Ⅱ章―第22話 聖都動乱(1)

 正門を閉ざした七つ門教会の崩れた聖堂の中、マークスは一人、祭壇に向き合っていた。

 祭壇の前には、瓦礫の中から掘り出され、片腕の欠けた痛々しい姿の女神像がある。彼はその前に膝まづき、指を組み合わせていた。

 祈るべき理由も、祈るべきこともたくさんあった。

 この街の平和。教会の再建。異端のあり方と、許容すべきかどうか判断のつかない存在について。養い子であるケイナのこと。もはや普通の人間としての平凡な人生は望むべくもない、ロビンの将来――。

 心を悩ませる幾つもの迷いが、浮かんでは消えていく。だが個人的なことは極力、考えないようにしていた。自分は、この七つ門教会を預かる司祭という立場なのだ。そして、養護院にいる、全ての子供たちの父親代わりでもある。

 ふと、足元に影が落ちるのに気づいた。

 組んでいた指をほどき、顔を上げると、さっきまで晴れていた空に雲が広がり始めている。

 (――雨? いえ。何か、嫌な気配が)

瓦礫を踏む、じゃりっという音がした。

 「司祭様!」

鋭いエマの声。

 振り返ろうとした時、横から、飛び出してきた彼女に突き飛ばされた。同時に、乾いた音が脇を通り過ぎていく。

 聞き覚えのある、否、忘れることも出来ない音――銃声だ。


 地面に転がりながら、マークスはとっさに頭を腕で庇った。

 「物陰に、早く!」

立て続けに銃声が数回。言われるまでもない。マークスは、祭壇の裏の隙間に滑り込んだ。エマも反対側に居る。銃を構え、素早く向こう側を見やって、応戦するように数発を発射した。

 伺い見ると、瓦礫の向こうに慣れない手付きで銃を構えている若い女性の姿が見えた。

 「一人?」

 「です。指名手配されてる脱獄者、イリーナ・ハラン」

懐から取り出した発煙筒に火を付けながら、エマは淡々とした口調だ。

 「煙幕を張ります。居室棟に走って下さい」

言うが早いか、それをぽいと祭壇越しに聖堂の瓦礫の真ん中に向かって投げた。

 「今です。走って!」

何かを聞き返す暇もない。マークスは、声に背中を押されるようにして聖堂脇の扉目指して走った。後ろから、エマが銃を構えながらついてくる。

 居室棟からは、銃声を聞きつけた助祭たちがちょうど、駆け出してくるところだ。

 「あっ、司祭様!」

 「ご無事でしたか」

 「ええ。ですが、他にも仲間がいるかもしれません。危険ですので皆、部屋に隠れていてください」

 「援軍を呼びます。耳をふさいで」

エマは、てきぱきと信号弾を取り出して、空に向かって放つ。赤い発煙が、聖堂と居室棟の間に柱となって立ち上る。

 「すぐに教会本部から応援が。それまで、ここに――」

 「――おい、司祭!」

聖堂のほうから、若い女性の甲高い声が響き渡ったのは、その時だった。

 はっとして、マークスは足を止めた。

 「あたしはケイナと同郷なんだ。あの子は言ってた。あんたは卑怯者で、大事な時はいつも逃げるって!」

 「挑発です。戻らないでください」

エマの囁きに重ねるように、イリーナは尚も叫ぶ。

 「お前たちが家庭を奪い、故郷を奪った子供たちに偽物の教えを与えて父親ヅラする、反吐の出るような偽善者。ケイナがどれだけ、お前を鬱陶しく思ってたか知ってる? 思ってるふりをして、自分の都合のいい子供を演じてくれることを期待してただけだよねえ? ねえ! 司祭!」

