Ⅰ章―第7話 冬至祭の悪夢(1)

 養護院での暮らしは、基本的に年齢で分けられている。

 五歳以下の幼児は幼稚園児として、六歳から十二歳は小学生として、それ以上は中学生としての扱いを受ける。つまり、それぞれの年令に応じた義務教育の時間がある。

 ほかに養護院特有の教育として、週に一度、どの年代にも共通して「聖典学」の時間が付け加えられている。聖典を読み込み理解する、という授業で、この時間だけは、すべての子供たちが一箇所に集められ、マークス司祭じきじきの講義を受けることになっている。


 「聖典十二章。光の国プレロマーより下りし子ら…この章の意味は少し難しいのですが、『光の国』というのは創造主である至高の父のおわすところ。すなわち天のもっとの高い場所のことです。天国、と言い換えてもおおむね間違いではありません。我々人間の魂は、もとはすべて、この『光の国』に在ったものなのです。それが地上に落ち、肉体を得て、病気になったり老いたり、いつか死を迎える存在となってしまいました。」


聖典を手にしたマークスの穏やかな声は、威圧的な他の聖職者たちの説法とは違い、自然に耳から入って染み透るようだ。本に書かれているだけの言葉ではなく、自分で深い所まで理解した者だけが持つ自信と、無知な者に対する寛容さにあふれている。

 「せんせー、なんで人間は地上に来ちゃったんですか?」

幼い子供たちは、分からないことは素直にわからないと聞く。そしてマークスは、どんな質問にも淀みなく、分かりやすい解説をしてくれる。

 「欲望を持ったからだと言われています。天の国では、それは恐ろしい罪なのです。考えても見てください、我々は肉体を持つからこそ、背中が痒いとか、お腹が空いたとか、風邪を引いたとか色んな悩みや苦しみを持つのです。でもそれは、きれいな服を着たいとか、おいしいものを食べたいとか、寒い日でも夜更かししたいとか、そういう欲望と結びいています。欲望のままに生きれば苦しみがついてくる。欲望を制御して正しい教えの通りに生きれば、世界の終わる時には肉体を捨て、苦しみのない世界に戻れるのです」

 「天国に行ったら体がなくなっちゃうの? そしたら、おいしいもの食べられなくなる?」

 「えー、それはやだな…」

 「大丈夫ですよ。天の国では、地上にあるものとは違う、汚れた肉体のままでは口にできないすばらしい食べ物があるそうです。それに、とても美しいところで、暑すぎる夏も、寒すぎる冬もない。常に花が咲き乱れ、鳥たちが美しい声で歌う。――そのお話は、聖典三十九章に書かれていますよ。気になる子は、予習で読んでおいてくださいね。

 さて、本来在るべき永遠の国、苦も痛みも存在しない『光の国』へと至るには、ソフィア様の教えに従わねばなりません。そう、慈悲深き女神の与えてくれた『知恵』とは、迷える獣と化した人間が本来の尊厳を取り戻し、いつか再び『光の国』へ戻るための教えのことなのです。ですから、皆さんもきちんと勉強して、いつか天国へ行けるようになりましょうね」

ロビンは端の席で、ぼんやりと講義の声を聞き流していた。

 退屈というわけでもなかったが、もう何度も聞いている話だったし、聖典は内容をほとんど覚えるほど読み込んでいた。

 それは年長組の子供たちはみな同じで、居眠りとまではいかなくとも、何か別のことを考えて過ごしているようだった。聖職者志望の、あのジョシュでさえ、聖典の下にこっそり別の本を広げ、それとなく読みふけっている。

 もちろんマークスはそれに気づいているのだろうが、敢えて注意したりはしない。

 何度も同じ話を聞いて面白みがなくなっていることは、百も承知なのだ。


 ロビンが強引に連れ出された雪の朝から、既に数日が経っていた。

 あれから特に何もなく、拍子抜けするくらい何事もなく日常が続いている。

 談話室に置かれている新聞をそれとなく確かめてみたけれど、『悪魔』や行方不明になっていた少女のことなど何処にも書かれておらず、街の郊外の農場で毒ガスの湧出があり、飼育されていた牛が数十頭が死に、飼育員数名が意識不明で病院に運ばれた、という事件だけが載っていた。

 悪魔の存在も、聖霊のことも、全く触れられていない。あれだけ派手に立ち回ったというのに、丘の上に立ち上っていた闇色の帯も、その上に現れたまばゆいばかりの輝きも、誰にも見えなかったらしいのだ。

 もしくは――見えていたけれど、それが何なのか分からなかったのか。

 確かに、『悪魔』の存在はもちろん、聖典に出てくる『聖霊』など普通の人たちからすれば神話の存在だ。実際に視た者でもなければ、実際に出現することがあるなどと、冗談にしか思えないのだ。




