Ⅲ章―第3話 悪魔の塚(1)

 ロビンが七つ門教会に戻ってきた次の日、ヴィクターがふらりと現れた。

 「よう、生きてるか。…って」

男は、畑で草刈り鎌を手にせっせと草むしりをしている少年を見て、顔をしかめた。

 「農夫にでもなる気か? 一週間も寝込んでたって聞いたが、えらく元気そうじゃねぇか」

 「体はなんとも無いんです。ヴィクターさんのほうは…」

問うまでもなく、まだ本調子でないことは分かる。頬には大きな絆創膏が貼られ、腕に包帯が見えている。全て治癒していないのは、自然に治せる体力のある者にまで『治癒』の聖霊の力を割く余裕は無いからだろう。

 「こっちも、なんともねぇよ。むしろ、俺と殴り合ってた若いのが重傷だ。ウィシュト、とか言ったか。全身の筋肉断裂で、助かっても全治半年だとさ」

 「うわ…。」

 「悪魔に操られて暴れてた連中は、大抵、そんなもんだ。もともと人間の体ってのは、力を全開にしないように出来てる。全開にすると壊れちまうからな。そこの制御を理性ごとぶっ壊されたんだろう。病院は人で溢れてる。エマもそっちにかかりっきりだ」

 「大変じゃないですか、それ。僕に何か手伝えることはありますか?」

 「ある。というか、今日はその件で来た」

足元の、ほころび始めた蕾にちらと目をやったあと、彼は、小屋の扉を開けてヴィクターを招き入れた。

 入るなり、男は椅子にどかっと腰を下ろして前置きもなく喋り始めた。

 「ああ、茶はいい。手短に話す。”あの日”以来、押収されて教会本部に保管されていた”媒介”が全て力を失った。サリエラ先輩のところで鑑定中だったやつもだ。『悪魔』の本体が消えて、その力を宿した品も浄化された――と、俺らは解釈している。」

 「はい。その話は、主教様からも聞きました」

 「ところが、だ。一箇所だけ、まだ『悪魔』の気配が消えていない場所がある」

 「えっ?」

 「以前、お前から報告のあった場所だ。島の北の端、元の領主館の庭にある古い塚という話だったが」

ロビンの頭の中に、すぐさまその場所のことが浮かんだ。

 「ケイナの実家ですね」

 「ケイナ…ああ、マークスを撃った奴か」

椅子の上でヴィクターは、気に入らないというようにふんと鼻を鳴らして足を組む。

 「本当なんですか? あの場所にまだ、『悪魔』がいるって」

 「ちょうど、調査に行ってた奴が昨日の夕方に戻ってきて報告があった。『悪魔』の本体が消されたのは一週間前、そこから何日か経過してもまだ気配はあったという話だ。つまり、今もまだ状況は継続している可能性が高い」

 「……『悪魔』じゃない? もしくは、別の『悪魔』とか?」

 「わからん。だからこそ、見極める必要がある」

 「あー…言いたいこと、なんか分かりました」

 「飲み込みが早くて助かる」

ロビンは、独り言のように頭の中で呟いた。

 (ヴィクターさんの言っていることは本当?)

 『……。』

しばしの沈黙。

 『島の北部に、何かの気配があるのは確かだな。島の外にも』

 (外?)

 『遠すぎてはっきりしない場所が多い。幾つか存在する』

 (そんなに…?)

声は、それきり沈黙した。

 曖昧な言い方だと思った。本当に分からないのか。それとも何か気づいていて、ロビンたちが確かめるまでは黙っていようとしていることがあるのか。

 とにかく、何かが起きている。確かめるなら、早い方がいい。

 「いつでも出発出来ます。」

 「なら、教会の公用車を手配しておく。俺の私物の車は、無理させてエンジンがぶっ壊れちまったからな。」

大柄なヴィクターが立ち上がる時、椅子は、派手にギシっと音を立てた。

 「明朝、迎えに来る。それまでに準備しておけ」

いつもの仏頂面で、ぶっきらぼうにそう言い残して、立ち去っていく。


 ヴィクターが帰っていったあと、ロビンは、以前その塚を訪れた時のことを思い出していた。

 すっかり忘れていたが、あの時、確かに「アプラサクスの気配ではない」とは感じていた。別の『悪魔』かもしれない、という考えはあった。けれど、まさかそんなはずはないと、いつしか記憶の片隅に追いやってしまっていたのだ。

