第2章 1年目
第8話 Dark grey
ロンドン・ヒースロー空港はロンドンの西の外れにある。オックスフォードはロンドン中心部から北西に位置し、空港から一時間半ほどで中心街に着く直通バスが出ていて便利である。
十二時間のフライトを終えて英国時間の夕方にヒースローに着いた僕は、ロンドン観光に興じることもなくオックスフォード入りを果たした。寮に入るのは二日後なのだが、日本の奨学金から引っ越しの準備として現地で三泊分のホテルを取ってもいいと言われていた。寮は中心地から東に歩いて二十分ほどのところにあり、立地のいいホテル滞在中にあれこれ済ましておきたい。
暗い。
オックスフォードの第一印象は、暗い街、ということだった。到着して最初の一週間はずっと雨か曇りだった。時折日が差しても太陽の位置が低い。街には石造りの建物が所狭しと並んでおり、日光のほとんどを遮ってしまう。
オックスフォードは北緯52度に位置し、日本の主要都市と比べるとかなり北の方にあることになる。見慣れたヨーロッパの地図はだいたい日本地図と同じくらいの高さにあると思っている人も多いだろうが、秋田の男鹿半島を通る北緯40度線はイタリアのヒールの先を通過する。日本最北端はおよそ北緯45度なのだが、これでやっとフランス本土の南端あたりである。
イギリス、なんならヨーロッパ諸国が北国だというイメージは、実際に住んでみるまで持っていなかった。
イギリスと日本の時差は基本的に九時間だが、英国夏時間、つまりサマータイムの影響で三月末から十月末ごろまでは八時間に差が縮まる。冬以外は日が出るのが早いから一時間早く社会を回そう、ということだ。ヨーロッパでも同じタイミングでサマータイムがあるので、イギリスとヨーロッパの間の時差は一時間で保たれている。
ホテルに着いたのは十九時頃だったが、サマータイムの影響もありまだ日が落ち切ってはいない。疲れているが、店が早く閉まりそうなので晩飯を食べないといけない。ふらっと歩行者天国のようなところに出ると、謎の日本食チェーンがある。食欲はそそられないが、そもそもあっさりしたものを食べたい気分だったので、寿司サラダのようなものを購入し、ホテルで食べる。
まずい。味付けという概念を知らないのか?
あくびしながらシャワーを浴びる。石鹸しかないのか。溜まっているメールの処理を明日の自分に任せて目を閉じる。
時差ボケを心配していたが、翌朝には意外とスッキリとした目覚めで驚いた。日本からイギリスの向きであれば、八時間夜更かしをすればいいことになって、元々日本で夜型な僕には被害が少ない。
昨日今日と大学からたくさんのメールが届いている。まず優先されるのはインターネットへのアクセスと、給料を受け取るための現地の銀行口座だ。
とりあえずプリペイドのSIMカードを購入する。10GBあれば一ヶ月は大丈夫だろうか。電話番号も使えるので、応急処置としてSMSも使える。後からプリペイドじゃない契約をここですれば電話番号を引き継げるか、と聞くと、それは無理だと言われる。この一つの質問を成立させるのにも時間がかかり、どっと疲れる。
銀行については、イギリスではとりあえず開設の簡単なネットバンクを開くといいらしいというのが事前の調査の結果だった。
評判のいいアプリをインストールし、パスポートの写真をアップロードする。本人である証拠に、iPhoneに向かって話す。いよいよというところで、住所を証明する書類を求められる。公共料金の支払いだとか書いてあるが、住むのは寮だ。苦し紛れに住所の書かれた大学の書類をアップロードするが、審査に落ちる。おいおい。
アプリをもう一つ試す。そもそも審査まで進めない。
諦めかけながら最後に試したRevolutというアプリでは、住所も自己申告で記入するだけで開設に成功した。二つの奨学金の担当者それぞれに口座情報をメールで伝える。デビットカードがあるらしいので、カレッジの住所に送ってもらえるように申し込んでおく。
大失敗はしないであろうマクドナルドで昼食をとり、午後にカレッジに学生証とBRPを受け取りにいく。BRPとはBiometric Residence Permitの略で、要は居住許可証である。名前から察するに東京のビザセンターで取られた指紋か何かの情報も埋め込まれているのだろう。