 聖典学の時間も終わりに近づき、退屈していた年長組が、ようやく体勢を崩して少し伸びをしはじめた頃だった。

 「お勉強中、失礼しますね」

教室に、珍しくジーナが割り込んで来た。

 「マークス先生、お客様です。ロビンに」

 「ん? 教会関係者ですか」

 「いえ。それが――」

二人はぼそぼそと、入口の側で何か囁き声で話している。

 ややあって、マークスが振り返った。

 「ロビン」

 「はい」

 「応接室でお客様がお待ちです。私も後から行きますから、先に行って面会していてください」

 「……?」

いつもなら、外部からの面会者には必ずマークスが同席する。といっても、そのほとんどが異端審問官絡みの話しで、ここ数年はずっと担当者はヴィクターだった。「先に行って面会していい」ということは、今回の相手はヴィクターではないということか。

 ともかく、この少々退屈な時間を早めに切り上げられるなら、それに越したことはない。

 教科書と筆記具をまとめると、ロビンは、仲間たちよりひと足早く教室を後にした。


 養護院に訪ねてくる客人は、何種類かに絞られる。

 外に親戚や身内のいる子供は、定期的な面会。養子縁組の対象になってる子供たちは、両親候補との顔合わせ。進学や就職希望者は、学校や就職先との打ち合わせ。

 そのどれにも当てはまらないロビンに会いに来る人がいるとすれば、教会関係者くらいのはずだった。


 だが、たかをくくって客間に出向いたロビンを待っていたのは意外にも、見覚えのある、赤毛の少女だった。

 「元気ー、あたしのこと覚えてる?」

 「え…?」

覚えているも何も、忘れるはずがない。

 それは数日前、悪魔に取り憑かれて暗い色の帯に飲み込まれようとしていた、あの、三つ目の指輪の持ち主だった。

 真っ白だった顔色はすっかり色を取り戻し、赤い髪はきちんと整えて先の方をカールにしている。年頃の娘らしく化粧までして、この寒さだというのに短いスカートに膝上まであるファーつきのブーツを履いている。

 だが、一人ではない。側には、付き添いらしい老執事が控えていて、いかにも両家のお嬢様といった体裁だ。

 ロビンがぽかんとしているのを見て、執事のほうが小さく咳払いをした。

 「ご紹介が遅れました。こちらは、アリステア・ライスナー様。わたくしのお仕えしている旦那様のお嬢様でございます。先日、家出をされたお嬢様が凍死寸前のところを助けていただいたそうですので、こうしてお礼を申し上げにお伺いいたしました」

 「そーそー、なんかさ、寒いーって適当に教会に潜り込んで寝ちゃってたんだよね。で、凍死しかけてたの、朝イチでキミが見つけてくれたんでしょ? てか寝てて凍死とかマジうける。小説かよっていう」

 「…あ、…えっと?」

 「あーごっめん、いきなり来てもさ、びっくりするよねー。でもさなんか借り作ったままって気分よくないじゃん? んでー、ちょー感謝してるからお礼ー、持ってきたんだけど」

 「…はあ。大したことはしてないですけど、まあ」

話しが噛み合っていない気もするのだが、とにかく、この少女は、助けてくれたお礼をしたくてここまで来たということらしい。

 「体はもう大丈夫なんですか? 見つけた時、だいぶ体が冷えてましたけど」

 「んーなんとかねー。入院して検査してぇ、問題ないって退院してきたのー。もうちょっと遅かったら危なかったかも、っては病院のセンセに言われたー。運良かったよね、マジで」

 「そうですね…」

少女は、何事も無かったかのように明るい声で笑っている。青い瞳には死の影は全く無く、つい数日前に死にかけていた人間とは、とても思えない。

 いや。それよりも、悪魔との接触のことを何も覚えていないことのほうに違和感を感じていた。

 指輪のことも、他の二人の友達のことも――。

 もしかしたらまだ、知らされていないのだろうか?


