第12話 A problem in geometric probability

 ガイダンスを終えた僕は、せっかく遠くまで来たのもあり少しオフィスでゆっくりすることにした。

 寮から数学科までは歩くと四十分近くかかるが、今回は自転車で来ていた。オックスフォードの行動範囲はどこも大体自転車で十分くらいで行き来できる範囲なので、初手での自転車購入がおすすめである。ただし、この街では、あるいは国全体の話なのかもしれないが、自転車盗難が一つの文化となっているので気を付けなければいけない。僕はライトを二回盗まれたし、ある日寮に返ってきたら誰かの自転車が駐輪スペースに固定された前輪を残して盗まれていた。遅い時間帯に、片手で自転車に乗りながら盗んだばかりであろう別の自転車をもう一方の手で器用に転がしている人を見たこともある。

 そんな自転車業界の治安はともかく、アンドリュー・ワイルズ・ビルディングは快適だった。各フロアにキッチンがいくつかずつあり、普通のタブとは別に冷水と熱湯がわざわざ沸かしたりしないでも直接出るタブがあった。インスタントコーヒーやティーパックも沢山あったので、とりあえずオフィスでコーヒーを頂くことにした。

 基本的には内装も設備も素晴らしかったが、逆にあまり快適ではないのはトイレだった。トイレを流す際に押すボタンがめちゃくちゃ重いのだ。一回トイレを流すのにあんなに体重をかけてボタンを押さないといけない。そして、そうやって流れるトイレの水洗能力は非常に低い。

 なんと、僕は初日にトイレを詰まらせてしまったのだ。一度に紙を流しすぎる僕も悪いのだろうが、年に一回くらいは詰まらせることになり、僕が人生で詰まらせたトイレの半分以上はこの数学科のものである。使おうと思ったら既に詰まっているという場面にも何度か遭遇したので、この建物を建てる時に誰かがを間違えたのかもしれない。


 僕の指導教員は面接で話した二人だ。若い方の准教授の先生がハラルド、六十代後半の大御所の教授がテリーである。メールでは「プロフェッサー+苗字」を使っていたが、話すときは名前である。メールの書き出しも一ヶ月もしないうちに「親愛なるプロフェッサー・〇〇」から「ハイ、ハラルド、テリー」に変わったのだが。

 コーヒーを入れてキッチンから戻ると、僕の隣のオフィスから出てきた男性にバッタリ会った。

「ハラルド先生……ですか?」

「やあ、サトシ、会えて嬉しいよ」

 背は僕よりも少し低く、眼鏡をかけている。髪はスキンヘッドに近い。ハラルドは手を差し出して握手を求めてきたが、いたずらっぽく笑って「今はこういうのはダメだったね」と引っ込めた。ハラルドは少し忙しそうに「ちょっと用事があるから、またミーティングでね」と去っていった。

 実は今日の朝にテリー、ハラルドとのオンラインでのミーティングがあるはずだったのだが、僕のガイダンスと被っていて来週からになっていたのだった。

 テリーは学生やポスドク全員と週一でミーティングしており、彼の秘書から「わかるでしょうけど、テリーは忙しいから」と言って選択の余地なくスロットを指定された。怒られるかもしれないが、みんなと週一でミーティングを入れるからじゃない……?というのは今でも思っている。

 東大では割と僕が何かを思いついたタイミングで話していたので、ミーティングが数ヶ月空くこともザラにあったし、数学の研究をしていて一週間でコンスタントに本質的な進捗が生まれるというのは想像しにくい。


 建物全体が閑散としていたのでダメ元だったが、N先生のオフィスを訪れると、ドアが少し開いていた。ノックすると「カム・イン」と返事があった。

「サトシくんだったか。これはこれは、オックスフォードへようこそ」

「ありがとうございます。ようやくって感じですね」

 それから、お茶をもらいながら少し談笑した。その途中で、N先生は「これ面白いと思ってるんだけど査読者にウケないんだよね〜」と単著の論文を見せてくれた。その論文に関連してだったか覚えていないが、最後にジェームズというポスドクについても教えてくれた。

「ちょうど君と同じ指導教員二人だから、色々聞いてみるといいよ。ちょうどこの前博士取ったばっかだし」

 別れ際にホワイトヘッド・ライブラリーという図書室を教えてくれ、N先生とは解散した。


 オフィスは、春くらいから誰も立ち入っていないような雰囲気だった。外のネームプレートの名前も更新されていない。N先生が教えてくれたジェームズは、少し前まで僕の机を使っていた人物なのだ。ジェームズにオフィスの荷物を回収してくれますかとメールを書く。ついでに、指導教員が同じだけど何かアドバイスはありますかということも添えておいた。

