第20話 A week with colleagues
イギリスは北国だ。北国の冬は寒く厳しいが、夏はとても日が長くなる。どうせ起きる前から明るいのだから早く起きよう、といって導入されているのがサマータイムだ。僕がイギリスに来てから既にサマータイムが一度終わって、そしてまた始まっていた。
僕がオフィスに通い始めたのは五月の下旬だった。日の出は朝五時、日の入りは夜九時。あと一ヶ月で夏至だ。ただ明るいというだけで、僕が何度か出歩いていた十月とは街の雰囲気は全然違って見えた。
せっかく天気がいいので、歩いて行くことにした。ロックダウン中に初めて買ったワイヤレスイヤホンは、この先よく活躍することになる。この時はまだポッドキャストとは出会っていなくて、J-POPを聴きながら寮とオフィスを往復した。せめて洋楽……だとかはもう考えていなかった。
いきなりオフィスに行って毎日研究をするほど元気ではなかったので、とりあえず数時間しか過ごさないとしても通うことを目的にした。歩いて片道四十分弱くらいで、いい運動にもなる。
ある日、昼前にオフィスに着いてコーヒーを飲んでいると、扉をノックする音が聞こえてきた。ドアを開けると、立っていたのは体格のいい男性だった。ブロンドの短髪と、同じ色の短い髭が生えている。にこやかだった。
「サトシだよな?俺はパトリックだ、よろしく」
「ハラルドの学生の?」
「うん、ハラルドから噂は聞いてるよ」
彼は二つ上の学年で、僕とは違ってハラルドが単独の指導教員らしい。実は確率解析グループにはもう一人、テリーの学生のパトリックがいる。二人は同学年だが、あまりオックスフォードにいなかったのもあって、後者のパトリックとは僕は結局二回くらいしか話していない。だから、この文章でパトリックというと基本的には僕がここで会ったハラルドの学生の方を指すことになる。
「ランチはどうだい、サトシ」
「どこ行くの?」
「カバード・マーケットはどう?」
「遠くない?」
「晴れてるし、いいだろ?」
カバード・マーケットというのは、シティセンターから少し西側にある商店街のことだ。ハイ・ストリートの北の歩道側から三本くらいの南北の道が伸びていて、それらは中であみだくじのように繋がっている。全体はその名の通り屋根で覆われていて、中には雑貨屋や食品店、そしてレストランが立ち並ぶ。
数学科からは往復三十分ほどなのだが、散歩がてら食事を持ち帰って数学科のコモンルームで食べようということになった。コモンルームは長らく使われていなかったのだが、感染対策の段階的な緩和によってまた入れるようになっていた。
カバード・マーケットに向かって南下する途中、パトリックは左手にあるいかにも伝統のありそうな建物を指さして「あれが俺のカレッジ、St John'sだ」と言う。Catzのような新興のカレッジは僻地に追いやられていることが多いが、いくつかの古いカレッジは街のど真ん中にある。
あとから聞いたところによると、St John'sは裕福なカレッジで、院生も希望すれば二年目以降もカレッジの寮に住めるようだ。出願時にはそういう違いがありうるということをそもそも意識していなかった。
マーケットに着くと、休業中の店が散見された。ドンブリ・インという名前の主に日本食と中華料理を出している店もあった。一度ここが開いているときに覗くと、店員から中国語で話しかけられた。日本人に比べて中国人の数が圧倒的に多いからなのだろうが、日本人の見た目をしていると海外では中国語で話しかけられることがよくあるのだ。
パトリックがタイ料理屋で買うというので、僕もそうすることにした。Sasi's Thaiというお店で、僕はチキン入りのイエローカレーを選んだ。数学科に戻って食べたこのカレーはとても美味しかった。僕が食の面でオックスフォードを懐かしむとしたなら、カバード・マーケットのタイ料理屋というのはまず出てくると思う。
パトリックとは色々なことを話した。初対面なので、数学科の話や、お互いの国の話が多かった。
日本食はやはりイギリスでも有名なようで、パトリックはカツが好きだと言っていたと思う。別のタイミングでハラルドから聞いた話だと、スシは元々有名だったが、ここ五年くらいでラーメン屋がかなり増えたそうだ。日本食は現在進行形で海外進出中のようで、僕のイギリス滞在中にもたとえば丸亀製麺がロンドンに三店舗ほどオープンすることになる。
パトリックはスウェーデン出身だった。スウェーデン料理というのはどんな感じなんだと聞くと、少し笑いながら、寒いから保存食が多いと言っていた。魚をピックルしたものとか、と言われた。ピックルと聞いてこの時は少し日本の漬物を想像したのだが、別の機会に彼が漬けたものを食べた時は酸味はあまりなく塩味が強い感じだった。世界一臭い食べ物として有名なシュールストレミングなどもニシンの塩漬けである。
もう一つ面白かったのは、イギリスの気候に対する感想の違いだ。僕はイギリスのことを「夏はいいが、冬は日が短くて最悪だ」と表現したが、パトリックは笑いながら「俺はこの国の天気には全然文句ないな」と言っていた。
