Ⅰ章―第6話 悪魔と聖霊(2)

 それから数時間後、「七つ門」教会に戻ってきたロビンは、事情聴取という建前の元、客間で暖炉に当たりながら遅い朝食にありついていた。

 聖堂のほうからは、冬至祭に向けて練習に余念のない聖歌隊の、済んだ歌声が響いてくる。ヴィクターは一緒ではない。送ってくれたのは、いつもヴィクターと組んで異端審問の仕事をしている若い聖職者だ。セツ、と名乗ったその青年の素顔を見るのは、今日が初めてのことだった。

 あの無味乾燥で恐ろしげな仮面の下に好青年の顔が隠れているとは、きっと誰も想像しないだろう。

 今日も、いつも通りの人懐こい口調で、ヴィクターさんはいつも強引だから…と、しきりに謝っていた。


 暖炉の中の火は、すっかりいい具合に燃え盛り、部屋も温められている。

 マークスはさっきから、向かいの席で何か難しい顔で考え込んだままだった。ロビンからの報告を一通り聞き終えて、それからずっと黙り込んでいる。

 「…先生?」

 「ああ、はい。何でしょうか」

 「お仕事に戻らなくていいんですか。お祭りの準備とか、忙しいでしょう」

 「昼のお祈りまでに戻れば問題ありませんし、まだ少し時間がありますから。ただ――」

 「?」

コンコン、と扉が叩かれる。

 「どうぞ」

 「入るぜ」

入ってきたのは、つい数時間ほど前に、駆けつけた教会関係者に肩を借りて救護車に収容されていったはずの黒ひげの男だ。ロビン以上に、マークスのほうが驚いた顔だ。

 「ヴィクター…動いて大丈夫なんですか」

 「診察は一通り受けてきた。肋にヒビ入ってたが、ま、大したことはねぇ。他は一時的な精神疲労ってやつだ。いつものな」

 「人目についてもおかしくない場所で聖霊を召喚したそうですね。まったく、無茶なことを」

 「無茶も何も、ありゃギリギリだったぞ。実体化の寸前まで行ってた。つーか、ここまで追い込まれたのは新米の頃以来だ」

 「……。」

大人たちは、黙ってパンを口に運ぶ少年のほうに視線をやった。

 「ロビン」

マークスが名を呼んだ。

 「今日見たことを忘れろと言っても、忘れられるものではないのは分かっています。ただ、人には話さぬように。それだけて約束してください、いいですね」

 「…それは、もちろんですけど」

手を止めて、少年は首を傾げた。

 「『本物の悪魔』がいるってことは、『本物の聖霊』もいる、ってことでいいんですよね?」

 「…ロビン、それは」

 「空から降りてきた白い翼の大きな人間みたいな形したものが悪魔を倒すのが見えたんです。それに思い出したんですけど、”アドナイオス”って確か、聖典に出てくる七座の聖霊の名前のひとつでしたよね。聖典学の時間に習いました」

ヴィクターが、むっとしてロビンを見にらみつける。

 「おい。視るなっつっただろ。」

 「いやだって、あんな急に言われても…。」

 「ヴィクター、そんな言い方をするものではありません。」

マークスがたしなめる。

 「あなたがこの子を巻き込んだんですよ。それに、元を正せば昨日の時点で手を打たなかった異端審問局の失態なんですからね」

 「ちっ。」

 「はあ…。まったく」

旧友に対してはため息をついて首を振ったあと、マークスは、保護者の顔に切り替えてロビンのほうに向き直った。

 「ロビン。あなたが見たものは、確かに聖霊です。異端審問官は全員、『裁き』の聖霊と契約を交わし、その忠実な手足として役割をこなしている。そうでなければ『悪魔』に対抗することなど出来ません。しかし、教会関係者の中でも、このことを知っているのはごく一部だけなのです。

 ――分かっているでしょうが、人は未知なるものに対しては真っ先に恐れを抱くものです。あなたのように、視る力を持ちながら冷静に観察できる者は少ない。へたに噂にでもなれば、それは邪推を生むだけでしょう。」

 「はい。それはなんとなく」

 「では、重ねてお願いしますが、今日のことはあなたの内だけに留めておいてください。いいですね」

 「分かりました」

頷いて、ロビンは、空になった食器を手に立ち上がった。

 「それじゃ、これジーナさんに返して来ます。失礼します」

マークスとヴィクターにぺこりと頭を下げ、彼は、客間を後にする。頭上の空では、ようやく雪が弱まって晴れ間の見え始めている。薄い太陽光の下で中庭は白銀色に輝き、養護院の入り口では、自由時間の子供たちが雪合戦をしたり、雪だるまを作ったりしてはしゃいでいる。

 「あー、ロビン兄ちゃんだ! おかえり―」

 「おかえりなさいー」

 「雪合戦! やる?」

 「いいね、あとで混ぜて」

 「うん!」

鼻の頭や耳たぶを真っ赤にしたまま、子供たちが笑う。

 これから冬至祭に向けて、雪はもっと降り積もる。今はまだ冬の序の口だ。僅かな晴れ間と曇天と、雪の日とを繰り返し、靴下を履かなければ眠れないほど寒い夜が続くようになった頃、ようやく、今年最後の盛大なお祭りが始まるのだ。




 「…さて」

残された大人たちは、どちらからともなく視線を交わし、苦々しい笑みを浮かべた。

 「上層部は今頃、大慌てでしょうね。実体化の寸前で処理できたとはいえ、ここまで危機的な状況は数十年ぶりだ。しかも今回の被害者は本土の国会議員の娘さん、でしたっけ? 命に別状は無いんですよね」

 「ああ、あいつのお陰でな。病院に運ばれたが、極度の疲労だけで命に別状はなさそうだとさ。ま、一人でも助けられただけ救いはあるが。」

ヴィクターは、痛みに顔を歪めながらゆっくりと椅子に腰を下ろす。

 ロビンの手前、強がってはみたものの、実際は立っているのもやっとだったのだ。

 脇腹に手をやりながら、彼はぼやく。

 「にしても、あのガキ…ロビンか。妙にあっさりしすぎてやがるな。『聖霊』を間近に見てあの程度か。しかも、実体化した『悪魔』の瘴気を間近に食らってピンピンしてるのも異常だぞ。普通の人間なら、一瞬で牛と一緒におねんねしてるところだ。」

 「精神力が強い者なら耐えられるはずでしょう。あの子は、芯の強い子ですから。それとも、天の加護を得ているのかもしれませんね」

 「本気で言ってんのか。あいつに信仰心なんざ無いだろう」

 「それを言うなら、『真の信仰心とは何か』という、長年議論され尽くした命題に立ち返る必要がありますよ。ヴィクター、まさかここで学生時代の神学論争の再戦をしようなどとは思わないですよね。」

 「…チッ。口喧嘩じゃ勝ち目がねぇのは分かってるよ」

不機嫌そうに舌打ちすると、男は、椅子を軋ませながら両手を使って億劫そうに立ち上がる。

 「しっかり見張っとけよ、マークス。そもそもあいつの力は、『聖霊』の加護じゃねぇ。『悪魔』から力を得てるんだ。いつ俺らの敵になるか、分かったもんじゃねぇ」

 「ヴィクター、何てことを言うんです」

 「もうじき”巣立ち”の年齢なんだろう? だがな、俺はあいつを教会の外に出すのは反対だ。出来ることなら教会の中で飼え。いいな」

 「……。」

言うだけ言って出てゆく旧友の後ろ姿を、マークスは、難しい顔をして見送っていた。

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