第18話 Imposters syndrome
三月末から五月半ばにかけて、たくさんの本を読んだ。ロシア文学から最新のライトノベルまで、あるいは前々から読みたかった漫画にも手を出した。
研究は二週間くらい完全に休んだあと、週一くらいのペースで再開した。休み明け最初のミーティングで、とりあえずランダム凸包についての論文をまた別のジャーナルに投稿してしまおうということになった。
前回も候補に上がっていたPTRF(Probability Theory and Related Fields)という確率論のジャーナルに投げることになった。前回よりも関連研究や応用についての記述が充実し、もしこれでダメだと言われたら「何が面白いのか」を勝手に定める狭量なトップジャーナル様の方に問題がある。そのくらいの気持ちでいた。
一番読むのに時間がかかったのはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だと思う。四日か五日のあいだ、起きてから寝るまでずっと読んでいたと思う。キッチンで会った時に最近読書をしてるんだという話をすると、ちょうどジェイクも先月くらいから同じ本を読み始めて途中で止まっていると言っていた。理系の僕がこの本を読んでいることにジェイクはどこか嬉しそうだった。彼のおすすめのロシア文学は、トルストイの『アンナ・カレーニナ』だそうだ。
カレッジでジェイク、ベラ、トーマスと一緒に食事をした時にジェイクがこの話を振ると、トーマスはドストエフスキーをそもそも知らないと言っていた。イギリスでは日本ほど有名ではないようだった。
『カラマーゾフの兄弟』にも、先進的な西洋を一歩引いて皮肉る描写もあり、外部から与えられる正しさとどう付き合っていくかという意味で、明治時代の日本人にはとても刺さったのではないかと思う。
逆に先をひた走るイギリスにおいては響かなかったかもしれない。
それよりももっと今の自分を刺すことになってしまったのが、『Lost in Math』という本だ。これは邦訳が『数学に魅せられて、科学を見失う——物理学と「美しさ」の罠』というタイトルで四月ごろに出版されたばかりだった。その前に訳者の人のツイートか何かを見て、発売日をカレンダーに書き込んでいたのだ。
この本の作者は量子重力理論などを専門とする物理学者で、界隈ではブログが有名な人物でもあるらしかった。
物理学は、突き詰めると実験で確かめなければ意味がない。本書のメインのテーマは、素粒子物理学の理論が予言したことがここ何十年も確かめられていないことにまつわる業界の閉塞感である。
世間を騒がせたヒッグス粒子の発見や重力波の観測も、半世紀以上昔の理論がようやく確かめられた、というくらいなので、エネルギースケールの大きい領域において実験を行うのは理論に比べてどんどん遅れていってしまっている。
ではなぜ今更そんな本が書かれたのかといえば、筆者が現在のこの分野のコミュニティに対する不健全さを感じているからだ。この本は何人もの著名な理論物理学者にインタビューをしながらエッセイのような形式で書かれているが、一貫して描写されているのは、実験できない理論物理学の危うさである。
例えば、理論で予言されている粒子を見つけるために、欧州原子核研究機構(CERN)はラージ・ハドロン・コライダー(LHC)という加速器で実験を行っていた。CERNは2015年の末に素粒子の標準模型と呼ばれるモデルからのずれを観測したと発表する。この「二光子アノマリー」と名付けられた現象は追加の実験では再現せず、八ヶ月後には統計的なゆらぎに過ぎなかったという結論になった。
問題はこれ自体ではなく、その間にこのゆらぎに関しての理論を与える論文が五百も発表され、その中には既に何百回も引用された論文もあったということだ。素粒子物理のスピード感といえば聞こえはいいが、ただのゆらぎにいくらでも理論を与えられてしまうということなのだ。
筆者は、実験ではなく数学的な美しさで組み上がってしまう理論物理学の世界に警鐘を鳴らす。基礎物理とは数学における公理を探すいとなみであり、その指針に数学的な美しさが採用されてしまっているというのだ。その中でも、最も美しい理論のうちの一つである「超対称性理論」にコミュニティが肩入れし過ぎているという。
物理学はあくまで実験に基づいてなされるべきだ。そうかもしれない。では数学は、と僕は自問することになる。良い研究とは、僕がすべき研究とは、一体なんだろうか。あるいは、そもそも、数学の研究はなされる必要があるのだろうか。
