第39話 Transfer to real DPhil
オックスフォードの博士課程——DPhilの修了までには審査会が三つあり、順にトランスファー、コンファーメーション、そしてヴァイヴァという。馴染みのない単語なので、カタカナよりも英語の方がわかりやすいかもしれない。Transfer, Confirmation, Vivaである。以前一度説明したが、トランスファーを終えるまでのDPhilの学生は身分としては見習いで、一つ目の口頭試問を経てそこから真の博士課程へと移行する。トランスファーとコンファーメーションはいずれも後ろに「オブ・ステータス」がつくのが正式で、学生のステータスの移行と確認を行う。このステータスを日本語にどう訳せばよいのかはあまり簡単ではない。トランスファーの場合は「身分」とするのがしっくりくるが、コンファーメーションは「このままならあと一年以内で博士が取れる」ということの確認を行うものだ。進捗状況とでも言うだろうか。辞書を眺めながら、一項目で両方を説明できるとすれば「集団内での位置」とするのがしっくりくると言う結論になった。
ちなみに最後のヴァイヴァはviva voceというラテン語の省略形で、元のラテン語は「口頭の」という意味だそうだ。博士の学位の授与を決める最終試験はシンプルにザ・口頭試問ということだ。
さて、十一月後半の試合続きが終わり、僕が戻ってきた本業の博士課程において間近に控えているのが、DPhil一つ目の審査であるトランスファーである。試験官二人は既に決まっており、十一月に入ってすぐに審査用の論文を送り日程調整の連絡をしていたが、未だにそのうちの片方の先生からは返事がなかった。しかしトランスファーはルール上この学期中——正確には次の学期が始まる前の週、つまり一月頭までには終えなければならない。十二月も中旬に入り、最初の連絡から一ヶ月が経ち、指導教員からつついてもらっても返事が来る様子がないので、最終手段として数学科の事務にチクることにした。
——私は、トランスファーの試験官の一人であるO先生に先月から合計四通のメールを送っているのですが、彼からの返事が全くありません(もう一人の試験官であるY先生からはすぐに返事がありました)。 また、数学科の彼のオフィスに出向いて何度かノックをしても、会うことはできませんでした。
今、トランスファーの口頭試問の日程調整に関して完全に途方に暮れており、またそれについて非常に精神的なストレスを感じています。彼の返事を手に入れるのは私の責任なのでしょうか。もし彼が引き続き私のメールを無視し続けた場合、私はトランスファーの期限をオーバーして退学になるのでしょうか。万が一何か助けていただけることがあれば、ぜひ教えてくださるとありがたいです。
一年目に現地の医者にかかったときに学んだのは、この国では緊急度が高くないと実際にスタッフに余裕があっても動いてもらえないのではないかということだ。ある日、ヘソがここ数日かなり痛いとNHSのかかりつけ医に電話すると「今週はもう予約埋まってるから二週間後以降になる」みたいな対応だったのだが、翌日にさらに悪化し、ヘソから血が出てきて激痛がする、今すぐに診られないかと言うと「一時間後に来い」と普通に診てもらえた経験がある。ヘソ流血事件には深入りしないが、そういう経験もあって、できるだけ緊急度が高い、あるいはヤバい学生だから対応しないと面倒だ、と思われるようなメールを書いた。自分だったらこんなメールを送ってくる学生とは関わりたくないので、特にずっと所属するような組織でこういう行動を取ることはオススメしないが……。
是非はともかくとして、このメールは機能した。金曜日にメールを送ると月曜日には事務からの返事があり、それから一時間もせずにO先生からの返事があった。やはりどうにかしてO先生にメールを開く優先順位を上げてもらわないといけなかったようだ。
かくして、12月20日、クリスマスを前にトランスファー・オブ・ステータスの口頭試問が行われることになった。
トランスファーの日程が決まったのはなんと開催六日前だったが、トランスファー用の論文は既に送っていたし、発表に使うスライドも既存のものを組み合わせてすぐに作ることができた。
