Ⅰ章―第5話 悪魔と聖霊(1)

 街を取り囲む城壁の外に出た瞬間、風景が変わった。城壁の外は、一面の畑と牧草地。そして、遠くの方に別の街らしきものが見えている。

 朝もやに浮かぶ牧草地を見るのは初めてで、ロビンはしばし、斜めに射す冬の光に目を奪われていた。

 「おい、小僧!」

ぼんやり風景を眺めていると、隣の運転席の男が、苛立ったように怒鳴る。

 「方向! 合ってんのか」

 「あ、えーと…そっちです。左手のほう」

 「左? 道ねぇぞ」

 「でも、左なんです。まっすぐ左、って…あれ」

車が速度を落とし、やがて、ゆっくりと道端にある、牧場の囲いの側で止まった。

 うなるエンジン音が消えると、空から舞い落ちる白い雪花とともに静けさがゆっくりと忍び寄ってくる。

 「……。」

ガラス窓に触れた指先に、ひんやりとした感触が伝わってくる。

 ロビンの視界には、なだらかな丘の上で揺らぐ黒い雲のような帯が見えていた。それは幾重にも重なりながら、厩舎の脇の大木のあたりに絡みついている。

 「いるのか」

低い声で、ヴィクターが尋ねる。

 「…はい。あの木のあたりに、すごく濃い気配が視えます」

 「よし」

ヴィクターは運転席から外へ出ると、乱暴に車のドアを閉めた。

 「お前はここに居ろ」

 「え?」

 「待ってろっつってんだ。そのくらい出来るだろ」

 「いや、出来ますけど…。」

ロビンは、囲いを越えて振り返りもせずに丘を登ってゆく男の後ろ姿を目で追った。

 「待ってろ、って言われても…」

 手のひらに載せたままの二つの指輪を見下ろすと、出発したときに比べて、指輪から流れ出す暗い色の帯は濃くなり、気配も増している。近くにいるだけで体がむずむずするような不快感に包まれる。

 今すぐそれを投げ出してどこか遠くへ離れたい気分だ。おまけに、車の中は寒い。助手席の上で足と腕を擦っても大して暖かくはならず、じっと待っているのは辛かった。

 丘の上を振り返れば、ただならぬ気配が渦を巻いている。あそこへ行ったはずのヴィクターは大丈夫なのだろうか。頭の奥がずきずきするような、嫌な予感が押し寄せてくる。

 ――と、その時だ。


 パァン、と乾いた銃声のようなものが、丘のほうから響き渡った。

 「!」

銃声だというのは、すぐに分かった。とっさに、彼は助手席を飛び出していた。

 丘はいつの間にか黒い靄にすっぽりと包まれて、木も、厩舎の建物もほとんど見えなくなってしまっている。


 いつの間にか辺りには、異様な雰囲気が漂い始めていた。暗い色の帯が薄く広がって、朝だというのに、まるで夕方のような暗さに見えている。しかも、近くで銃声が響いたというのに誰も様子を見に出てこず、すぐ近くにある厩舎のほうで騒ぎが起こる気配もない。

 その理由は、丘を駆け上ったところで分かった。

 「あ、…」

 厩舎の中では、牛たちが倒れて泡を吹いていたのだ。飼育員と思われる人のも見えるが、ぴくりとも動かず、外から見た限りでは、気絶しているだけなのか死んでいるのか分からない。

 おそらく、辺りに漂っているこの暗い色の帯――『悪魔』の気配に当てられたのだ。厩舎の裏手にある建物が静まり返っているところからしても、中にいる人たちも同じ状況のはずだ。


 この、暗い色の帯は一体どこから流れて来ているのだろう。

 視線を動かすと、丘の下から見えていた大きな木と、側に、半分に割れた石柱のようなものが突き立っているのが見えた。その木の上に、赤い色鮮やかなものが波打っている。

 (髪の毛…?)

よく見るとそれは、昨日広場で見かけた少女の姿だった。木に引っかかっているのかと思ったが、そうではなかった。

 浮いている。

 顔色は真っ白で、目は閉じられ、手足は力なくだらんと垂れ下がっている。闇色をした帯は少女の手元からゆらめき、立ち上っている。その指には、例の指輪が嵌められたままになっていた。

 すぐ後ろで、呻くような声がした。

 「待ってろ、と…言っただろう」

振り返ると、厩舎の壁際でヴィクターが、脇腹を押さえながら立ち上がろうとしているところだった。足元には短銃が落ちている。教会が護身用として職員に配っているもので、殺傷能力の低い、威嚇用の武器だ。