この頃、テリーと初めて対面で会った。六人までは世帯外でも外で一緒に食事をすることなどが許されるようになり、テリーと研究プロジェクトの秘書、ポスドクの——僕のオフィスを以前使っていた——ジェームズ、そして僕を含めたテリーの学生三人で集まった。テリーの学生はもっと多く、六人になるように何回かに分けて会っていたようだ。
テリーはミーティングの画面から想像していたよりも背が高く、僕と同じくらいだった。ふくよかな体型で、人の良さそうな雰囲気だった。彼がひたすらよく喋ることを予想していたのだが、ミーティングの時ほどではなかった。数学の時とそうでない時で変わるのかもしれない。
複数人の英語を聞くのは大変で、会話の流れを見失っている時間もそれなりにあったが、慣れているテリーの英語はわりかし聴き取れたと思う。
「さあ、サトシのストーリーを聞かせてくれ」という先輩に留学の経緯を話したり、なんとなくヴィーガンバーガーを頼もうとして「それはヴィーガン用だけどいいのか」「別にヴィーガン以外食べてはいけないというわけじゃないですよね」となぜか理屈っぽいガキになってしまったり、テリーがケンブリッジで学部生だった頃に暖房が壊れていたという話を聞いたり、まるでこれが日常であるかのようだった。
「確率論、あるいは数学は、どこへ向かっていくんでしょうか」
「新しい時代の研究の流れを決めるのは常に若い研究者、主に大学院生たちだと私は思っている。我々のようなシニア世代の研究者たちのやることが収束していったところに、次の世代が違うベクトルの力をかけていく。そうやって進んでいくものだ。数学にはまた進むだけの十分な数の問題が転がっていると思う」
テリーの学生たちのほとんどは、ラフパスというテリーが創始した理論のデータサイエンスへの応用を研究している。その研究は、必ずしも数学的なものではない。むしろ、数学の定理を証明する、という伝統的なスタイルの研究は少なく、ラフパス理論によって想起される、時系列データの新しい解析手法の創出、あるいは実際に色々なデータに対してそれを適用した結果を報告、といった意味での応用研究が多い。
やっと留学が始まったような気分になりつつも、僕の鬱屈とした懸念はまだ解消されていなかった。
インポスター症候群という概念がある。これは、何かを達成してもそれが自分の実力によるものではないと思い込んだり、あるいは自分が過大評価されていると感じてしまうようなことを指す。インポスター(imposter)とは詐欺師のことで、要は自分の優秀さについて周りを騙しているのではないか、と自分に自信が持てない状態だ。博士課程の学生などに多いとされる。
僕にも少しばかりそのきらいはあるが、今回の主題はそこではない。僕が詐欺師かどうかはむしろどうでもよく、ここにいるのが詐欺師集団(imposters)なのではないか、という恐れについての話だ。
僕は四月後半から五月半ばにかけて、創作物に浸りつつも、少しずつ、週に一日くらいだったが、研究を再開していた。ランダム凸包の話にただの理論というだけで終わってほしくない——そんな思いが強まっていた。
元々のモチベーションはテリーたちの論文であるCubature on Winer spaceから来ていたが、ここへの繋がりはむしろ理論的興味で、実用性はまだ薄いということが分かっていた。
そして、求めていた応用は意外とすぐ見つかった。修士の頃の研究室で先生と先輩が取り組んでいたカーネル求積法という数値積分の手法があった。ここで出てくる積分作用素の固有関数展開を打ち切って並べたものを確率ベクトルとみれば、全く新しいカーネル求積のアルゴリズムが導出できることに気づいたのだ。
これはランダム凸包とカーネル求積両方を知っている僕にとってはかなり自明に近いアルゴリズムだったが、研究コミュニティにとっては需要があるはずだと思った。
そして研究がひと段落したところで、考え始めてしまった。この研究を僕は面白いと思えているんだろうか。
——研究コミュニティに気に入られてどうするんだ?オリジナリティを受け入れないのがその共同体なのだと、勝手に断じたばかりじゃないか。
そして、この思考は止まってくれなかった。
——研究のモチベーションを共同体から貰っているうちは、これは治らない。僕はその共同体に意義があるかどうかを疑っているのだから。
そんな中、テリーのグループで医療データを使った研究プロジェクトに関わる人を探しているというメールが回ってきた。僕は医療になら意義を外注できるのかもしれないと思って、興味があるかもしれないと連絡をした。
もう少しして、僕は自分が軽率だったのではないかと思い、ある一通の長いメールを書き始めた。
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