Ⅱ章―第23話 聖都動乱(2)
山麓の村で待つつヴィクターは、北東のほうから季節外れの分厚い雲が張り出してくるのを眺めていた。
もう春だというのに、まるで雪雲のような色だ。それは自分たちがやって来た方向、聖都の上空のあたりを中心に広がっているように見えた。
(…嫌な予感がするな。背筋がぴりぴりしやがる)
村の小さな教会の入り口の段に腰を下ろしてタバコをふかしていた彼は、ちらと山の方を振り返る。
ロビンが村人の先導で山に入っていったのは、昨日の朝のことだった。そろそろ丸一昼夜になる。近道を使って山奥の”ソフィア”の墓とされる洞窟を目指すと言っていたが、その道で、どのくらい行程を短縮できるのかまでは聞いていなかった。
(今日はもう、戻ってこないのか…。)
辺りは、薄暗くなりかけている。気温が下がってきたこともあり、教会の中に戻ろうと立ち上がりかけた、その時だった。
「――ヴィクターさーん!」
ロビンの声が、遠くの方から聞こえてきた。
振り返ると、ロバの背から少年が手を振っているのが見えた。側には若者が一人だけ。老人のほうは居ない。
ロバを急がせながら教会の側までやって来たロビンは、滑り落ちるようにロバの背から降り立つと、険しい表情でヴィクターを見上げた。
「急いで聖都に戻らないと。島の独立派が、別の方法で襲撃してきてるみたいです」
「あ?」
「あのさ、この人が言うには、なんか『悪魔』の気配が暴走して、島に広がってるって。この辺りもじきに飲み込まれるそうなんだ」
傍らの若者は、ずいぶん混乱気味だ。
「意味が分からん。が、とにかく分かった。車に乗れ。給油は済んでる」
「サウルさん、ありがとうございます。」
「あ、うん…。」
若者にロバを預け、ロビンは、ヴィクターとともに走り出す。
「何があった」
「『悪魔』の正体が分かりました。あれは『救済』の聖霊じゃなくて、人間の魂が本体で…。本体を壊す必要がありますが、聖都が攻撃されていて人手が足りないみたいです」
「どういうことだ? 攻撃? 前のような暴動か」
「それだけじゃないみたいで…。」
乗り込むと、車は勢いよく発進する。暗い雲はさっきより範囲を広げ、地上に届く光が弱まり始めている。
ロビンは、さっきからずっと感じている感情に、困惑していた。
(ヤルダバオートが、恐れている…?)
そう。それは、自分の勘違いでなければ、”恐れ”と呼ぶべき感情だった。
聖霊たちの中で最も上座にあるもの、『力』の聖霊。今まで、悪魔でさえも簡単に退けて来た存在が、互角か、それ以上の存在との戦いを覚悟しているのを感じる。
『力』とは思いの強さ、意志の力だと、かつてヤルダバオートは自分に教えてくれた。
ならば相手は、強い意志の力を持つ存在に他ならない。一個の人間ではなく、多くの人間の意志を集めたような存在のような。
「おい、ロビン。」
黙ったまま考え込んでいるロビンにしびれを切らして、ヴィクターが運転席から怒鳴る。
「説明しろ」
「あっ、はい」
慌てて彼は、思考を振り払った。
「実は、墓に行く途中で、一緒にいたおじいさんがおかしくなって、その時に分かったんですが…。」
順を追って説明しているうちに、車は厚く垂れ込める雲の下へ突入していく。車は目一杯に速度を上げ、車輪が外れそうなほど激しく上下している。
辺りは、昼間だというのに夜のように真っ暗で、人の気配もなく、死の世界のようだ。
「――というわけで、『悪魔』の本体がいる場所が分かったんです。そこへ向かえ、といわれました」
「はあ。だいたい分かった、が…。」
ヴィクターは、呆れたようにバックミラー越しに後部座席を見やった。
「念じれば聖霊と会話できる、ねえ。お前、どんどん常人離れしていってんな」
「そう言われても…。」
「で? 今も、『力』の聖霊の一部はお前ん中にいるのか」
「はい…多分」
「なら、さっさと話して状況を伺って来い。めいっぱい飛ばしてもあと四、五時間はかかる。このボロ車が壊れなきゃだがな。それまで、聖都はもつのか?」
「確認します」
そう言って、ロビンは目を閉じて、意識を集中させた。
ヴィクターは、ハンドルを握ったまま無言に、行く手に視線をやっている。
車の燃料が減った分、行きよりも積荷は軽くなっている。それに、初めての道を迷わないよう気をつけながら走ってきた。今は、ただ聖都方面へ戻るためだけに目一杯に飛ばしている。行きより何時間かは短縮出来るはずだ。
