第33話 Before three visits
マイケルマスも中頃、本人はすっかり卓球留学一年目という気分だったが、周りはそうは思っていない。中間審査——トランスファーが迫っていた。
トランスファーはN先生とO先生に審査してもらおうということになっていて、O先生に二週間ほど連絡がついていなかったのだが、テリーが再度催促のメールを送ったところ返事があったということだった。連絡がつかない間にトランスファー論文自体は完成していた。メールで送ってもよかったのだが、また返信がなくて手持ち無沙汰になることを危惧して、印刷して先生方のオフィスに直接持っていくことにした。
N先生の部屋はドアが少し開いていた。これは在室のサインだということを一年目に聞いている。ノックをするとまたカム・インと言われたので、入室する。
「お久しぶりです」
「ああ、サトシくん、どうもどうも、座って」
座る前に「トランスファーの論文を渡しにきました」と言って紙の束を差し出すと、N先生が受け取る。
「一年目はどうでした?コロナで大変だったかもしれないけど」
「そうですね……ロックダウンは結構鬱っぽかってですね。夏休みはガッツリ休んだのでだいぶ回復しましたけど」
「結果的にひどいタイミングに留学を勧めてしまって申し訳ないな」
「いや渡航時点の状況でこうなることは予想しておくべきだったので。今年度は卓球部も入って良い感じです」
「卓球部?結構強いの?」
「まあまあです」
強い人っぽい口ぶりだね、と言ってN先生は笑う。今回はトランスファーについて話しに来たんだった。
「全然どういう雰囲気なのか分からないんですけど、トランスファー論文はこんな感じでいいんですかね。ハラルドが言うのに従って二つの論文をくっつけただけなんですけど」
N先生は僕が渡した原稿にパラパラと目を通す。
「まあ論文出してるのちょっとチェックしてましたけど、内容に関しては問題ないというか、なんなら既に博士号も全然出ておかしくないと思うよ。数学科は論文出さずに博士取る人もいるし」
「そんな感じですか。オックスフォードって早期修了とかありますか?」
「あー、それは難しいと思うな、標準より早くってのはあんまり聞いたことない。 そんなに早く帰国したいの?」
N先生は苦笑する。まあ否定はしませんが、と言って僕も笑う。
ただ、とN先生は続ける。
「このトランスファー論文はイントロがあまりにも短すぎるんじゃない?本当に二本の論文をくっつけただけじゃん」
確かにそうなのだ。テリーとハラルドの「トランスファーなんか気にしなくていい」という口ぶりを間に受けてほとんど加筆していない。二つの論文をまとめるイントロに半ページ、最後にこの先の方向性について述べたところがもう半ページだ。
「そうですよね。一応ハラルドには確認してもらって、オッケーということだったんですが」
「そうなの?まあ書き直せとは言わないけど、審査側も全部じっくり読むわけにはいかないんだから、今度からもう少し親切に書いた方がいいと思うよ」
指導教員二人とN先生のトランスファーに対する温度感の違いに少し戸惑いながら、オフィスを出る。そりゃそうだ。大学なんて人の出入りも激しいんだから、全ての先生が試験に対して同じ感覚を共有しているはずがない。それも博論審査ではなく学内の中間審査のような位置付けのフワッとしたものになれば尚更だ。
もう一人の審査員がより厳しくなければいいが……と少し憂鬱になりながら、O先生のオフィスに向かう。
事前にO先生のホームページを見ると、彼は統計学科の教員などを含むオックスフォードの確率論グループ(Oxford Probability)の一員ではあるが、数学科の中の分類では離散数学に属しているようだ。論文一覧を見ると、ランダム・グラフやパーコレーションなどのキーワードが目につく。組合せ確率論の授業もしていて、その意味では僕のランダム凸包論文とのテーマ的な親和性はある程度高いだろう。
オックスフォードの数学科はノース・ウィングとサウス・ウィングに分かれているという話を以前したのを覚えているだろうか。離散数学はアルゴリズムと近く、例えば東大でも工学部で盛んに研究されている対象である。なので当然応用数学のサウス・ウィングにいるのだろう、と思って調べると、ノースにオフィスがあるようだった。まあこういう分類をいちいち気にしてもしょうがないのだが、ランダム行列を専門にしながら「俺がやっているのはピュアマスで、お前らサウスとは違うんだ」というようなことを言っていた男の顔が脳裏によぎった。ランダム行列は確率論に入るかと思いきや数理物理で、そして数理物理は純粋数学らしい。
そうして微妙な気持ちになりながら初めてノース・ウィングの上の方の階まで上がったが、O先生は不在だった。リモートで働いている先生も多いだろう。とはいえ二週間テリーへのメールに返事がなかった前科があるので不安がよぎった。既に想定していたスケジュールよりかなり遅れている。次のタームが始まるまでに終えられないと面倒なことになるが、大丈夫だろうか?
とりあえず明日も来ることにしよう。明日もオフィスにいなかったらメールで送るしかないだろう。
翌日もまた、ノース・ウィングのオフィスに訪れてもノックに返事はなかった。オフィスにいらっしゃらなかったのでトランスファー論文を添付しますね、とメールを送る。それからも日程調整などでO先生に何度かメールを送るが、全く反応がなく、届いているのかさえ不安になる。
O先生に連絡がつくのは、実に一ヶ月以上先のことだ。
なかなか連絡が取れず、トランスファーが本当に実施されるのか不安を抱えながら、研究もじわじわと再開していた。テリーやハラルドから提示されたテーマについて若干の思考を巡らせつつも、ランダム凸包のバウンドが、我々にとって興味がある具体的なケース——ブラウン運動による多重確率積分——に対してはよりタイトにできそうだと気づき、その証明の概略を十月末に一気に書き上げた。
そうして生まれた三ページくらいのPDFを指導教員たちに共有すると、ハラルドから「一つ目の定理はまさにウィーナー・カオスの超縮小性と同じものに見える」と別の論文のリンクが送られてきた。
「もしこれが正しければ、サトシの言っているバウンドは、分数階ブラウン運動を含むもっと広い範囲で成り立つんじゃないか?」
ハラルドの洞察は正しかった。僕が修士論文のときの長ったらしい積分の書き換えを思い出しながら捻り出したブラウン運動の多重確率積分に対する不等式評価は、より一般的な超縮小性(hypercontractivity)という性質から示すことのできるものだった。この超縮小性は、ウィーナー・カオスと呼ばれるより一般的な対象に対して成り立つ。正確には、ブラウン運動の多重確率積分はある次数までのウィーナー・カオスに入っているという表現をすべきだろう。これによって、多重確率積分に限らず、たとえば独立なガウス変数の多項式たちについても同様なランダム凸包の評価ができることになる。
この発見はしかし、理解が進んだという意味ではとても嬉しいニュースだが、自分が示したことが既知の結果を組み合わせればほぼ明らかになってしまうということも同時に意味していた。
理解が進めば、新しい疑問が生まれてくる。ウィーナー・カオスの超縮小性は基本的にガウシアンが根底にあって導かれるものだが、数値解析からの興味ではガウシアンはあくまで一例でしかない。他の種類の確率変数が作るカオスについては超縮小性は成り立たないのだろうか?
研究はまた面白くなり、そして「大きな問題」は依然としてぼやけたままだった。
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