Ⅱ章―第25話 終焉の時

 石柱の前に立った時、ぞくりとする感覚を覚えた。

 今までに見た、ただ不気味なだけの異形の姿とは違う。そこに浮かんでいるのは、黒い靄を纏い、崩れかけた体を持つ人間の姿だった。

 『救済』の聖霊の記憶の断片の中で見た素朴な若者の姿が、一瞬だけ重なって見えた。けれど、目の前にいる”それ”はもはや、生前の姿を留めてはいない。

 今までに何度も感じてきた『悪魔』の気配が、色濃く固まっているのが分かる。これが本体なのは間違いない。ロビンは、手の中にある光を何とか形にしようと振りかざした。

 と、その手が黒い靄にするりと絡め取られる。

 『無駄だ』

 「…!」

体が、動かない。目の前に、朧気な顔が浮かび上がる。

 『お前も、燃やされる側だ。記憶を見たんだろう? 俺が燃やされるところを見てたんだろう? ――なあ。生きながら燃やされるのがどんな気分か、教えてやろうか…?』

途端に、周囲が炎に包まれた。 

 「あっ、うっ…!」

激しい痛み、呼吸も出来ないほどの熱が押し寄せてくる。普通なら、正気を保つことさえ難しいような責め苦だった。眼球から水分が蒸発し、崩れてゆく視界の中で、取り囲む人々が嗤っている。 

 「いいぞ、燃えろ! 不信心者め、燃えてしまえ!」

 「偽物の使徒様、救いを呼んでみろよ。ほら! 聖霊を呼んで助けを乞え!」

それは、火刑に架けられた若者に対する心ないあざけりの声なのだった。

 囃し立てる有象無象の観衆の声の中で、意識が薄れてゆく。天は、どれほど祈っても答えてはくれない。救いは――奇跡は、齎されることが無い。

 深い絶望が流れ込んでくる。

 「何故、…だ。嘘なんてついていないのに。『救済』の聖霊は…確かに存在したのに。女神様は…」

体が崩れ落ちてゆく感覚。全てが失われ、残酷な炎の中で肉体と魂の繋がりは絶たれる。


 押し寄せてくる暗闇の中で、ロビンは理解した。

 これは、マリク・アプリースの憎しみの炎だ。二百年の間、消えない炎の中で彼は、繰り返し、繰り返し、絶望と憎しみを燃やし続けて来たのだ。

 それでも、魂は肉体を離れることを拒んだ。だからこそ、ここにいる。

 炎に包まれた幻の中で、ロビンは、別の風景を見ていた。


 火が消えた夜になり、事の顛末を見届けるために島からやって来ていた仲間たちが人目を盗んで火刑台に上がり、黒焦げになった遺体を回収する。役人や船員になけなしの金で賄賂を払い、彼らは失意のまま密かに島へと帰還する。

 ――憂鬱な、長い旅路。

 やがて、彼らはこの丘に、密かに遺体を運び込んで埋葬した。周囲には、おそらく当時の十二氏族クランの代表者たちと思われる人々が集まっている。

 「法皇は、訴えを聞いてはくれんかったか…。」

静かに呟く老人。

 「まさか、見世物にして殺すために聖霊様の代弁者を呼び寄せるとは。…教会の連中め、どこまでも卑怯なことを」

怒りに燃えて地面に拳を叩きつける男。

 「報復だ! 今直ぐ、報復を。わしらを騙した教会の連中をブチ殺せ!」

 「おお、そうだ!」

 「不信心者どもに思い知らせてやる!」

 「いや…。」

渋い顔をして、一人の男が首を振る。

 「我が氏族クランは、ここまでだ」

 沸き立っていた男たちが、ぴたりと動きを止めた。

 「正気か、レクストール? ここまでコケにされておいて、何もしないというのか」

 「お前たちのやり方では、血が流れすぎる。そもそも、『救済』の聖霊に復讐を願うというやり方が受けいられない。我が祖”マナンの娘ソフィア”は、子を育み、家族を愛することを重視する方だった。子らが死地に赴くことは、許容できない」

