Ⅰ章―第8話 冬至祭の悪夢(2)
気がつけば、冬至祭まであと一週間を切っている。
観光シーズンの本格的な始まりだ。街には巡礼者が増え、観光客はひっきりなしに七つ門教会を訪れている。聖堂は聖歌隊や助祭たちによって美しく飾り付けられて、門の前には教会の運営する市が立ち並ぶ。養護院の中に暮らしていても、壁の向こうから伝わってくる喧騒や、どこか浮かれたお祭り気分は十分に伝わってくる。
子どもたちは、自由に街に出られない代わりに、養護院の中を飾り付けることが許されていた。お陰で今年も、食堂は賑やかな紙花や垂れ幕でいっぱいだ。
いちばんの楽しみは、冬至祭りの日に行われる特別な礼拝を特等席から眺めること。そしてお祈りの後に配られる甘いお菓子と、贈り物の交換会だ。
寒さは一段と厳しくなり、日は、一日ごとに短くなってゆく。それでも、この時期は一年で一番楽しみな季節でもあった。
ロビンが久しぶりに仕事のために呼び出されたのは、冬至祭のほんの数日前のことだった。もう依頼が来ないのかと思っていた彼は、少しだけほっとした。
やってきたのはヴィクターと、相方のセツだ。仮面をつけていても、声でそれと分かる。
「巡礼の数が増えてきて、人手が足りん。今日も大通りを見張りに行くぞ」
あんな事があったというのに、黒髭の男は以前のままにそっけなく、ロビンも、ことさらに特別な態度は取らなかった。だが、仮面の下の顔がどうなっているのかは、もう知っている。どんな顔で焦るのか、苛立っている時の口元の動きや、表情の癖さえも。それだけ、以前よりずっと楽だ。
いつもどおりロビンは、小屋で異端審問官の衣装を身に付けた。そして、二人に挟まれるようにして、裏門から街へ出た。
仕事の内容は楽しいものではないが、お祭りの雰囲気に包まれた街に、ロビンの心はほんの少し浮き立っていた。
(これで、広場の大木の飾りつけが見られる)
次に街に出た時に、広場の大木の今年の飾付けを見てくる、とは、先週、夕食の時に子供たちと約束したことだ。
前回とは打って変わって、街は、いつの間にかお祭り一色に染まっていた。広場の木は、今年は無数の鈴とリボンに飾られている。そこに雪が薄っすらと降り積もって、鈴の輝きと相まって不思議な美しさだ。それを眺めることが出来ただけでも嬉しかった。
それに今日は、どんなに目を凝らしても、街の雑踏の中に黒いもやもやした影は見つからない。
(良かった。…誰も指ささずに済みそうだ)
あんなことがあった後だ。さすがのロビンも、もう、しばらくは悪魔の影など見たくない気分だった。
やがて、ロビンはふうと一つ息をついて、傍らのヴィクターを手招きして囁いた。
「静かです。今日は何もいません」
「ふん、そうか」
仮面の男は、短くそう答えると、後ろに控えていた仲間たちに告げる。
「空振りだ。戻っていい」
「わかりました」
広場の時計が、そろそろ定刻の十五分前に差し掛かろうとしている。引き上げの時間だ。
「行くぞ」
「はい」
いつも通り、ヴィクターとセツ、二人が左右についてくる。ここから教会まで、ゆっくり歩いてもおよそ十分ほどの道のりだ。
「前に助けた赤毛の子、お礼に来ましたよ」
大通りから裏路地に入ったところで、ロビンは、自分から話題を振った。
「その話は聞いている。余計な話をするな」
「いいんですか? 見逃して」
挑発するつもりは無かったのだが、そう捉えられても仕方のない一言だった。
一瞬、ヴィクターから怒りが湧き上がる気配があった。思わず、拳骨で脅されるのかと首をすくめたロビンだったが、いつものように胸ぐらを掴まれることもなく、その怒りは一瞬で消えていた。
「チッ」
舌打ちをして、男は正面に視線を反らして再び歩き出す。
「いいはずもない。が、俺たちは組織の人間だ。上層部の決定には従う」
「聖霊じゃなくて?」
「……。」
再び、怒りの気配が湧き上がるのを感じて、ロビンは慌てて言い繕った。
「すいません。余計なこと言いました」
「分かってるなら、黙って歩け」
以前なら間髪入れず掴みかかってきたはずなのに、今回はやけに大人しい。
「…?」
ロビンは、思わず彼の相方の、若い神父のほうに首を傾げた。仮面を被ってはいても、ヴィクターの様子が以前と違うのは何となく分かる。
けれど理由を尋ねられるほど親しくはないし、その時間も無かった。
行く手にはもう、教会の高い壁が見え始めている。
異変に気づいたのは、その時だった。
「…ん?」
見えてきた裏口のあたりには、何故か、通行人の人だかりが出来ていた。何やら壁を指さして話し合っている。
「何か、あったんでしょうか」
「見てきます」
ヴィクターの相方の神父が真っ先に駆け出していく。
「…嫌な予感がする」
ヴィクターは不機嫌そうに呟いて、ロビンを急かすようにして後を追った。
「おい、異端審問官だ」
「やばいぞ」