スウェーデンはイギリスに輪をかけて高緯度であり、北極圏に近づくにつれて冬の日照時間は加速度的に短くなる。彼の地元では、真冬の明るい時間帯は二時間ほどしかなく、ビタミンDの錠剤をみんな飲んでいるそうだ。そして夏はほとんどずっと明るいので、夜にはどの家も分厚いシャッターのようなもので日光を遮らないと寝られない。
パトリックはテリー・ハラルドの学生たちの中で最も僕に研究タイプが近い。彼は僕と同じく、研究のモチベーションは応用に置きつつも、書く論文は伝統的な数学の定理・証明形式のものだ。ただし、パトリックのやっていることはかなりハラルドの専門に近いことだったと思う。
もう一人のパトリックは、機械学習分野の研究をバリバリやっていて、いわゆるAIのスター研究者だ。この時はどうだったのか分からないのだが、彼は博士を取る段階では既に分野の超有名人になっていた。時系列データに対する機械学習の世界において、彼を知らない人は少ないだろう。彼の研究においてソフトウェアの開発も大きな部分を占めている。
二人のパトリックと同じ学年に、テリーの下で機械学習の研究をするクリスという学生もいた。彼は共同研究が好きなようで、いくつかのアイディアがあるから話でもしないかといってメールが来ていた。一度オンラインでも話したのだが、せっかく規制が弱まったのだから、と週末にロンドンで会って話すことになった。彼は近い卒業とコロナを機にロンドンに引っ越したようだ。
オックスフォードからロンドンの中心地に出る方法は、車を持っていなければ電車かバスの二択だ。電車でもバスでも、ロンドンの主要駅の一つであるパディントンのあたりに出ることになる。電車の方が乗っている時間自体は短いのだが、安いのと寮のすぐ近くから乗れることを考えて、バスを使うことにした。
オックスフォードとロンドンを結ぶオックスフォード・チューブと呼ばれるバス路線は、赤い二階建ての車体が特徴的だ。一度ほぼ満員で真後ろの席に乗ってきた男が電話で一時間に渡る別れ話をしていた経験を除けば、旅は座っているだけでよく、それなりに快適だ。オックスフォードの東側からロンドンに行くなら、空港にも中心地にもバスをよく使うことになる。
一時間半ほどオックスフォード・チューブに揺られたあとに、マーブル・アーチというところでバスを乗り換え、数分して待ち合わせ場所のマールボーン駅に着いた。
マールボーンはMaryleboneという綴りで、一見するとメアリルボーンのような発音になりそうだ。日本語の地図などにもそう表記されていることが多いのだが、実際にはyは発音しない。このことをイギリス人に「私たちの言語は非合理的で申し訳ないのだけれど」と皮肉なのか自虐なのか笑いながら教えてもらったことがある。
十五分ほど時間があったので、近くのベイカー・ストリートまで歩いていった。コナン・ドイルの小説でホームズの事務所があった場所だ。写真を撮って歩いているとホームズの銅像を見つけた。等身大だとすればかなり大きい。後から調べたところこれはおよそ等身大で、ホームズは180センチ台中盤だったようだ。
その後クリスと無事に合流した。彼はイタリア出身で、背は僕と同じくらいで痩せ型だった。眼鏡がよく似合っている。
彼の提案でリージェンツ・パークを散歩することになった。この公園はとにかく大きい。代々木公園の約三倍の広さだ。ロンドンにはこういう公園がいくつもあり、我々が使ったこの公園の南西の入口から南に十五分ほど歩くとハイド・パークというさらに大きな公園がある。パディントンの周辺は都会でありながらかなり緑が多いのだ。天気の良い日だった。太い歩道の両脇にベンチがランダムに配置されている。そのうちの一つに座って話そうかということになった。
具体的な研究のアイディアを少し話したあと、僕の最近の悩み——研究テーマをどう決めるべきか——についても聞いてもらった。最近のテリーの学生はあまり数学数学していないのだが、少し前に博士をとったイリヤという人は純粋理論的なところをベースに応用に関する共同研究もしたりと色々やっている、と教えてくれた。そういう意味ではイリヤは君に近いかもしれない、と。クリスは二月の研究集会で僕の研究に興味を持ってくれていたのだった。
クリス自身は、やっぱり数学の知識を応用して外の世界に貢献するところに意識が向いているようだった。彼はオックスフォードに来る前は金融機関で働いていたが、研究の方がやりたくて博士に来たのだった。稼ぎは減るけれども、と笑いながら、彼は研究の道に残りたいんだと言っていた。
そのあとは、クリスの彼女とイタリア人の友達も合流して、四人で小高い芝生の丘の上でビールを飲んだ。量子コンピュータでこの先の暗号はこうなるんだみたいなお決まりの与太話もしていたと思う。公園にはピクニックに来ていた少人数のグループがたくさんいた。
もうロックダウンは終わったんだ——という晴れやかな顔で、大勢がイギリスの初夏の空を眺めていた。
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