St Catherine's College ——それが僕の所属するカレッジの名前である。カレッジという概念を説明するのは少々難しいが、ひとことで言えばハリーポッターにおけるグリフィンドールみたいなものだ。オックスフォード大学には約四十のカレッジが存在し、学生や教員はそのうち一つに所属する。カレッジは学生の生活に関する側面を主に担当する。例えば、学部生は基本的に卒業までずっとカレッジの提供する寮に住むことになっており、大学院生も一年目に関してはほとんどが寮に入る。
みな所属するカレッジで比較的安く食事をとることができ、フォーマルと呼ばれる少し格調の高い夕食に招待し合うことがオックスフォードでの一つの遊びである。フォーマルでは、教授など偉い先生方は一段高いところにある長机で、紺色のガウンを羽織って食事をする。階級社会風の光景である。……といっても、この時点では新型コロナの影響で食堂で座って食べることはできなかったように思う。持ち帰りのみで細々と運用されていただろうか。
古今東西、長い名前は略される運命にある。僕のカレッジは公式にCatz(キャッツ)と略されており、以降はこの名前を使うことにする。
Catzに着くと、駐車場と少しの緑を囲むように寮がある。イギリスの現代的な学生寮を外から眺めると、ひたすら窓のついた正方形が規則的に配置されている。情緒の一切ない建築物である。Catzは戦後にカレッジの仲間入りを果たした若手である。最古のカレッジは十三世紀からあるそうだ。残念ながら今回僕はカレッジに併設された寮に入ることは叶わず、Catz Houseというオックスフォードの東の外れの寮に住むことになる。
受付らしきところに僕の三倍くらいはありそうな大柄な男性が複数座っている。
「学生証を受け取りに来ました」
「そうか、あっちの建物のオフィスで書類をもらって」
どの建物かよくわからないが、とりあえずここでは貰えないらしい。指示された方面に少し歩くとなんとなくそれっぽい建物がある。外に学生らしき青年が一人立っている。どうやら同じように書類の受け取りを待機しているようだ。
そこで待っていると、忙しそうな表情の女性が出てきて、「君、サトシ?」と確認してくる。そうだと言うと着いてこいと言われ、執務室のようなところで座る。こちらのパスポートを渡し、満足したのかBRPやNHSの書類を渡され、説明を受ける。何度か聞き返すも早口であまり何を言っているかは分からなかった。まあ書類があるから大丈夫だろう。
NHSとはNational Health Serviceの略で、イギリス国民医療サービスのことである。イギリスは国民皆保険であり、毎年医療費を納入する代わりに日々の医療は自己負担なしで受けられる。といっても、医者に行こうとしても数週間後、数ヶ月後にしか診てもらえないということがザラにあるわけだが。
最後に、学生証はロッジで受け取れ、と言われる。「ロッジ」が何かは分からなかったが、「分かった」と言って部屋を出る。外で立ち止まる。
——ロッジってなんだ。どこにあるんだ、それ。
二分くらいウロウロと周りを探すが、「ロッジ」は見つからない。何かわからないものを見つけようとしているのだから、当然である。諦めて、もう一回さっきの執務室を訪ねる。
「すいません。えっと、どこに行けば……」
「ロッジよ」
「どこに……」
「あっちに歩いて右」
センキュー、センキューと言いながら指された方へ歩く。結局、最初の受付らしきところがロッジだった。
ロッジで学生証を受け取る。ついでに明後日入居する寮の鍵ももらえるかと聞くと、今日は渡せないとのことだった。
ホテルに戻り、書類を眺める。また読んでいないメールが増えている。いくつかのメールに仰々しい英語で返信する。
——晩飯、食べないと。
外に出る。空は、今にも泣き出しそうだった。
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