 「ふん、腰抜けめ。我がハリーア氏族クランは、祖なる偉大な戦士、ヤールの娘ソフィアに誓って、この代償は血で贖わせるぞ」

 「我がガルド氏族クランもだ。マリク・アプリースは我が血族だったのだから。おい、ルーニー。貴様はどうだ」

 「…救える命は救うのが、我が一族の信条だ。なるべく、死人が出ないように努めはする。だが、自ら死地に赴く者たち全ての面倒は見きれない」

 「おい。何だ、その弱腰は」

 「度が過ぎるなら手を引くという意味だ。」

 「ちっ…どいつも、こいつも」

白い髭を垂らした老人が、苛立ったように呟く。

 「こんな時に仲間割れか。島の未来がかかっているというのに」

 「そんなものだ。人の意思など、たやすく一つにはまとまらないよ。」

比較的若い男が諦めたように呟いて、立ち上がる。それにつられて、何人かが立ち上がり、焚き火の側を離れてゆく。

 「構わん、腰抜けどもなど、居た所で邪魔になる。」

怒りに髭を震わせた男は、追い詰められた獣のようなぎらついた目で、残った人々を見回した。

 「聖霊様が現れた時、教会の犬どもがどんな風に蹴散らされたかを見ていたか? なあ。」

 「おうよ。あれは凄まじい力だった。一昼夜で消えてしまわれたが」

 「それに、七つ門教会の、あの忌々しい『守護』の聖霊の力を破れなかったな」

 「もっと力が必要なのだ。力を与えるには、どうすればいい?」

 「――マリクが焼かれた時の状況を再現すればいいのではないか。そうだ、同じことをすればいい」

 「まさか。人を燃やせと?」

 「聖なる捧げ物だ。命を賭した祈りほど強いものはないということだ」

 「だが、一体誰を? 同じような人間など居ない」

 「マリクの妹がいるだろう。兄と一緒に聖霊様の声を聞いたと言っていた。あれも聖霊様の代弁者と成りうる」

 「では――」

視界が切り替わり、囚われた、怯えた表情の少女の姿が写った。赤毛で、どこか見覚えのある顔立ちをした少女。似ているのはアリステアだ、とすぐに気がついた。

 そう、確かに、アリステアの父はガルド氏族クランの出身だと聞いていた。マリク・アプリースがガルド氏族クランの出身なら、遠い親戚で、どこかで血が繋がっていても不思議はない。彼女が『悪魔』に憑かれた時、ここに引き寄せられたのは、『悪魔』となった男の生前の記憶がそうさせたのかもしれなかった。

 その少女が、火に焚べられてゆく。大人たちは歌い踊りながら、歓喜の声とともに、怒れる『悪魔』の降臨を讃えていた。


 立ち止まること無く、人々は暗がりの方へ向かって歩き出す。最初は抵抗を覚えたとしても、一度人を燃やしてしまえば、二度目からは罪悪感が鈍ってゆく。ましてや、最初に想定以上の成功を収めたとなれば。

 そうして、”アプラサクス”という名は、怒りに満ちた新たな存在のものとなった。

 元となった聖霊はもちろん、取り込まれた青年にとっても望まぬ形で。




 「――そうか。あなたは…」

記憶を見た時、ようやく、ロビンは理解した。

 『悪魔』がなぜ、人を救おうとすると同時に奪ってもいたのか。

 自分だけではなく、最も近しい存在だった妹まで、捧げ物とされた。自分の死後、かつての仲間たちが仲間割れして離散してゆくのさえ見ていた。そして、島での異端審問が強化されるのも。