 メールは割とすぐ返ってきた。今の確率解析グループに誰がいて、何をやっているかの表がついていて、状況を把握するのに助かった。研究については割と普通の内容だったが、一つだけ真意のよくわからないことが書いてあった。

 ——テリーはいくらでもアイディアを生み出せる。一回に考えるのは一つ二つにしたほうがいい。


 その意図は、次の週のミーティングでよくわかった。テリーはとにかく喋り続けるのだ。三人のミーティングで、九割の時間はテリーが喋っていた。最初のミーティングでは、僕が自分の意見を喋る暇もなく、テリーが話した内容がチラッと載っている論文を共有してもらった。ハラルドはそういうテリーの様子に慣れているようで、基本的にはずっと聞き手に回っていた。

 10月12日に始まった毎週のミーティングでは、様々な話題に移り変わりながらも、最初の一ヶ月くらいはいくつかの数学的な話題が並行で走っていたと思う。基本的に大元にあったのはCubature on Wiener spaceの話、つまりテリーとその教え子が2004年に出版した論文であり、そして僕が修士の頃に取り組んでいた話題でもある。何度か出てくるかもしれないので、CoWとして言及しよう。

 

 まず最初に取り組んだ問題は、僕が修士の頃に前述の論文を読んだ際、ある定理の証明に修正が必要であることに気づいたことに由来する。

 ——CoW論文の中に使われている主張には反例があるのか、それともギャップを埋めれば正しい証明になるのか?

 この話は、テリーが口頭で考えた例を少しいじるとそのまま反例になった。元になっているラフパス理論周りの話の理解と反例の検証に二、三日かかったが、10月22日にはこの結果を一ページの論文形式で書き下している。この話は結局、修士の指導教員とテリーとの相談の上で、修士の第四論文の注釈として改訂版に含めることになった。


 次に上がった話題は、CoWを実装する上で必要なリコンビネーションと呼ばれるアルゴリズムについてだった。このアルゴリズムを既存の別の問題におけるアルゴリズムと組み合わせることで、簡単にが得られそうだった。

 しかし、この話はお蔵入りになった。その次の問題があまりにも面白かったからだ。


 僕の修士第四論文の重要なポイントはこうだ。

 ——高次のCoW公式を手計算で作る方法は一般的には知られていないが、ブラウン運動を直接サンプリングできるなら、それに付随するランダム凸包を考えることでコンピュータ上で確率的なアルゴリズムとして作ることが可能である。


 そもそもCoW論文を読んだことがない人には何を言っているかわからないと思うので、噛み砕いて説明しよう。

 Zくんは平面状の板にランダムに釘を投げる。話を簡単にするために、釘に太さはなく、釘は板にまっすぐ刺さるとしよう。我々は、その人の釘がどこに刺さるかを知っているとする。平面をxy座標と見れば、釘のそれぞれの座標の平均値で定まる点のことだ。ここに「平均の印」をつけておく。

 Zくんがランダムに何本か釘を投げた後に、きつい輪ゴムを釘全部を囲むように置いて、手を離すことを想像してほしい。そうすると、外側の釘を直線で繋ぐように、輪ゴムと釘による多角形ができるのがわかるだろうか。この多角形を刺さった釘たちのという。釘を投げ直すたびにこの凸包は変わるので、凸包と呼ぼう。

 さて、僕が修士の頃にやっていたのは、実質的には、さっきつけた「平均の印」は釘をずっと投げていけばいつかこの凸包——輪ゴムで囲まれたエリア——に入る、ということだ。実はさらに、輪ゴムが引っかかっている釘のうち三本を選んで、それらが作る三角形の内側に「平均の印」が入るようにすることも可能だ。これが重要な三角形になるのである。

 ここまでは平面、つまり二次元の話だったが、実際には何百次元でも同じ話ができる。ブラウン運動をサンプリングするというのが「釘を投げる」ことに相当し、シグニチャと呼ばれる高次元の特徴量が住んでいるところを「平面上の板」に見立てることで、その後に得られる「重要な三角形」がCoW公式に相当する。もちろん、ここでいう三角形は単体という一般次元のものに置き換える必要があるが。


 恐らくこの説明は噛み砕き切れてはいないと思うのだが、本当に賢明な読者なら疑問を持ったところがあるかもしれない。

 ——「平均の印」は凸包に入るというが、実際いつ入る?

 これは非常に重要な問題で、何回のサンプリングが必要かを問うている。これは僕が修士の頃少し考えて難しすぎると諦めた問題だった。テリーの投げかける質問の洪水の中に、この問題もあった。

「それ、僕も修士の頃考えててできなかったんですけど、テリーも興味あるなら、もうちょっと考えてみます」


 この問題にのめり込んでいる間に11月6日を迎え、ロックダウンが始まった。

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