 「…っ」

 「司祭様」

止めようとするエマの腕を振り払い、マークスは、さっき逃げてきた道を戻る。

 「私は逃げたりしませんよ」

 「そう。それでいい」

聖堂の入り口に立った時、マークスは、瓦礫の山の上で、自らが運んできた薪の上に立って、上着の中身を見せている女性の姿を見つけた。

 年はケイナとほとんど変わらないはずだった。

 だが、狂気に囚われた顔は醜く歪んで、五十年分も年をとったかのように見えていた。

 「お前が救えなかった者たちの怨念を、見るがいい!」

手にした火種が向けられている先が、上着の下の体に巻き付けた爆発物の導火線だと気づいた時には、もう、遅かった。

 「司祭様!」

とっさにエマがマークスを地面に引き倒すのと、イリーナの居た場所に火柱が立ち上がるのは、ほぼ同時。

 爆発物の火が人の体を包み込み、足元の薪にも引火して、赤々とした柱の熱が聖堂の真ん中から押し寄せる。炎は、イリーナの体を一瞬にして包み込んで、暗い色の影へと変えてゆく。

 声もなく呆然と見つめていたマークスだったが、すぐに、はっとして胸元に提げた聖十字に手を伸ばした。

 「――『悪魔』」

イリーナは、ただ司祭の目の前で焼身自殺するために来たのではなかった。自ら覚悟を決めて、生贄となるためにここへ来たのだ。

 出現しはじめたばかりの頃の『悪魔』が、どのような儀式で喚び出されていたかの知識は、マークスにもあった。


 ”人を火に焚べて燃やす”。


贄の命が燃え尽きるともに、その場所から、ゆっくりと異形の気配が立ち上がってゆく。

 「エマさん、助祭たちを避難させてください。」

そう告げて、マークスは聖十字に意識を集中させる。

 「光の国プレロマーにおわす父たるものアルパトールよ、母なる叡智ソフィアよ、汝の子らに恵みあれ。我、肉に宿りし者は”兄弟”たる聖霊アイオーンに願う。――来たれ、『守護』の聖霊、”ホロス”!」

幾重にも重なり合うカーテンのような輝きが、聖堂全体を包みこむ。

 だが、これは侵入を防ぐためのものではない。聖堂のど真ん中に出現しようとしている『悪魔』を、そこから外に逃さないためのものだ。光の輝きは『悪魔』の自由を奪い、その場に縛り付けている。

 「そちらにも言い分はあるのでしょうが、私にも矜持というものはあります」

マークスは胸の前で指を組み、目の前の異形を睨みつけたままで呟く。

 「守りたいものがあるのです。たとえ届かなくとも、その思いを誰にも貶されるいわれはありません。」

異形が、低く咆哮する。その声は既に瓦礫の山となった聖堂を震わせ、光から逃れようと暴れている。

 「司祭様、応援…『裁き』の聖霊を使える者が来ました!」

エマが叫ぶ。

 「このまま抑えます。止めを、お願いします」

言いながら、マークスは奇妙な違和感を覚えていた。

 (――そういえば、”あれ”が出てきていない)

考えていたのは、聖廟の地下にいるはずの存在のことだった。

 この至近距離だ、『悪魔』の気配に気づかないはずはない。自分が出るまでもないと見て静観しているのか。それとも、別の何かに気を取られているのか。

 目の前で、駆けつけた教会の聖職者が『裁き』の聖霊を喚び出そうとしている。

 「来たれ、『裁き』の聖霊、”アドナイオス”!」

頭上に、光の槍を携えた聖霊の姿が出現する。エマが、ほっとした顔になるのが見えた。

 そう、本来なら、これで終わるはずの状況だった。

 だが――。




 大通りから繋がっている裏門の鍵は壊されて、門が開かれている。

 聖廟の前に立ちふさがる少年は、小さくため息をついて、侵入者たちを迎えていた。

 「やれやれ。こうなるのが嫌で聖廟を開くことにしておいたのに。明日は日曜で、壊さなくても開いていたんだぞ。もう一日くらい待てなかったのか?」

 「……。」

侵入者たちは答えない。いや、答えられないのだ。

 正気を失っていることは、見た瞬間に察しがついた。血走った目、理性のない顔。

 「まるで獣だな。この世界に降り立って最初に見た時の人間よりも、さらに退化している」

呟いて、さっと一瞥すると、瘴気に操られた人間たちがばたばたと倒れてゆく。圧倒的な気配に意識を飛ばされ、気絶しているのだ。

 (陽動か。それとも挑発のつもりか? ――こちらが人間を殺さないと分かっていて、余計な手間をかけさせるつもりか)