三人が近づいて来たのに気づくと、集まっていた通行人たちがさっと顔色を変えて道を開ける。
独特のマントと仮面の意味は、この街に住む者なら誰でも知っている。蜘蛛の子を散らすように、野次馬たちが去っていく。
「一体、何だというんだ。…って、これは」
さっきまで人だかりの出来ていた場所の壁面を見上げたヴィクターの表情が、一瞬にして強張った。
教会を囲む灰色の壁面には、目立つ赤いペンキでべったりと殴り書きがされていたからだ。短い文章と、渦巻きを組み合わせたような不思議な印とが並べられ、手の届くところにはチラシがべたべたと貼り付けられている。
「『教会の教義は偽物だ。女神の祝福は我らとともに在り』『救済者の復活の時は来たれり』…何ですか、これ?」
「悪魔崇拝者どもの常套句だ。教会の教えは偽物で、自分たちの信仰こそ正しいのだという、馬鹿げた戯言だ。おいセツ、そっちのチラシは?」
「似たような内容です。『決行は冬至祭の日。汝らは真実を知ることになる』…犯罪予告ですよ、まるで」
「チッ。まさにその通りだな。悪魔絡みじゃないとすれば、俺たちの出番はない。警察の仕事だ」
苛立たしげに壁を拳で軽く殴りつけると、男は、仮面の下から
「セツ、そのチラシ持って本部へ戻れ。俺はこいつを送り届けがてら、マークスの間抜けに知らせる。こんなふざけた落書き、一刻も早く消させる」
「わかりました」
「……。」
野次馬たちが、遠巻きにしてこちらを見つめている視線を感じる。不安と、好奇心が入り混じった目。
集まっていた人々はもう、「冬至祭に何かが起こる」という予告を受け取ってしまっている。その噂が広まるのは時間の問題で、今からでは、もはや口止めも間に合いそうにない。
(だけど、救済者、って何なんだろう。悪魔のこと?)
ヴィクターとともに教会の敷地内に戻りながら、彼は、教会の壁に殴り書きされた文字と印のことを考えていた。
その日、夕食はいつもより大幅に遅れて始まった。
夕食前に教会敷地内の総点検があったからで、そのために多くの人手が駆り出されていたからだ。
戻ってから知ったことだが、ロビンが外出している間、落書きやチラシの貼り付けはほかの教会や、街中の目立つ建物に対してほぼ無差別に行われていたらしい。おまけに七つ門教会では、観光客に紛れ込んだ不届き者が、聖堂内の飾り付けを引き剥がそうとする騒ぎもあったという。
警察まで駆けつけて聖堂が封鎖され、不審者が他に入り込んでいないか、怪しい人物を見なかったか詳しい聞き込みが行われたのだという。
「まったく、とんだ騒ぎだよ。今まで一度だってこんな不敬なことは無かったってのに」
片付けをするジーナはおかんむりで、皿を洗いながらずっと愚痴り続けている。隣のケイナのほうはいつも通り無言で、あいづちの一つもなく、黙々と手を動かしている。ロビンも片付けの手伝いをしていたが、それは夕食が遅れて消灯まで時間がないからというよりは、かまどのある台所が一番暖かいからでもあった。
「念のため警官が巡回する、って話でしたよね」
「ああ。明日から冬至祭まで、聖堂にも念のため警官が交代で立つんだとさ。まったく、そんなのはお祭りの雰囲気じゃないし、興ざめなんだけどねえ。」
「てか、こんなことして何の意味があるんでしょうか」
「さあね。過激派の考えることなんざ、分からないよ。」
根っからの信徒であるジーナはぴしゃりとそう言って、洗い終わった皿を重ねた。
「さて、と。あらかた片付いたわね。ケイナ、ロビン、手伝いありがとう。あとはやっとくから、あんたたちももう、自分の寝る準備をなさい」
「うん。それじゃおやすみなさい」
「……。」
台所を出ると、冬の間の談話室代わりになっている食堂では、火鉢を囲んでいる子供たちがまだ残っていた。
「ね。あのハンザイヨコク、やばくない?」
「だよねー。迷惑。お祭りが台無しになったら、嫌だなあ」
「まあお祈りの時間はちょっと退屈だけど、あとでお菓子貰う時間が無くなったら嫌だよね」
「ねー。」
話題は、もっぱら今日の事件のことだ。
養護院の中にいて、外の世界の話題はほとんど知らないここの子どもたちでさえ、こうして噂話をしている。今頃は、街中のあらゆるところで、今日の”予告”のことが、ありとあらゆる憶測とともに話されているに違いない。
それはどこか嫌な予感のする事実だった。何かがもやもやする。噂と憶測、恐れ、期待、好奇心――。人々の抱いているだろうそれは、「悪魔に対して抱いてはならない」と、マークス司祭が常に言っている事柄ばかりだ。
ヴィクターの言った通り、これが悪魔崇拝者たちの仕業なのだとしたら、もしかしたら彼らはこの時点で、目的の少なくとも一部は、果たしてしまっているのかもしれなかった。
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