第34話 A student, going out
研究者は元来、よく旅をする。元来とつけたのはパンデミックの影響で現在それがほとんど行われていないからだが、平時であれば国内外問わず学会や研究集会と発表の場所は多い。こと数学においては、セミナーが圧倒的に多い。
セミナーの名を冠する集まりにも色々あるが、ここでイメージしているのは週一だったりで毎回外から講演者を呼んできて一時間くらい喋ってもらうようなイベントのことだ。こういうのはセミナーの主催者側の誰かが共同研究を目的にして人を呼ぶこともあるが、単に論文を読んで気になった研究者に声をかけている場合も多い。
僕の場合、初めてセミナーに呼ばれたのは修士の頃、たまたま研究集会で出会ったとても近い内容を別の文脈で研究している人からだった。これはまさに共同研究が目的で、結局僕の留学もあり研究自体は指導教員に引き取ってもらうことになったが、発表のために一人で大学に向かうこと自体面白い経験だった。旅先だった金沢大学はわりと山に囲まれている。グーグル先生に言われた通りに降りたバス停から山道を進もうとすると、「熊出没につき通行禁止」という看板が置かれていて、数十分の回り道をしないといけないことが判明したのだ。当時トイレに早く辿り着きたいと思っていた僕は絶望した。どうやって解決したのかは割愛しておこう。もちろん研究発表やその後の議論自体も新鮮だった。
イギリスに来てからは、一年目に関西大学の確率論セミナーに呼ばれてオンライン発表をしていた。どうやって僕に辿り着いたのかはわからないが、ある分野で留学している日本人とかは意外と目立つのかもしれない。あとは、セミナーではないが夏に九州大学でのワークショップでもオンライン発表している。記憶から消しかけていたが、オーガナイザーをやらされたイギリス側でのオンライン研究集会もあった。
今年度は僕のそういう動きが少しずつ増え、夏から秋にかけてすでに二件ほどの連絡があった。
一つは東京確率論セミナーというもので、東京周辺の大学の確率論関係者が主催しているセミナーだ。対面の場合は慶應や東大のキャンパスでやっているようだが、今はオンラインに限定されている。十一月末に喋って欲しいということで、日本時間16:45開始というのが気がかりだったが、こういう機会も貴重なので引き受けることにした。
オンラインでどこにいても研究発表ができるといえば聞こえはいいが、それがために時差を無視して深夜だったりに国際会議のセッションを運営しないといけないとかいう悲鳴も同時に上がってくる今日この頃だ。十一月末というとサマータイムが終わってしまっているのでイギリス時間だと7:45開始で、日が出るか出ないかくらいの時間だよなあ、せめてサマータイム期間なら一時間遅いのに——そんなことを考えていたら何の因果かセミナー前日に高熱を出してしまい、僕の発表は翌年のサマータイム期間へと延期されることになる。
もう一つはオーストリアでの話だった。こちらは講演というよりも共同研究がメインで、量子情報を専門とする日本人研究者Yさんからの話だった。Yさんの共同研究者Sさんが僕が学部の頃にいた研究室の関係者で、たまたま僕の夏の九大ワークショップでの発表を聞いていたらしい。僕が話していたのは数値積分のためには色々なサンプリングアルゴリズム——数学的に定義される確率的な集合を、実際に計算機上で乱数生成によって得る技術——が必要になるという内容だった。
YさんとSさんは以前から、量子機械学習、つまり将来量子コンピュータによって新たに使えるようになる計算手法を使って機械学習分野の問題がどう高速に解けるようになるか、という分野を一緒に研究している。その次のターゲットとして僕が発表していたような特殊な分布からのサンプリングを高速化できるのではないか、という流れだ。
ロンドンの回でチラッとだけ話題に出たが、量子コンピュータになると、古典コンピュータ——現在我々が使っているものをこの業界ではそう呼ぶ——で出来ないことがいくつか出来るようになる。例えばショアのアルゴリズムという素因数分解の量子アルゴリズムは、RSA暗号など現代のセキュリティ上重要なものを破るのに使われてしまう恐れがある。暗号業界ではこのために、耐量子暗号といって量子コンピュータを使っても現実的な計算時間では破れないであろう暗号を持ってきて世界中で標準化しようという動きで大忙しだ。
世間ではよく量子コンピュータが万能であるかのような風説が聞こえてくるだろうが、量子になったからといって何でもかんでも出来るようになる訳ではない。ショアのアルゴリズムは衝撃だったが、既に知られているインパクトのある量子アルゴリズムというのは意外と少なく、Yさんは量子と古典の境界を探す研究をしている。ある問題に対して古典アルゴリズムよりも優秀な量子アルゴリズムが存在する保証はないので、「量子コンピュータならより効率よく解けるだろうか?」という問いをとにかく色々な問題に対して考えなければいけないのだろう。
この共同研究で一度オンラインで話していたが、年明けごろに数日ウィーンに集まって議論をしようという話になり、初めての国をまたいだ共同研究が始動していた。
オックスフォードまで行って結局日本人相手にばかり研究発表しているのかと思われそうだが、新年に入ると急にイギリスの別の大学やヨーロッパ各地の大学にセミナーで呼ばれ始めるようになる。僕がこちらで書いた論文が少しずつ読まれ始めたのもあるかもしれないが、一番大きな理由は年末のオミクロン株の波を過ぎてこちらでコロナが終わったという空気が高まったこともあると思う。やはりこちらの人たちは対面が大好きなので、対面セミナーが復活して人を頻繁に呼び始めたのだろう。
この年度中、日英を含めて実に六カ国で対面の研究発表に臨むことになる。
研究発表で遠出が増えるのは年明け以降のことで、それならマイケルマス・タームの間はどうだったかというと、卓球の試合での外出が増えていた。十一月の頭にはセカンド・チームとしてノッティンガム(Nottingham)のフィフス・チームとホームで戦った。フィフスって一体何チームあるのかというところだが、ノッティンガム大学はスポーツに非常に力を入れている大学で、特に卓球は——むしろ卓球しか詳しくは知らないのだが——国内でも絶対王者として君臨している。男女ともに圧倒的で、東京オリンピックの女子代表は現役のノッティンガム大生である。そういうチームなので、五軍でもそれなりに強い。チームとしては辛うじての勝利だった。
十一月も第三週に入り、先月ホームで会ったウォリック大学に今度はアウェイ・マッチを挑むことになった。ただし、今回はファースト・チームとしてである。怪我人とアウェイ・マッチで都合がつかない人が出たため、僕に声がかかったのだ。怪我のアンガスを除くファースト・チームの三人と僕で、キャプテンの運転する車で向かう。ウォリックはイギリス第二の都市・バーミンガムの近くにあり、大学の体育館にはオックスフォードからは北に車で一時間と少しで着く。後から知ったのだが、この大学はこと数学においてはイギリスの中でもかなり有名なようだ。
これが渡英して初めての遠征である。
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