ちら、と壊された門のほうに視線をやる。

 (これで終わりでもないだろうな。ここを守りながら、”本体”のほうを叩きに行くのは難しい)

すぐ近く、聖堂のほうで『悪魔』の気配が出現する。ほぼ同時に、光のカーテンがその気配を包むように広がった。

 (『守護』の聖霊。司祭のほうも狙われたか。向こうのほうが手駒が多いな)

それに、頭上に広がる雲だ。その雲は、実際には空に立上る瘴気から出来ていることは、『知覚』の聖霊の力を使える者ならとっくに気づいているだろう。

 雲が広がるにつれて、その下にいる人間たちは意識の無い者、弱い者から瘴気に飲み込まれて強制的に意識を上書きされ、操り人形となる。それも、過去に『悪魔』と契約し、憑かれたことのある人間ほど、抵抗力が弱い。目の前で倒れている連中は、どこかで見かけたような顔ばかりだ。

 ふと気配を感じて傍らに目をやると、息を切らせた若い男が立っている。

 「――遅かった」

呟いて、気絶した人々に駆け寄って傍らに膝をつく。顔を見るのは初めてだが、声には聞き覚えがある。

 「数日前、裏通りで警告してきた人間だな。」

男は小さく頷いた。

 「皆、ガルド氏族クランの者たちだ。今どき報復など言い出しても意味がない、止めておけと言ったのに…」

 「焚き付けたのは誰だ。以前の首謀者は、収容所の中にいる」

 「発起人はマクセンだった。でも皆がおかしくなり初めたのは、むしろマクセンが捕まってからのほうだ。――秘密の集会場があったんだ。今は牧場になってるバルドの丘…かつての『救済』の聖霊の聖地。あそこで集会をしているうちに、だんだん皆、過激になっていった」

 「……。」

ロビンの似姿は、ゆっくりと口の端を持ち上げた。

 「なるほど。『悪魔』本体の仕業か。ゆっくりと憎悪を浸透させて、”本体”自ら手駒を増やしていった…。」

だとすればやはり、この事態は、『悪魔』の本体であるマリク・アプリースの怨念を倒すことでしか止められない。散発的に現れる”切れ端”をどれだけ倒したところで、人間の数だけ次から次へと出現してくる。

 『ロビン。今、どこにいる』

心のなかで呼びかけると、しばらくして反応があった。

 (もうじき山の麓に到着する。ヴィクターさんと合流するところだよ)

 『なら、聖都に戻らず北の郊外の丘に向かえ。』

 (えっ?) 

 『詳しい状況は後で説明する。――急げよ。いくら我でも、そう長く全ての者を守りきることは出来んぞ』

息を呑むような、僅かな間。

 (分かった。)

声が途切れた。

 聖廟の前に立ったまま、ヤルダバオートの分身は、光を失ってゆく空を見上げていた。


 最後の”ソフィア”がこの場所で死んでから、およそ二百年。

 『救済』の聖霊の”使徒”になるかもしれなかった男が天を呪いながら火刑に処されてから、およそ百年。

 その間、何十世代もの人間が入れ替わりながら、負の感情が積み重ねられていった。憎悪、無念、悲哀。それは今や、天をも覆うほどの力を持つものとなった。

 (――これもまた、『意思の力』の一つか。)