それでも、この時間から戻ったのでは、到着は深夜になる。
(ちょうど悪魔の活動時間、か。――最初から不利な戦況だな)
頭上の雲からは、ぴりぴりするような嫌な気配が降ってくる。嫌な気配だ。それに、意識の奥に無作法に侵入してくる気配がある。隙間から入り込んで耳元に囁くように響く不快な声。振り払っても振り払っても、それはしつこくまとわりついてくる。
(ただの幻聴じゃねぇな。いわゆる”悪魔の囁き”ってやつか)
今までに聞き取り調査をした、”悪魔憑き”から解放された被害者たちの多くが口にしていたことだ。
意識を失う前に、抗いがたい囁き声を聞いた、と。その声は、まるでこちらの記憶全てを承知しているかのように、心の奥底まで見透かすように、的確な弱みを突いて来た。…
もしもこの囁きが、雲の下にいる者たち全てに聞こえているのなら、普通の人間にはそう長い時間、耐えることは出来ないはずだと思った。
意志の弱い者から取り込まれる。時間が経つごとに悪魔の支配下に置かれる人間は増えてゆく。
それに気づいた時、ヴィクターは戦慄した。
(正面からやりあっちゃ、勝ち目がねぇな。いや、…だからこそ”本体”を叩け、ということか? ふん。なるほどな)
後部座席で、ロビンが目を開けた。
「状況が分かりました」
「おし。なら、手早く説明してくれ。何か話さないと、この嫌な気配にやられちまう」
既に、辺りは夜のように暗くなっている。車のヘッドライトが、誰も居ない荒野の中の道を照らし出す。
方向以外はどこを走っているのかも分からない、道沿いにあるはずの町や村の光も一切見えない。どこまでも続く漆黒の闇が、行く手に広がっていた。
その頃、主教キュリロスは、執務室の中で次々にもたらされる絶望的な報告を受けていた。
「二箇所の収容所から解放された囚人たちが街に到着しました。『勝利の門』、『栄光の門』、いずれも突破されています。ここを目指しているものかと」
「暴徒たちが街に火をつけながら歌い踊っています。島の住民だけでなく移民まで…七つ門教会が包囲されています」
「七つ門教会に出現した悪魔は、以前も出現した異形と交戦中です。主教、あの…あれは、一体何なんですか? 味方のように見えますが…」
「敵味方で分けるなら、味方じゃよ。人間の思い通りには動いてくれんがな」
手を振って報告者たちを下がらせると、老聖職者は額に手をやりながら、窓の外に視線を向けた。
二階の窓からは、禍々しい明るい光が見えている。街に放たれた暴徒の火が、街を燃やしているのだ。
部屋の中には、サリエラだけが残っている。
「聖都の北の丘へ向かわせた者たちは?」
「駄目です、門のあたりに悪魔の気配が。おそらく、街を出ることも出来ていないでしょう」
「そうか。――」
主教は、執務椅子にゆっくりと体を沈めた。
「”正しさ”を裏側から見ると、こう見えるのか。なるほどなあ」
「主教様?」
「君も神学校で教会史は習っただろう? 王国の布教活動には、聖霊の加護があった。その威光の前に信仰を知らぬ蛮族たちはひれ伏した。――とどのつまり、戦争に聖霊を使った、ということだよ。王国の敵たちが感じた感情は、今まさに広場に出現している『悪魔』を見て、我々が感じる恐ろしさと同じものだったはずだ」
穏やかな悟りの口調は、諦観と言うほどではないにしろ、どこか他人事めいて聞こえた。
「あれは、この島の住民たちにとっての”正しさ”の象徴だ。それを、我々教会の人間によって否定された二座の聖霊のうち片方が打ち負かそうとしているんだよ。『力』の聖霊だ。こんな形で因果を突きつけてくるとは、天の意志は侮れないねえ」
「…主教様、一体なにをお考えなのですか」
「なに、決まっているだろう? 今、我々が成すべきことは何なのか、だよ。」
机の上で指を組み合わせ、しばし考え込んでいたキュリロスは、やがて静かに呟いた。
「――そうだな。やるべきことは、とっくに決まっていた」
覚悟を決めたように、彼は再び立ち上がった。
「本部内の礼拝堂に、動ける者みなを集めてくれ。『力』の聖霊ヤルダバオートに祈りを届けるため、特別礼拝を行う。」
「なっ?!」
サリエラの顔がこわばった。
「主教様、島の異端に自ら禁を犯して関わると?!」
「分かっているよ。ことが終われば厳罰を受けるのも覚悟の上だ。だが、いま我々を守ろうとしてくれているものは何だね?」
