Ⅲ章―第1話 奇跡と現実のはざま(1)

 長い夢を、見ていたような気がする。

 目を覚ました時、ロビンは、自分の居る場所がどこなのか分からなかった。薄暗い空間。見覚えの無い天井。ふかふかした枕と布団。

 日々の寝床にしている、管理人小屋の粗末な寝台ではないことは、すぐに分かった。

 起き上がると同時に腹が鳴る。窓に近づいてカーテンを開くと、明け始めの光とともに、明るい空の色が目に入った。時間は早朝――ということは、丸一日くらい眠っていたのだろうか。

 (多分、教会本部の中のどこかだ)

外に見えている建物と、中庭を行き交う聖職者の服装をした人々の雰囲気から、そう判断した。

 疲れて眠ってしまったあとのことは覚えていないが、ヴィクターと一緒に回収されたのかもしれない。ふと見ると、寝台の側には真新しい上着とシャツが置かれている。

 ちょうど着替えが終わったところで、扉を叩く音がした。

 「どうぞ」

 「失礼します」

修道士の格好をした人物が数人、緊張した面持ちで入ってくる。

 「お目覚めでしたか。朝食のご用意をしております。よろしければ、主教様と一緒にお召し上がりいただきたいのですが」

 「いいんですか? ちょうど、おなかすいてて」

同意するように、腹が再び音を立てる。修道士たちは顔を見合わせ、なぜか、不思議そうな顔をしていた。

 「ご案内します」

妙にへりくだった口調だ。


 部屋を出ると、案内役の一人が先に立ち、後ろに二人がついてくる。まるで主教が外出する時に側近を引き連れているのと似た格好だ。案内など無くても場所を教えてくれれば一人で行けるのだが、と思いながら、ロビンは何も言わずに従った。異端審問官の仕事を手伝う時も監視が二人ついていたから、こういうのは慣れている。

 案内された先に、小さな中庭に面した食堂があった。質素だが年代物の家具が並び、静けさに包まれている。庭に面した席では主教キュリロスが、お茶を飲みながら待っていた。

 「おはようございます」

 「ああ、おはよう。――元気そうだね…体はどこも、異常ないかね?」

 「はい。大丈夫です」

主教が手を振って給仕に合図すると、温かいお茶がロビンの席にも供される。籠に盛られたパンに、果物。それとスープ。豪華なものはないが、空腹のロビンには有り難い限りだ。

 「若者には物足りんかもしれんが、遠慮なく食べなさい。ジャムもあるぞ」

スープに手を付けながら、ロビンは、食堂の中をそれとなく見回した。いつの間にか給仕たちは奥へ引っ込んで、部屋の中は主教と二人きりにされている。

 「ヴィクターさんは? 怪我をしていたはずなんですが」

 「病院で手当を受けて、もう仕事に復帰しているよ。なあに、彼は頑丈だからねえ。それより…自分の心配をしたらどうだね。本当に、何ともないのかね?」

 「ええ。」

言いながら、パンを口に放り込む。「美味しいです、これ」

 「…それは、何よりだ。」

食用旺盛なロビンを、キュリロスは、さっきの修道士立ちと同じように不思議そうに見つめている。

 「そういえば、『悪魔』に操られていた人たちは、どうなったんですか?」

 「怪我人は多数出ている。病院はどこも一杯だ。精神的な疲労で寝込んでいる者も少なくはない…この教会本部でも、動ける者は普段の三分の一くらいだろう」

 「そんなに…ですか。」

 「ま、しかし、その程度で済んだのだ。もしも『悪魔』の本体を叩いておらなんだら、今頃はこの島は『悪魔の島』になっておったかもしれんな」

街の様子は、郊外の丘を目指している最中に、街の北の門あたりで街に入ろうとする人々と押し留めようとする人々の揉み合いになっているのを見たくらい。街の中でどれほどの被害が出ているのかは分からなかった。

 聖廟や、七つ門教会はどうなっているのだろう。

 皆は――。


 僅かな沈黙のあと、老司教は切り出した。

 「、何があったのか、概ねの所はヴィクター君から聞いている。だが、肝心のところは本人でなければ分からないと言われた。郊外の牧場にある丘に向かった後、何があったのだね? 『悪魔』の本体がそこにある、という話だったが」

 「ええっと…。どこから説明すればいいか…。…ヤルダバオートに力を借りて、マリク・アプリースの怨念…『悪魔』になっていた魂を解放しました。たぶん、成功したと思います。『救済』の聖霊は、今はもう、『悪魔』として喚び出すことは出来ないはずです。」

