けてしばらく行くと大通りに接続し、10分ほど北にまっすぐ歩くと謎の噴水とそれを囲むいくつかの新しめの建物があり、その一つが現在の数学科である。


 アンドリュー・ワイルズ・ビルディング。これが数学科の建物の名前である。建物はノース・ウィングとサウス・ウィングに分かれており、その間にはグラウンド・フロアにはレセプション、一階にはコモンルームがある。コモンルームの天井はガラス張りで、日光の弱いイギリスでそれでも日光を浴びて昼食を取りたいという意地が感じられる。学部生と修士の学生が入れるのはレセプションと地下のエリアのみで、地下には大小様々のレクチャールームがあり、大ホールのあたりは数学の範囲を超えて国際学会の開催によく使われている。

 博士課程、つまりポスドクや教員など研究をしに来ている人たちは南北いずれかのウィングにオフィスがあり、いずれも五、六階建てだったと思う。オフィスの南北は整数論や代数学、幾何学などの数学が北、確率論や数値解析、ファイナンスなどの数学が南という風に分かれており、ここについてはかなり感じが悪い。実際に、コモンルームであった学生に自己紹介をした時に「お前は南かぁ〜」と明らかな嘲笑が返ってきたこともある。がっつり機械学習をやっている先輩が「俺応用の人間とは喋らないんだ」と面と向かって言われてキレていたこともあった。まあ、イヤな奴はどこにでもいるということだが、設計思想の段階でなんとかできたところがあったのではないかという気もする。

 ウィング内は両翼とも吹き抜けの周りに各階の廊下がバルコニーのように出ていて開放的で、空間内を贅沢に使った階段はどこかホグワーツを彷彿とさせる。僕のオフィスは三人部屋だったが、特に一年目はほとんど誰も来なかったこともあり、空間を贅沢に使っていた。

 さて、アンドリュー・ワイルズという名前に聞き覚えのある人はいるだろうか。彼はオックスフォード大学の教授なのだが、「フェルマーの最終定理」という整数論の非常に有名な問題を解決したことで知られている。その偉大な数学者の功績を讃え、新しい数学科の建物の名前が付けられた、というわけだ。僕が自慢できることといえば、僕のオフィスと彼のオフィスの部屋番号が、北と南を示すアルファベットNとSを除けば一致しているということだろうか。つまり、僕が数学界のアンドリュー・ワイルズに……なるわけではないが。

 数学科の建物周りにはもう一つ有名な数学者の話がある。入り口の前の地面が二種類のタイルによってに敷き詰められており、これはペンローズ・タイリングと呼ばれるものの一種だ。このタイリングを発見したロジャー・ペンローズはオックスフォード大学数学科の名誉教授なのだが、スティーブン・ホーキングと共に一般相対性理論から特異点の存在——つまり基本的にはブラックホールの存在を理論的に導いたことで知られ、物理学者としても非常に有名だ。なんと僕が数学科を訪ねた翌日、ペンローズ教授はこの業績によってノーベル物理学賞を受賞する。


 僕が数学科に初めて訪れた10月5日には、DPhilの新入生向けのガイダンスがあった。これも感染対策のために小規模なグループに分かれており、何人かと喋ったのだが、このうち名前を覚えているのは一人だけだ。その一人とも、会えば少し話す程度にしか発展しなかった。リモートワークで全く問題のない数学研究のと新型コロナによる社会情勢の相乗効果によって、同期との交流はほとんど発生しなかったのだ。

 同期との交流はなくとも、確率解析グループ内では学生は自然と親しくなった。これは共に学会などに参加する機会などが多いからである。ただし、これもまともに知り合ったのは翌年の春以降だ。


 十一月の頭から、第二のロックダウンが始まるのである。

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