 「…別の『悪魔』、なんてことが在り得るんですか?」

問いかけに、答えは無い。

 だが逆に言えばそれは、ヤルダバオートは、何が起きているのか既に分かっているという証拠でもあった。




 ヴィクターが帰っていったあと、ロビンは、居室棟のマークスの部屋へ向かった。

 明日から出かけるということを伝えておくためだった。だが、マークスは既にその話を知っていた。ヴィクターはどうやら、先にマークスのもとを訪れて、ロビンを連れ出す許可を取っていたらしい。

 「少しはゆっくりさせてやってほしい、と言ったのですが。…教会本部は今、極端な人手不足ですから」

 「僕は構わないです。元気なので」

 「逆に、それが不思議なのですけれどね。」

マークスは少し苦笑したあと、ふいに、真面目な顔になった。

 「――ここに来る以前のケイナに起きたことは、私も気になっているのです。もしかしたら、故郷に何か手がかりがあるかもしれません。実は、彼女が拘束されたあと、改めて当時の状況を確認していたのですが、…保護された当時の彼女には、虐待の疑いがあったようなのです」

 「虐待?」

 「ええ…。『認知』の聖霊によって消した記憶の一部は、その部分の可能性があります」

それは、意外な情報だった。ケイナは、家族を殺されたことで教会に恨みを持っていたようだった。だから、家族仲は良好だったはずだと、無意識に思い込んでいた。

 「強い感情と結びつく記憶は、消せないと聞きましたが…。」

 「ええ。不完全にしか消せないだろうとは、当時の担当者も考えていたようです。しかし残しておけば人格が壊れてしまう状況で、それでも消去すべきだと判断されたようです。もしかしたら彼女は、消されたつらい記憶を、家族に愛されたかった願望で上書きしてしまったのかもしれません」

 「そんな。それじゃ、偽りの過去の記憶を作り出したってことになります」

 「人間には良くあることですよ。記憶というものは、得てして願望によって歪みやすいものです。人の記憶ほど当てにならないものは無い。ですから、ケイナが本当はどんな幼少期を過ごして来たのか、誰にも分からないのです。」

そこまで語って、マークスは小さくため息をついた。

 「それともう一つ、最近になって分かったことなのですが…ケイナはどうやら精神的な年齢が極端に幼く、私に対する傷害事件にいては、責任能力がないと判断されることになりそうだと」

 「どういうことですか?」

 「彼女の実際の年齢は十八歳ですが、心のほうは、ほんの十歳程度だそうなのです。」

 「十歳?!」

 「ずっと心を閉ざして、人との接触を避けてきた結果かもしれません。幼いだけでなく、善悪の区別がつかない。今の彼女は、未熟で従順な子供に過ぎません。あるのは、…”言われたことをやらなければ”という意識だけです」

ロビンは、絶句していた。自分より少し年上のはずのケイナが、精神的にはまだ幼い少女だというのか。


 いや、だが、言われてみれば腑に落ちるところもある。

 機械的に言われたことをこなすだけで、自分から考えて動くことはほとんど無かった。子どもたちの世話をしている時も、世間慣れしていないというだけでは納得できないような、無知な行動をとることもしばしばあった。

 精神年齢が世話をしている子供たちとほとんど変わらなかったのなら、それも納得出来る。

 全く喋らなかったせいで、誰も気づかなかったのだ。

 「聖廟の地下の存在が言った通りです。あの子が私を撃ったのは、私に対する恨みや殺意ではなかった。ただ、そうしろと言われたから。――それだけだった」

 「……。」

それは、理由ある攻撃よりももっと残酷な行為だった。誤解によって恨みを買っていたなら、誤解を解くことで和解は出来る。過ちを犯したと認識すれば、悔い改めることも出来る。

 けれど話の通りなら、ケイナは、自分がしたことの善悪も、意味も、理解出来ていない。

 「まずは、何とかして彼女の”人生の時間”を動かさなければなりません。今回の調査で何かが分かったら、私にも教えて下さい。」

 「わかりました」

マークスの部屋を後にしながら、ロビンは、重い気持ちを抱えていた。

 一体、ケイナの実家で何が起きていた? 

 それに、もしも彼女が本当に、ここへ来た時からほとんど精神的に成長していなかったのなら、それに気づけなかった責任は、一体どこにあるのだろう。

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