果てなる島より、祈りを込めて
獅子堂まあと
序章 はじまりの記憶
覚えている限り最初の記憶は、どこかの洞窟の中だった。
低い天井と、焚きしめられた声の香りの漂う広々とした薄暗い空間に、呪文とも詩ともつかない歌声が朗々と響き、男女の踊り手たちの影が踊っている。
輪の真ん中には大きな焚き火。影が飛び跳ねるようにして天井から垂れ下がる尖った鍾乳石の先をかすめる。花や果物、それらはおそらく供物として並べられ、他になにか料理などもあったかもしれない。周囲には三歳くらいまでのごく幼い子供たちが集められ、着飾って、お菓子を与えられ、大人たちの歌や踊りを眺めていた。
不思議な光景だった。しかし、怖かったとか、楽しかったとか、そういったものの一切は記憶されていない。おそらく幼すぎて、目の前で起こっている事柄のほとんどは理解出来なかったのだろう。
やがて、「それ」が出現するとともに、記憶は、唐突に途切れた。
次に記憶が再開されるのは全く別の、今住んでいるこの街のどこかで、目の前には、優しい笑顔を浮かべた男の顔があった。
「目を覚ましたね。君のお名前は」
「……。」
知らない場所、周囲を取り囲んでいる、白と黒の服の知らない大人たち。白い服の人物は医師で、目の前で話しかけていたマークス司祭――当時はまだ、ただの神父だったが――を含む黒衣の人々は教会の関係者なのだと、あとで知った。
「名前と年齢は? 何があったのか、覚えているかい?」
「……。」
答えようと口を開きかけて、答えるべき言葉が何も頭の中に浮かんでこないことに気がついた。
ふるふると首を振ると、司祭は困ったような顔で後ろの白衣の男を振り返る。
「見た所、まだ二歳か三歳でしょう。怪我はありませんが、恐怖で覚えていないのかもしれない」
「自分の名前くらいは、思い出すでしょうか」
「今は緊張しているでしょうから、少し落ち着いてくれば、話してくれるかも知れません」
「…そうですね」
大きな手が、ゆっくりと少年の頭を撫でた。
「では、君のことは、
「お待ちを」
後ろで見ていた黒衣の男が、ぼそぼそと何かを囁く。
奇妙なことだが、その時の会話の内容は、はっきりと覚えているのだ。――まだ二歳かそこらの子供だったのに、それ以前の記憶は何も残っていないのに。
「状況が状況です。念のため、”異端”による汚染の検査はして下さい」
「まだ子供ですよ。何を疑うことがあるのでしょう」
「思想のほうではありません。問題は発見された状況のほうです。状況から見て、この子は何らかの儀式に巻きこれていた。」
「……。」
小さなため息。
「わかりました。では、ロビン。少しだけお付き合い下さいね。終わったら、お菓子をあげますよ」
抱き上げられた時、司祭の服からは、微かな乳香の香りがした。それと、蜜蝋の燃えた匂い。どこか懐かしいような――記憶にある匂い。
連れてゆかれた場所は小さな礼拝堂で、そこには、水の讃えられた聖水盤と、小さな祭壇があった。
「そのお水をすくって、飲んでみてください。美味しいですよ」
言われるままに手をつけて、一口すすってみる。柑橘系で香りをつけられた水は、かすかにほろ甘い。顔を上げると、目の前に十字に形作られた銀の護符があった。
きょとん、としていると、それが額に押し当てられる。ひんやりとした感触。
「聖水にも、聖十字反応しないな」
後ろで小さな話し声がする。
「『悪魔』に憑かれていれば拒否反応があるはずだ。何も無い」
「……良かった。」
マークスがほっと息をつき、笑顔で、祭壇に備えられていた菓子をひとつ取り上げた。
「はい、これが約束のお菓子です。砂糖菓子なので甘いですよ。ゆっくり食べていいですからね」
「うん」
水盤の側の椅子に腰掛けて、与えられたお菓子を頬張る子供を前に、大人たちはひそひそと会話を続けている。
「”悪魔憑き”ではないのですから、もう、連れて帰っても良いでしょう」
「そうですね――」
会話を流し聞きしながら、その時、自分が何を考えていたのかは少しだけ覚えている。祭壇に飾られている、慈愛に満ちた表情で両手を広げた女神の像が、妙に仰々しくて、人形めいているなということだった。
与えられた聖餅の味も覚えていないくせに、女神像の作り笑いのような笑みが気に食わなかったことだけは覚えている。
マークスが戻ってくる。
「お菓子はどうでしたか? さあ、では行きましょうか。」
手を取られ、女神から視線が逸れた、その瞬間。
運命のいたずらか。
それとも、女神像の意趣返しか。
窓の外に、両手を拘束され、左右から引き立てられるようにして建物のほうに引きずられていく人物が見えたのだった。
はっきりとは聞こえなかったが、何か喚いていたように思う。そこは異端審問所で、容疑者が連行されているところだったのだとは、あとで理解した事柄の一つだ。
引きずられていく男の背中に、奇妙なものが見えた――それは、その時に初めて見たものだった、と思う。
思わず窓辺に駆け寄って、よく視ようと目を凝らした。
「あっ、ロビン?」
「黒い、もやもや」
「えっ?」
どうして、そんなことを口走ったのか、今となっては分からない。
ただ、その一言が、その後の運命を決めた。
幼い日の自分は――、喚きながら引きずられていく男を指さして、マークスに告げたのだ。
「あのおじさん。右側のポケット、黒いもやもや、出てるよ」
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