Ⅰ章―第1話 聖都と異端審問官(1)


 歴史を帯びた灰色の古い街並み、どこか忙しげな昼下がりの雑踏。

 頬に触れる空気は冷たく、人々は襟を立てて急ぎ足に通り過ぎてゆく。冬の市が立つ日までは、あと十日ほどだ。


 一年の半分近くを曇天に覆われる、この辺鄙な西の海の果ての孤島が活気にあふれる数少ない時節――年に一度の冬至祭。

 ここ、聖都ハイクレアでは、冬は巡礼の季節でもあった。

 冬至は、人間に知恵を与え導いた知恵の女神ソフィアが、役目を終えて地上を去ったとされる「召天の日」。一年で最も夜が長く、光の失われる季節だ。この日には、聖都で盛大な祭りが執り行われることになっている。


 そんな通りの様子を、石造りの陸橋の上から睥睨へいげいする、一種異様な集団がいた。

 背の高い人物が数人、真ん中に挟まれるようにして小柄な人物が一人。それぞれ揃いの、くすんだ灰色のローブを身に纏い、人相も分からぬよう白い仮面で顔全体を覆っている。ただ、襟元に見える聖職者の襟詰め服と、手袋にうっすらと刺繍された印から、ソフィア正教教会の聖職者たちだということは辛うじて分かる。

 いかにも怪しい集団にも関わらず、誰も誰何すいかせず、それどころか視線をくれる者もほとんどいない。皆、その小集団を避けるようにして、居ないものとして扱っている。


 ”異端審問官”。

 それは、この聖都を「聖なるもの」たらしめている機構の一つだった。


 西の海の果てにある、このテューレ島は、女神ソフィア――天におわす創造主が、無知で獣同然の哀れな人間たちに知恵を与え救うために遣わした「知恵」の女神にして、聖霊たちの母なる存在――が降臨した場所として知られている。人間に知恵を与え、天への崇敬という概念と祈ることを教えた聖なる島にして、ソフィア正教の起源の地なのだ。

 にもかかわらずここは、今や”異端”のはびこる土地とされている。


 ここは、あまりにも辺鄙過ぎたのだ。

 島の周囲の海は荒れやすく、島から出て大陸へ流れ着くことは出来ても、逆向きの航路で島に入るのは難しい。布教のために島を出ていった人々は大陸に教えを広めたが、大陸からは、整備され変化していく教えが還元されることは無く、大陸の神学論争も、六次に及ぶ公会議とも無縁のまま、――つまりは大陸で成熟したソフィア正教の教義を、全く知らないままに時を過ごしていたのだ。


 曖昧な海図と噂話だけで知られるだけだったこの島に、マルクト王国の勢力が到達したのは二百年ほど前のこと。

 大陸との接触によって初めて、島の信仰がことが発覚した。

 ソフィア正教を国教とし、その伝導とともに聖戦を掲げて周辺国を従えてきた歴史を持つ王国にとって、女神降臨の聖地が「異端」に汚染されているというのは、許しがたい事実だった。


 だが、島に「正しい」教えを布教することは困難を極めた。何しろ島の人々は、自分たちの教えこそ本来のものだと認識していたのだから。


 王国の支配下に入ってから二百年が経過した今でも、島の住民は、教会の教義にそぐわない伝統的な祭り事をしたり、異端の護符を隠し持っていたりする物が多い。

 それだけならばまだ良いが、教会が『悪魔』と名付けた、女神でも聖霊でもない”異端の”存在まで崇めているというのが大問題だった。

 島民が信仰する、その存在――『悪魔』を、なんとしても聖地から遠ざけねばならない。


 かくて異端審問官という、やや強権的な職位の人々が送り込まれることとなった。彼らの仕事は、聖都に入り込もうとする「異端」の匂いを、『悪魔』の気配を排除すること。

 そして、島の信仰を、王国の考える”正しい”状態に修正することにあった。




 通りを眺めていた真ん中の小柄な人物が、おもむろに顔を上げた。

 「いたか?」

隣に立つ背の高い人物の仮面の下から、くぐもった男の声が漏れる。

 その人物は小さく頷いて、すっと指を上げて通りの一角を指した。商店街の入り口に、女子学生たちが集まっておしゃべりに打ち興じている。そちらを見つめながら小柄な人物は、ぼそぼそと何かを囁く。

 途端に、周囲にいた仮面の人物たちが動き出した。互いに目配せしあうと、音もなく、さあっと四方に散ってゆく。

 「他には」

問われて、指さした人物は首を振る。

 隣の背の高い人物は、ちらと通り向かいの大時計を見やった。

 「――時間か。今日は、これまでだな」

軽く舌打ちして隣にいたもう一人と頷き合うと、背の高い人物は、小柄な人物の肩に手をやって、真ん中に挟むようにして歩き出す。

 何も知らなければ、よほどの重要人物が手厚く警護されているのかと見えるだろう。

 だが、実際には、この中でいたばん立場が弱いのは、真ん中の人物なのだった。


 通りを曲がり、大通りから裏路地へ入ったところで、背の高い人物は、小柄な人物の胸ぐらを掴んで、ぐいと乱暴に引き寄せた。

 「おい、こま鳥ロビン。手ぇ抜いて時間稼ぎしやがったな。俺の目はごまかせんぞ。あの女子学生ども、もう三十分のも前から同じ場所で駄弁ってた。もっと早く気づいてただろう?」