僕のトランスファー論文は既に公開している二つの論文を合体させて作っている。前半は、多次元空間上に確率ベクトルをばら撒いて作られる凸図形——ランダム凸包が特定のベクトルを中に含む確率についてのものだ。これ自身が確率的組合せ論である程度研究されている対象なのだが、僕がこの研究をした背景には数値積分、つまり積分するのが難しい複雑な関数の積分値を近似することへのモチベーションがあった。このランダム凸包に基づく数値積分を再生核ヒルベルト空間という関数クラスに絞って実行するのが後半だ。
根底ではこの二つの内容は繋がっているのだが、専門性としては一つ目は組合せ論的な議論、二つ目はより応用寄りで線形代数や関数解析に基づいている。トランスファーの試験官の二人は、組合せ確率論が専門のO先生と数値解析が専門のN先生で、それぞれの専門に近い内容がトランスファー論文の前後半にうまくばらけるように選んだのだった。
トランスファーの試験はO先生の都合でオンラインになった。合計一時間程度で、先に僕が研究内容についてこの先の計画も含めて発表し、その後に試験官からの質問に答えるという予定だ。
オンラインで初めて話すO先生はにこやかで人が良さそうだった。いかにも学生のメールにも丁寧に返信してくれそうな雰囲気だ。さあ、絶対に長すぎると思いながら作った四十ページのスライドを使って、早口で捲し立てる。まずは二人とも質問はせずに僕の発表をじっくり聞いてくれるようだ。
発表が終わり、O先生が口を開いた。
「じゃあ、いくつかコメントさせてもらっていいかな?」
実際に一週間前までメールの返信のなかった先生が論文を本当に読み込んできているのかと半信半疑だったが、彼のコメントは論文の構成からかなり細かい証明のテクニックにまで及んだ。
「定理8の証明だけど、これ結構紙面とって仰々しく書いてるけど、要は分布の近傍をちょっと滑らかにして極限とってるだけだよね?」
「その通りです。まあ証明はほぼ自明なんですけど、主張としては既存研究の拡張になってるので……」
「まあそれは書き方の問題だけだしね。あと定理10の証明で出てくるαだけど、これを向きに依らない定数として取ってるからバウンドが若干緩くなってるんじゃないかと思うけど、これは改善できない?」
「それは僕も思ったんですけど、適応的な上界を意味のある形で設定するのが全然思いつかなくて、今のままでもユニフォーム・バウンドとしてはシャープなので」
「そっかあ、まあ私も全然思いつかないけど。それが出来たら面白そうだよね」
僕の発表が少し長かったのもあって、O先生が前半の確率的組合せ論パートについてのコメントを終えた頃には既に一時間が経過していた。N先生は若干時間配分に不満そうだったが、一つだけ、と言って数値積分パートについての質問をしてくれて、とりあえず試験は終了。そしてN先生が口を開く。
「サトシ、じゃあ一回この通話から退出してもらえるかな。何分か試験官で話し合った後にもう一回入ってもらうから」
通話を退出し、静止画になったディスプレイをボーッと眺める。英語があまり流暢でないということを除けば特に口頭試問に問題はなかった気がするし、流石に大丈夫だろう。……と思いながらも、あまり気持ちのいい時間ではない。運転免許の試験結果待ちと似ている。落ちた時のデメリットは免許よりもかなり大きそうだが。
五分ほど経って、そろそろ待ち疲れて緊張感が薄れてきた頃、再び通話に入れというメッセージが届いた。
通話に入ると、試験官二人の目が動く。そしてY先生が口を開く。
「おめでとう。二人で話して、特に組合せ論の証明のアイディアは素晴らしいという話になったよ。これからもいい研究を続けてほしい」
文字通り、胸を撫で下ろした。試験は何歳になっても緊張するものだ。この結果を数学科側が処理すれば、僕は正式にDPhilの学生になる。
正式にトランスファーを通過したという通知が学科から送られてくるのは年が明けて少ししてからのことだった。試験官による報告書が添付されていて、十五個ほどの評価項目についての評価が記載されていた。最高評価を逃した項目は二つ。論文の構成と、そして、英語力だった。
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