 尋ねようか、尋ねまいか迷っていた時、丁度、授業を終えたマークスが部屋に入ってきた。

 「失礼します。こちらの教会で司祭を務めております、マークスです。」

 「あっ司祭さん? これー、うちの母からのキフ? キシャ? とかなんか、教会へのお礼らしいんでー、受け取っといてくれますー?」

 「ありがとうございます、ライスナ―様。その寛大なお心に感謝致しますとお伝え下さい。どうか皆様に、女神様のご加護のあらんことを」

 「ういっすー。あ、あとうちのお母さんが、司祭さんによろしくって言ってた。んじゃ、ちゃんと渡したかんね。さっ、帰ろ帰ろ!」

 「では、失礼いたします。」

執事が優雅にお辞儀をし、元気はつらつの令嬢の後ろについて部屋の外へと消えた。

 後には、ぽかんとしているロビンと、来客用の笑みをたたえたままのマークス、それに、テーブルの上に置かれた四角い封筒が残されていた。

 「先生、それ…」

 「ああ、金一封というやつですね。なかなか良い額が入っていそうだ」

 「えぇ?! 僕は何もしてないですよ。それに、凍死寸前って…あの子、なんか言ってることおかしかったんですけど」

 「ま、実際は口止め料ですよ。彼女は『悪魔』に接触してはいないし、禁忌の指輪も手にしたことはない。。ですからあなたも、全て忘れなければなりません」

いつしか、マークスの顔からは作られた笑みは消えている。


 言われたことの意味が腹に落ちてくるにつれ、ロビンにも、ようやく話が見えてきた。

 「…記憶を消す、なんてこと、出来るんですか」

半信半疑のまま、固い声で尋ねる。

 「これも聖霊の存在と同じく秘匿はされていますが、条件付きで可能ではあります」

 「あの子の記憶は改ざんされてて、…家出して凍死しかかったことになっていて、それで…じゃあ、異端審問もされないってことですか?」

 「でしょうね。そんな事実は無かったのだから」

 「アリなんですか?!」

 「実際のところ、教会上層部にかなりの圧力がかかったんでしょうね。ライスナー上院議員は、この島出身で初の国会議員となった地元の名士。本土でも名の知れた大物ですからね」

 「…アリなんだ、それ。」

ここ数日で、考えたこともない事実が次々と明かされていく気分だった。


 聖霊も悪魔も実体としてこの世界に出現することが出来る。異端審問官は聖霊の一体と契約して悪魔と戦うことが出来る。

 権力者の家族は、たとえ悪魔に憑かれても、その事実自体を記憶とともに無かったことにしてしまえる。

 教会では人の記憶を消すことさえ行われている。

 けれど一般人は何一つ気づくことはなく、報道されることもない――。


 「納得がいかない、という顔ですね。」

 「納得しろって言われても無理ですよ」

 「ふむ。では、こう考えて欲しいのです。異端審問の本来の目的は、自分の意思で禁じられたものに手を出す者を矯正することにある。巻き込まれた者は極力、波風を立たせずに元の生活に戻らせたい。いたずらに逮捕者を増やしても、目的は達せられませんからね」

 「なんだか、言い訳みたいです。本当は、偉い人にはあまり手を出したくないんですよね? そのせいで昨日のうちに手を打てなかったのは事実なんだし」

 「ま、大人の事情ではありますね。そこは否定しませんよ」

重たい封筒を取り上げて、マークスは、ロビンにいつもの微笑みを向けた。

 「戻りましょうか。」

 「……。」

納得はできていない。が、ここでおかしいと騒いだところで何かが変わるわけではない。

 それに、あの少女が何も覚えておらず、知らされていないのなら、そのほうがいいのかもしれなかった。確かに彼女は、巻き込まれただけに過ぎないのだから――。

 「にしても、奇妙な縁ですね。まさか、ロビンが救ったというのがマグダレナの娘とは」

客間を出た時、ふいに、マークスが呟いた。

 「え? 知り合いなんですか」

見上げた時、微かに寂しげな表情が見えた。普段は滅多に見せない、感傷的な顔だ。

 「…ええ、遠い昔のね。」

それだけ言って、彼は再びゆっくりと歩き出す。ついて歩きながら、ロビンは、その背中を見上げる。

 表情は見えなくても、気配でわかる。

 あの少女の母親との思い出は、マークスにとって、何か辛い記憶と結びついているらしかった。




 その日の自由時間、ロビンは、何もする気が起きなくて、もやもやした気分のまま、自室の寝台の上で仰向けになって考え込んでいた。

 明らかに”悪魔憑き”だったにも関わらず、何事も無かったかのように再び目の前に現れた赤毛の少女。

 他の女子生徒のことは何も報道されていない新聞。

 『悪魔』や『聖霊』の存在はともかく、あれほど異端審問にこだわっていた教会が、場合によっては異端者を見逃している、とういう事実。


 いや、それ以上に、マークスが見せた表情のことが、妙に気になっていた。

 (考えてみれば、マークス先生のことは何も知らないな…。)

いつも穏やかな笑みを浮かべ、子供たちに分け隔てなく接してくれる聖者のような先生。司祭になったのは、ロビンがここへ来て七年目のことだったはずだ。それまでは平の神父として、老司祭の補助をしていた。

 それ以外のことは、ほとんど何も知らない。自分のことを話してくれたことは、一度もないのだ。

 (あのヴィクターって人に聞けば多少は分かる? でも、わざわざ聞くのもな…。)

自分でも、何がそれほど引っかかっているのか良くわからない。分からないまま、彼は、ただぼんやりと天井を見上げたまま、今日の出来事を頭の中で反芻し続けていた。

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