 全ては無駄だった。生きていた間にやったことも、死でさえも。

 そして、どれほど祈ろうと、”天の父”も他の聖霊たちも助けてはくれず、奇跡は起きなかった。

 その絶望と怒りが、『悪魔』の力の源だったのだ。だからこそ、自分だけではなく、他の人間からも奪わずには居られなかった。

 「あなたは、この世界の全てに対して怒っているんですね。…島の人たちに対しても。だから、島の人たちまで傷つけるようなことをした。僕たち全部を滅ぼしたいんだ」

目の前で、黒い顔が歪められる。

 『そうだ。滅びてしまえばいい』

その顔は、『救済』の聖霊の記憶の中で見た悪魔と同じ言葉を口にした。

 『全て消えさればいい。俺と同じ苦しみを味わって、皆、死ねばいい』

 「分かりました」

一度目を閉じて、再び開いた時、ロビンの表情には、決意を固めた色が浮かんでいた。

 「今のあなたは、『救済』の聖霊の意思とは別のものだ。なら、僕も心置きなく、本物のアプラサクスを解放できる。」

手の中で、迷っていた形が定まった。

 聖廟の仕事の中で握り慣れた道具――草刈り鎌だ。

 『異端者であるお前は、いずれ俺と同じ場所に引き立てられ、燃やされる。誰もお前を救ってはくれない』

再び火刑の記憶が流れ込んでくるが、ロビンは動じない。

 死も、いつか自分が異端審問に掛けられるのではという疑惑も、畏れを知らない彼には何でもなかったからだ。


 そうなるのなら、そういうものでしかない。


 『祈りなど無駄だ。天は応えない。聖霊は助けをもたらさない』

 「それでいいんだ。誰かが助けてくれるのを待つんじゃない。自分を救えるのは自分自身だ。祈れば願いを叶えてくれる便利な存在なんて必要ない。」

揺るぎない言葉とともに、彼は長い柄を持つ鎌を振り上げる。強い意志は、まとわりつく黒い靄を振り払う。

 「僕もあなたも、ただの人間だ。生きることにも死ぬことにも、特別な意味なんて無い。たとえこの先、僕があなたと同じ場所に立つことになったとしても」

 『諦めて、全て受け入れるというのか。お前は――』

 「受け入れることは諦めとは違うよ。最後まで抗う。救いは、いつだって

鎌が振り下ろされ、黒い靄が切り裂かれた。

 『…ああ』

ため息のような声を漏らして、それは四散しながら天を振り仰いでいた。

 『これで…ようやく…終われる…』

丘の上にわだかまっていた気配が、ゆっくりと薄れてゆく。

 ロビンは、手の中に大きな草刈り鎌を握りしめたまま、じっとそれを見送っていた。

 解放された魂はこの世界をめぐり、――きっと、またどこかへ生まれてくる。




 振り下ろされた鎌の下で、異形の巨体は真っ二つにされていた。

 腕も足も、完全に動きを停めた。黒い靄が解けるように四散して、ぼろぼろと姿が崩れ落ちてゆく。そして周囲では、狂ったように騒いでいた人々が、繰り糸の切れた人形のように次々と地面に倒れてゆく。

 限界を向かえたマークスが地面に膝を付き、倒れかかったところをエマが支える。

 「…終わりましたか?」

 「たぶん」

物音が止み、瘴気の気配が薄れ初めたのに気がついて、礼拝所から司教キュリロスと聖職者たちが姿を現した。そして、ふと光にひ付いて空を見上げ、思わず息を呑む。

 「これは…!」

上空を覆っていた分厚い黒雲が薄れ、切れ目の入った部分から明け方の白い空が見え始めている。その切れ目はまるで、闇空に開いた窓のようで、全部で七つが街を中心に上空に並んで見えていた。

 「”七つ門”だ」

誰かが呟いた。

 「奇跡が起きた…」

 「言い伝えのとおりだ。天だ、天が見ておられるぞ…」

窓がゆっくりと広がって一つになってゆくと同時に、雲は消えた。悪魔の姿も、気配も。

 残っているのは、大きな草刈り鎌を手にした一つの異形だけだ。けれどそれも、長くは留まっていなかった。朝日の射す方向に顔を向けたあとで、溶けるようにして消えた。

 誰も言葉を発しなかった。押し寄せる感情を適切に言い表す言葉が思い浮かばないのだ。

 沈黙の中、静かに夜が明けていく。




 無我夢中で握りしめていた草刈り鎌が手の中から消えるのと同時に、ロビンは、地面の上に座り込んだ。

 体に重くまとわりついていた気配はもう、どこにもない。頭上では雲が切れて、明け方の白い空が広がってゆく。

 「…終わった、のかな」

目の前に、ちらちらと微かな光が通り過ぎてゆく。『救済』の聖霊の祭壇で見たものと同じだ。

 (取り込まれてた聖霊…解放されたんだ。…良かった)

明るい空の下、ふと手元に目をやると、折れた石の柱の根本に何かが見えていることに気がついた。

 重たい体を引きずって、苦労してそこに近づいてみると、落ちているのは焼け焦げて真っ黒に歪んだ聖十字だった。けれどそれも、拾い上げたロビンの手の中で炭のかけらとなって崩れ落ちていく。

 丘の下の方から、ヴィクターの声が近づいてくる。

 「おーい、ロビン。生きてるかー?」

 「あ、はい」

 「おお。居たか」

上がって来たヴィクターの姿を見て、ロビンは思わずぎょっとした。顔は真っ赤に腫れ上がり、シャツはあちこち破れて、血まみれだ。

 「ちょ、…どうしたんですか、それ?! 大丈夫なんですか」

 「見てわかんだろうが、大丈夫じゃねぇ。死ぬかと思ったぞ」

言うなり、ロビンの隣にどさっと腰を下ろす。

 「…流石に疲れた。助けが来るまでここで待つ」

 「そうしたほうが、よさそうですね。」

ロビンのほうにも、もう、街まで歩いて戻る体力は残されていなかった。

 聖都のほうは今ごろ、どうなっているだろう。悪魔の本体は倒したが、残りの部分も全部消えたのだろうか。皆、無事でいるだろうか。

 今直ぐにも知りたいことはたくさんあったが、気力も体力も限界で、体が動かない。木にもたれかかったまま、ロビンは、空を見上げた。

 さっきまで空を覆っていた雲は薄れかけ、まるで窓のように切れ目から空の見えていた場所は、一つに繋がっていた。

 意識を失う直前に見たものは、その下、聖都の上空に七つの輝きが浮かんでいるところ。そして今、八つ目と、少し小さな九つ目の輝きがそこに加わろうとしていた。




 夢の中で、いつかと同じフロウライトの花の咲く花畑を見た気がする。

 光の中できらめく花弁。その中に座っている金の髪をした女性。

 振り返って、彼女は優しくほほえみながら手を伸ばし、ロビンの頭をそっと撫でてくれる。

 ――そんな、夢だった。

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