 「……。」

仮面の下の表情は見えないが、つま先立ちでほとんど釣り上げられるような格好のまま、小柄な人物は何も言わない。もう一人の付き添いの人物が向かいで手を振りながら慌てている。

 「ちょっと、ちょっと。ヴィクターさん。誰かに見られたらどうするんです」

 「チッ」

背の高い男は舌打ちして手を離すと、小突くようにして乱暴に小柄な人物を立たせた。そして、再び二人で挟むようにして歩き出す。

 人目のある大通りとは打って変わった、明らかにぴりぴりした雰囲気が、三人の間に漂っていた。

 理由は、分かっていた。というより、毎回、本人が愚痴のように零す。今日も、お決まりのその言い訳が漏れ聞こえて来た。

 「ガキは嫌いなんだよ…」

ヴィクターと呼ばれた男は、隣でぶつぶつ言っている。

 (…そんなこと言われても。てか、僕もうすぐ十六なんで法的には大人に入るはずなんだけどな…)

狭い裏通りを歩きながら、少年は心の中で呟く。

 この国では、未成年者の就労は十二歳から。つまり、この仕事を手伝うようになってから、もう四年も経つことになる。この、ヴィクターなる男と組まされるようになったのは半年ほど前からだが、それ以前にも何人もの異端審問官の手伝いをしてきたのだから、実際の年齢よりは仕事にも慣れている。


 ロビンがこの仕事の”助手”として抜擢されたのは、異端の痕跡を力があるからだった。通常ならそうとは分からない、「悪魔」の気配や残り香のようなものまで視覚で辿ることが出来るという特殊な能力だ。多分、幼い日に体験したあの不思議な儀式のせいなのだろう。

 あの儀式――洞窟の中で行われていた、思い出せる記憶の中で一番古い光景は、悪魔崇拝者の儀式らしいと後で聞いた。詳しいことは教えてもらえなかったが、子供たちが集められていたところからして、『悪魔』に生贄を捧げていたのかもしれないと言われた。

 儀式が完遂していれば、もしかしたら自分は『悪魔』に乗っ取られでもしていたのかもしれない。けれど、その儀式はおしまいまで行われなかった。教会の、異端審問官たちがその儀式の情報を突き止めて、現場に乗り込んでいったからだ。

 知っているのは、自分ただ一人だけが生きて救出された、ということだけ。


 あとは、朧げな記憶にある通りだ。

 マークス司祭と出会い、養護院へ入ることになった。悪魔や異端の痕跡を見る力はあっても、悪魔に取り憑かれているわけではない。悪魔との接触によってその能力の一部を刷り込まれてしまったらしい、ごく普通の人間だ。

 聖都に数多くいる聖職者たちの中でも『悪魔』の気配を察知できる者は数少ない。たとえ元が敵側の力だとしても、その能力を利用しない手はない。

 かくてロビンは、奇妙な立場で教会組織の中に留め置かれ、定期的に異端審問官の助手を務めさせられる身となった。

 もっともそれは、悪魔崇拝者に拉致された恨みとか、教義に目覚めた道義心からでも無い。強いて言うなら、父親代わりともいうべきマークス司祭が困っていそうだったからで、何か少しくらい恩返しがしたい、という理由からだった。




 大通りからしばらく歩いたところで、行く手に、高い石壁に囲まれた一角が見えてきた。

 旧市街の真ん中にある、この街で最も古い教会。”七つ門”教会の敷地だ。ロビンのいる養護院は、その中に併設されている。

 ここまで来れば、気の合わない男に毒づかれる憂鬱な時間はもうすぐ終わりだ。

 裏門をくぐったちょうどその時、頭上で、時を告げる鐘楼の鐘が鳴り出した。午後四時、冬時間では仕事じまいの合図だ。その時を待っていたとばかり、少年は敷地の奥へ向かって走り出した。

 「先行ってますね」

 「あっ、こら」

監視役の二人は慌てた。一人が追いかけようとするのを、背の高いほうが片腕でとどめ、もう片方の手で仮面を剥ぎ取りながら低く呟いた。

 「勝手に動くなっつってんのに、あの野郎…。」

被っていたマントを引き剥がした下から現れたのは、がっしりとした体格の、いかめしい顔つきをした中年男性だ。聖職者の格好はしているが、口元にたくわえた黒い髭がいかにも恐ろしそうに見える。

 「セツ、お前は先に戻ってろ」

仮面とマントを相棒に押し付けて、行け、というようにあごをしゃくって見せると、男は、鐘楼塔の脇を一目散に駆けてゆく少年のあとを追った。

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