第7話 All's well that departs well

 予備審査用に既に提出した修論原稿に見つかった誤りについて、急いで修正を試みる。多次元ブラウン運動の多重確率積分たちの間の線形独立性を示す「補題」なのだが、考えている確率積分に時間積分項も登場するため話がややこしくなっている。大きな勘違いによって、線形独立性が無条件で成り立つというの証明をしてしまっていた。

 この勘違い部分への反例をそのまま使うとすぐに補題自体にも反例が見つかり、証明をいくらこねくり回しても補題の主張を示すことはできないことを悟る。

 ではもっと上の段階はどうか?

 この補題は、より示したい「命題」を証明するためのいわば踏み台であり、命題を示すためには補題の内容を修正すれば済むかもしれない。命題は、先述の多重確率積分たちを並べたもの分布がベクトル空間内でどうなるかについて。分布の台のアフィン包といわれる対象——居住空間と呼ぶことにする——を特定するものである。

 ダメだ。無条件の線型独立性から導いた分布の台の居住空間も間違っている。

 

 まだだ。この命題はさらに「定理」を示すための踏み台であって、この定理がほぼ第四論文の主結果になる。定理の意味するところはこうだ。ブラウン運動に基づくランダムな時系列を、多重確率積分という有限次元の情報に制限してやれば、非ランダムな時系列の集まりを制限したものと実は居住空間が同じなのではないか。

 この定理が正しければ、ランダム時系列を使う代わりに非ランダムな時系列の集まり——これはコンピュータにも扱える——を特定して使ってやることで、ランダムな現象の高精度なシミュレーションができる。

 補題を使って示そうとしていた流れはこうだった。ランダム側の居住空間は実際には全空間になる。非ランダムの居住空間はランダム側よりも広い。よって、両者の居住空間は一致する。もちろん、最初のステップが間違っているのでこれは回らない。


 補題の反例、つまりランダム側の線形独立性が成り立たない例を眺めていると、独立性の縮退に法則が少しずつ見えてくる。前回の証明の流れは使えないので非ランダムの居住空間も特定しないといけない。

 ——いや、特定しなくてもいいかもしれない。

 多重積分の式とにらめっこしていると、両者の居住空間を具体的に特定せずとも、それらのを直接示せる可能性が見えてくる。伊藤型からストラトノビッチ型への変換が鬼門だったが、三ページの計算を経て「居住空間の一致」のみの成立が帰納法によって示せることがわかった。

 ——補題と命題は間違っていたが、「定理」はやっぱり成り立つんだ。


 数学的には大きなギャップの修正になったが、実際には先生のメッセージを受け取った日から半日程度で証明の修正は完了し、それに伴う論文自体の修正も翌日には終わっていた。修正された証明は元々のものよりもはるかに複雑になっていたが、指導教員とのオンラインミーティングで今度こそ納得してもらい、審査員の先生方に修正原稿を再送付した。原稿は少し早めに審査員の先生たちに送っていたため、この時点でもまだ予備審査まで二週間以上あり、特にお咎めは受けなかった。


 こうして紆余曲折あったが予備審査での評判はよく、八月の最終審査も乗り越え、早期修了は無事に成功した。

 普段はこういう直前のバタバタがないように先回りして物事をやるタイプの人間なのだが、色々なイレギュラーがあるのは仕方ない状況だったのかもしれない。といっても、この論文修正ドラマはもう二度と体験したくない類の記憶になった。


 パンデミックから世の中が日常を取り戻すことはなかったが、予備審査以降は比較的平和な日々になった。何をしていたかはあまり覚えていない。たしか六月の後半は二週間くらいかけて『本好きの下剋上』を読んだはずだ。他にも何作か「小説家になろう」の作品を読んでいたと思う。

 応募していた科学オリンピック代表候補向けの奨学金も面接を経て受給が決定し、Clarendon側の併給規定の範囲内で生活費等を支援してもらうことになった。

 もう一つ直前の心配事があったとすれば、学生ビザの取得である。日本のパスポートを持っていれば半年までは問題なく英国で過ごすことができるが、それ以上の長期に渡って滞在しようとすればビザが必要になる。もちろんオックスフォードに受かった以上普通にやれば学生ビザが発給されるのだが、新型コロナの影響でビザの申請プロセスが何ヶ月も停止しており、本当に十月から学生をスタートすることができるのか怪しい状況だった。

 そもそもこの状況で渡英することが正しいのか、状況が落ち着くまでは日本からリモートで学生をやるべきなのではないか。そういうごく当たり前の疑問もあった——実際に、国際学生向けのオンライン説明会でそういう質問が出た——のだが、大学側は現地で学生をやることを強く推奨した。学生寮が貴重な収入源だからなのか……?とも思ったが。なにせ、述べられた理由は「オックスフォードは美しい街で、この素晴らしさは来てみないとわからない」だったのである。

 とにかく、年初の出願から浮上してきた沢山の障害はすべて結局は解決していき、学生ビザも九月に入り渡航までおよそ二週間というところで発給された。


 九月には新型コロナは第二波を過ぎて落ち着き始めており、様々なコミュニティでの小規模なお別れ会とともに東大の秋の卒業式もあった。秋は春に比べて人数的には少なくなるが、それでも留学生を中心に大学院では数百人が卒業する。

 新型コロナの影響で式には各学科・研究科の代表者のみが対面で参加することになり、その様子がオンラインで配信された。僕は特に何かを述べることもなく座っているだけで、時折うとうとしている様子が中継されてしまっていたようだ。数学オリンピックのかなり上の先輩が別の研究科の博士修了生代表として参加しており、閑散とした安田講堂でお互いの記念写真を撮った。


 九月末、東京の家も既に引き払っており、翌朝早い便での出発のため羽田に一泊することにした。

 その晩は空港まで来てくれた友人と羽田の回らない寿司を食べた。世の情勢もあって彼に会うのは久しぶりで、ほとんど誰もいない空港で積もる話に明け暮れたのを覚えている。彼は餞別に架空の寄せ書きを三枚くれた。存在しないコミュニティの存在しない知り合いからのメッセージの群れの中に一つだけ、彼からのメッセージがあった。

 九月最終日の朝、パスポートを握りしめ、見送りに来てくれたまた別の友人たちに手を振りながら、羽田の荷物検査場へと進む。

 機内はガラガラで、三席を占有して横になっている人が散見された。

 九ヶ月間の準備がうそのように、あっさりとイギリスに入国した。

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