 「大丈夫ですか?」

 「大丈夫に見えんのか」

こんな状況でも、男はいつもの不機嫌な口調のままだ。

 「チッ。やるしかねぇか…おい、目ェ塞いでろ。見るんじゃねぇぞ、いいな」

男は片手でロビンを押しやると、胸元から鎖を引っ張り出した。その先には、聖職者なら必ず身につけている聖十字架がぶら下がっていた。

 彼はそれをしっかりと握りしめ、ロビンにも馴染みのある聖句を唱え始めた。

 「光の国プレロマーにおわす父たるものアルパトールよ、母なる叡智ソフィアよ、汝の子らに恵みあれ。我、肉に宿りし者は”兄弟”たる聖霊アイオーンに願う…」

信徒なら誰でも、日々のお祈りでこれと同じ言葉を口にする。ただ、厄介な用語だらけの呪文のような文句を、これほど堂々と、慣れた口調で唱えることが出来るのは、意味を隅々まで叩き込まれ、日々の聖務の中で何千回となく唱えてきた聖職者ならではだ。

 (この状況で、お祈りなんて…)

だが、それはただの”お祈り”ではなさそうだった。


 言葉が進むとともに空気が震え、目の前で大木に絡みつくように広がっている闇色の帯が震え始めた。そして、意識のない少女の細い体を飲み込むようにして、何かの形を取り始めた。

 吐き気のするような違和感。ここに在るべきではない異質な存在。

 何か、”人ならざる者”が迫ってくるのを、ロビンははっきりと感じた。今からではもう、逃げるには遅すぎる。”それ”は今、すぐ近くにまで来ていた。

 (――まずい)

木に絡みつくようにして、暗い色をした影が立ち上がる。人とはかけ離れた姿をした不気味な異形の姿で、もはやロビンの目を通さずとも、誰にでもはっきりと分かるほどの実体を保っていた。


 飲み込まれる。

 そう思った、次の瞬間だった。


 長い赤毛を振り乱した少女が獣のように叫ぶのとほぼ同時に、傍らのヴィクターが聖句を唱え終わった。

 「来たれ、『裁き』の聖霊、”アドナイオス”!」

その瞬間、大木の上空に、目も開けていられないほどの眩いばかりの輝きの塊が広がる。

 真っ白な翼を持つ何かが、そこにいた。それは音もなく、槍のような閃光を放ち、逃げようとしていた影を真上から貫いた。

 「―――!!!!」

言葉にならない、高周波の咆哮のようなものが響き渡る。

 衝撃波が沸き起こり、背後で窓が連続して割れるような音が響く。ロビンも吹き飛ばされそうになったが、すんでのところでヴィクターの腕に捕まえられて厩舎の壁に叩きつけられずに済んだ。その男だけは、じっと天を睨んだまま、衝撃に耐えてその場に立ったままでいる。


 ほとんど一瞬の出来事だった。

 光は静かに消えてゆき、辺りに蠢いていた闇色の帯はいつの間にか跡形もなく消えていた。


 そして、大木の上に浮かんでいた赤毛の少女の体は、魔法が解けたかのように、すとんと下の草むらへ落ちてきた。

 「あ」

慌てて、ロビンはその少女に駆け寄った。

 「生きてるか?」

少女の首筋に手をやると、微かな鼓動が伝わってきた。薄着で外にいたためか体は冷え切っているものの、心臓はまだ、動いている。

 振り返って、ロビンは頷いた。

 「生きてます」

 「…そう、か」

安心したのか、それを聞くなり、男は地面にがくりと膝をついた。

 「え?!」

よく見ると、ヴィクターは脇腹を押さえているのだった。額には、脂汗が浮かんでいる。

 「怪我したんですか?! えと、どうしよう。これじゃ戻れない…この子も、どうすれば…」

 「…だ、大丈夫だ。こんだけ派手にやったんだ、すぐに誰か、気づく…。」

男の言葉どおり、どこか遠くから、サイレンの音のようなものが響いていた。街のほうから、何台かの車が降ったばかりの雪の粉を舞い散らしながら丘の下を目指して猛スピードで走ってくる。一台は、救急車だ。そして後ろからは、車体に聖十字の模様が描かれた、教会関係らしき車も。


 静寂の落ちた丘に、脇腹を押さえてうずくまる男と、気を失った少女と、困惑した少年が一人。

 小粒の雪は、音もなくゆっくりと降り続けている。

 少女の指に嵌められていた三つ目の指輪からは、いつの間にか悪魔の気配は消え、ロビンの見ている前で、パキッと小さな音を立て割れて地面に滑り落ちた。宿っていた『悪魔』の力が消えてしまったからなのか。

 (あれが…本物の『悪魔』?)

傍らの、今はもう何の変哲もなくなった木を見上げる。

 悪魔。そう、たぶんこの少女に憑いていたあれが、そうなのだ。

 美しいとも何とも感じない、ただ醜悪なだけの不快な存在。幼い頃に見たものとは、全然違う。


 でも――、

 だとしたら、あの時見たものは、一体、何と呼ぶべきものだったのだろう?

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