「……っ」
彼女は唇を引き結び、口元を震わせた。
「かしこまりました…伝えます」
「わしは先に行っているよ」
その時にはもう、キュリロスは、戸棚から長衣とストラを取り出して身に纏っていた。
礼拝所は、広場に近い場所にある。職員の日々の礼拝のために作られたもので、そう広くはない場所だが、いま動ける者はもはや、その箱を満たすほども残っていないだろうという予感があった。
瘴気は既に街全体を色濃く覆っている。島の住民など教会に何らかの因縁がある者たちは悪魔に操られ、そうでなければとっくに気を失っている。しかも、その数はどんどん増えている。
執務室の扉を開けて外に出たキュリロスは、さきほど報告に来た者がそこに倒れているのを見た。部屋から出たところで意識を失ったらしい。
(我ながら、決断が遅すぎたな。)
伴もなく、長衣を翻して廊下を歩きながら、老司教は心のなかで呟く。
(とっくに分かっていた。この島の信仰は、間違っていたわけではない。二座の聖霊が確かに存在することは知っていた。女神の生まれ変わりも、…おそらくは本当に起きたことなのだろう。にも関わらず、わしは法王庁に掛け合うことが出来なかった。保身のためか? いや。――)
外に出て見上げた暗い空に、赤い炎の色が反射している。
(ただ、恐ろしかったのだ。今まで”正しい”と信じてきたことが、そうではなかったのだと認めることが)
広場のほうからは、人々の狂乱の声とともにただならぬ気配が押し寄せてくる。もしも守護の意思が押し負ければ、その時、この島は『悪魔』の手に落ちるのだ。
混乱を避け、なんとか家に帰り着いたルキウスは、家の中の様子がおかしいことにずに気づいた。
迎えに現れるはずの執事の姿が見えない。それどころか、静まり返って人の気配がほとんど無い。嫌な予感がした。
「何かあったのか? 母さん! ――アリス! どこだ」
二階のほうで、小さな物音がした。
「誰か居るのか?」
階段を駆け上がり、物音のした居間の扉を押し開くと、すぐさま、倒れているメイドの姿が目に入った。その奥では、ソファにぐったりと伸びている母ブリジットの姿が。そして、足元のあたりに、震えながら自分の体を抱きしめているアリステアの姿がある。
「アリス!」
「に、…兄さん」
少女は、じっとりと汗を浮かべて青白い顔で震えている。
「大丈夫か。何があった」
「わ、かんない…。皆、気絶しちゃった。頭の中で声が…するの…。ううっ」
「しっかりしろ。声? 何の声だ」
「行きたくない。嫌だ、ロビン…助けて…」
抱きかかえたルキウスの腕に爪を立て、アリステアは、絞り出すように言った。必死で何かに抗っているようだった。
(…もしかして、さっきから頭の中にある違和感のことか?)
遅ればせながら、ルキウスも気づいた。帰宅している最中ずっと、頭の中を蛇が這い回るような、嫌な感じがしていたのだ。意志の強い彼には、それはただの違和感としてしか感じられていなかった。
だが、大半の者はそうではなかった。
(何が起きてるんだ)
妹を抱きかかえたままで、彼は必死に考えようとしていた。
途中から、まるで別人のように見えたロビン。
そのロビンは、書庫の中で謎めいた言葉を残して目の前で消えた。
(…これは、『悪魔』の仕業なのか?)
窓の外からは、叫び声や何かが打ち壊される音が聞こえ、何か燃えているような焦げ臭い匂いがする。サイレンの音も聞こえる。暴動の夜と同じだ。
(いや。ロビン君は、『悪魔』の正体は、マリク・アプリースの怨念だと言っていた…だとしたら、これは人間の仕業なのか?ぼくらガルド
ぞっとした。と同時に、自分のその推測が正しいと確信した。
(そんなこと、させるものか。ぼくらは、今に生きてるんだ。百年も前の恨みなんて知るものか。)
妹を抱く腕に力を込め、彼は鼓舞するうように呟いた。
「耐えろ、アリス。きっと”救い”はある。きっと――」
とっさに頭に浮かんだのは、教会の聖職者たちでも、新学校の教師たちでも、涼やかな顔をした女神像でも無かった。
暴動の夜に見た、恐ろしくも美しい異形の姿。
(『力』の聖霊…)
祈りは、自然にそちらへと向けられた。
どうか悪魔を打倒し、自分たちを守って欲しい、と。
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