彼は、人間の姿の自分の胸に手をやった。

 強い思い。かつての聖地を、この聖都を自分たちの手に取り戻し、教会を追い出したいという切望。

 そのためには、自らの命さえも捧げてゆく、蛮勇とでも呼ぶべき人間たちの強い意思。

 何十世代にも渡って紡がれ、多くの人間の命に支えられたその意思を前にして、『力』の聖霊は初めて、勝てるかどうか分からない強敵の存在を認識したのだった。


 ふと、ロビンの存在を思い浮かべる。

 空っぽで、自らの願いを持たず、特別な力など何も持たない凡庸な人間。それでいて、初めて魂に触れた時、妙に惹かれるものを覚えた。

 (お前なら、――いや。聞くまでもなかったな)

ふと気づいて、彼は思わず笑みを浮かべていた。


 あの少年は、畏れなど抱かない。在るものは在るがままに、全てを受け入れるのだ。




 光のカーテンに包まれた聖堂の中で、マークスは、信じられないものを目の当たりにしていた。

 『裁き』の聖霊に貫かれながら、『悪魔』はまだ、そこに平然として立っている。それどころか、攻撃した側がふっとばされて、壁に叩きつけられて気絶している。

 驚いていられたのは一瞬だ。

 「エマさん!」 

マークスの声と同時に、エマが飛び出していく。『癒やし』の聖霊の使い手である彼女なら、治療は出来る。問題は、目の前に出現した悪魔を倒す手段が無いということだ。

 『守護』の聖霊に抑えられたまま、目の前の悪魔は身動きが取れないでいる。だがその姿は、暗い色の帯を纏わせたまま、少しずつ大きくなろうとしている。最初は聖堂の崩れた壁ほどの大きさしかなかったものが、今は天井のあった部分を越えるまでになっている。それとともに、聖霊の力を少しずつ、押し返し始めている。

 マークスの表情にも、少しずつ焦りの色が見え始めていた。

 (このままでは…。)

その時、聖廟の背後の壁を乗り越えるようにして、目の前にもう一体の異形が飛び込んできた。

 「!」

翻る長い金の髪、人間に似た上半身と黒い馬の下半身。そして色鮮やかな翼。マークスにとっては初めて見る姿だったが、それが何者なのかはすぐに分かった。

 (”第一の聖霊”…これが…?)

新たに現れた異形は、聖堂の真ん中にいる悪魔を羽交い締めにすると、力任せにその場に叩きつけた。風圧で、マークスもエマも壁際まで吹き飛ばされる。

 『司祭。いちど聖霊を解け、こいつを外へ放り出す』

頭の中に声が響く。マークスは、考える間もなく反射的にその声に従った。

 「ギャアア!」

新たに現れた異形は、吠えて暴れる悪魔を羽交い締めにしたまま、教会の外へ押し出していく。

 『教会を守っていろ。』

声は、そこで途切れた。

 ヤルダバオートは、教会の前に立ちふさがるようにして悪魔と対峙する。その足元には、既に瘴気に侵された人間たちが狂ったように歌い、歓喜の声を上げながら走り回っている。――ロビンが、『救済』の聖霊の記憶の中で見たものと同じだ。


 「奴らを焼き尽くせ! 滅ぼせ!」

 「教会を追い出せ! 殺せ!」


呪いの声が醜い復讐の異形に力を与える。


 「『救済』を! 奪われた者たちに! 虐げられた者たちに『救済』を!」


声に後押しされるように、八つの目がぎょろりと動いた。腕を振りかざし、ヤルダバオートに向かって襲いかかってくる。以前とは比べ物にならないほどの重たい一撃。足元の敷石が割れ、体が沈む。

 核となるアプリースの怨念に人間たちの集合意識が上乗せされ、力を与えているのだ。

 「ああ…、」

聖堂の前で見守るマークスも、教会本部の塔の上にいたサリエラも、その他の事情を知る人間たちも、思わず息を呑んだ。

 人間自身の生み出した怪物が、元は天より降り立った存在だったものに匹敵しようとしている。

 それは――

 ――本来なら、あり得ないはずの光景だった。

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