 「ふむ。確かに、教会本部で保管されていた”媒介”は、あのあと全て力を失っていた。そこは心配いらん、お前さんの認識通りじゃろう」

 「良かった」

 「――その他には?」

 「他、ですか」

 「その後だ。聖都を襲っていた『悪魔』が消滅した後、街の上空に『七つ門』が現れたのを見ておらんのか」

 「……。」

ロビンは、お茶を一口飲んで首を傾げた。

 「雲が切れていくところは見てましたが…ああ、確か空に光が浮かんでいたような」

 「それだ!」

キュリロスは、珍しく声を荒らげた。

 「雲の切れ目に七つ門。そして浮かぶ光。聖霊の降臨された時の伝承の風景のままだった」

 「確かに、七つ門教会の天井画に似てましたね。見間違いか、夢かと思ってました…他の人にも見えてたんですか?」

 「そうだ。それで、街中が大騒ぎになったのだ。『奇跡が起きた』とな。ああ、今でも騒ぎは続いているのだが…」

ため息をつき、額に手をやる。

 「だが、”奇跡”の認定が出来るのは、一教区の司教であるわしではなく、法王庁なのだ。本来の手続上、法王庁の見解を仰いでからでなければ正式に回答を示すこともできん。それなのに七つ門教会の前にはずっと人だかりが出来ている。街の教会もどこも信徒で溢れて…。」

 「それは、…大変そうです」

 「法王庁の返答を待っている時間はない。お前さんなら分かるのではないか。あの時、一体何があった? あれは本当に、聖霊の再臨なのか? それを聞くために、目を覚ますまでの一週間、首を長くして待っておったのだが」

 「……え?」

ロビンの手が、ピタリと止まった。

 一週間?

 「……えっと、あれからもう、一週間も経っているんですか?」

 「そうだ。」

にわかには信じられなかった。だが、キュリロスが嘘をつく理由もない。

 どおりで、修道士たちもキュリロスも、不思議そうな顔をしているわけだ。一週間も寝込んでいたなら、普通はこんな風に元気に立って歩いたり出来ない。食事だって、普通に摂れなくなっていてもおかしくない。

 それなのに今、ロビンの体は、朝起きた時と同じように動いている。頭のほうも、一晩ぐっすり寝た後のようにすっきりしている。

 「あの……。」

ロビンは、おずおずと口を開いた。

 「何があったのかは、僕にも分かりません…。あとでヤルダバオートに聞いてはみますが、それって、教会としてはどうなんですか?」

 「どう、とは。」

 「『本当に起きたこと』は、『教義的に正しいこと』では、ない気がするんです。そもそも、教会の教えでは聖霊は七座しかいないことになってますし、空の光だけじゃなくて、他にも色々、説明がつかないことだらけじゃないんですか?」

 「……!」

キュリロスは、はっとして、何かに気づいたような顔になっていた。

 「判断するのが法王庁なのなら、”正しい”答えは、法王庁の返答を待つしかないんじゃないかな…」

 「そう、か。そうだったな。確かにそうだ。…いや、すまんな。そうだった。お前さんに体に異常が無いなら、それで良いのだ。」

キュリロスはそれきり口を閉ざし、ゆっくりと自分の分のお茶に口をつけた。窓の外の、どこか遠くを眺めるようにしながら。

 二人きりの部屋の中に、しん、とした沈黙が落ちる。


 キュリロスが再び口を開いたのは、それから、ずいぶん経ってからのことだった。

 「――『力』の聖霊は、確かに存在する。わしは、あの騒動のさなか、あの方に祈っておった」

 「えっ?」

 「他の、多くの者もそうだろう。自分たちを守ろうとしているものが何なのか、目の前で起きていることを理解出来んほど、わしらは阿呆ではない。教会が”異端”として排除してきたものを見直さねばならん時が来たのだ。でなければ、最早、この島の誰も、教会に敬意を払うことはないだろう。法王庁の見解を待つべきではない…確かにそうだ。わしは、この状況を法王庁に報告しなければなるまい。」

老司教の灰色の目が、じっと、目の前のロビンを見つめた。

 「だが、そうすればわしは、間違いなく法王庁に召喚を受けるだろう。島には枢機卿の使いも視察に来ていたはずだ。お前さんが関わっていることは、――報告書に書かなくとも、いずれ知られるだろう」

 「召喚って、異端審問所に呼ばれるんですか?」

 「わしは分からんが、お前さんのほうは、おそらくな」

ロビンは、『救済』の聖霊から受け取った記憶の断片の中にあった、百年以上前の異端審問の様子を思い出していた。裁判官のような異端審問官が前に居て、公開討論会のようなものをさせられていた。終始ヤジが飛んでくる、晒し者のような場面で、うまく質問に答えないと侮蔑的な言葉を投げつけられるのだ。

 「…火刑って、今もやってます?」

 「何?」

 「有罪になった場合は、何か刑があるんですよね?」

 「ああ――。」

キュリロスは、苦笑した。

 「さすがに今は、そんな野蛮な刑はやっておらんよ。流刑や刺客の剥奪、私財没収あたりが良くある判決だ。だが、わしは、法王庁に教義の変更を願うつもりでいる。教義として認められていないにも関わらず、七座の聖霊以外の存在が現れたのだ。それは”天の父”によって創られた『本物』か、『まがい物』か? もしも『本物』であるならば、我々が崇敬を抱くことは”天の父”の意に沿うものか?…つまりは教義の『正しさ』を決定し、必要があれば修正ないし加筆せねばならん。」

 「昔、”公会議”で決められていたような内容ですね」

 「うむ。だが、”公会議”が最後に行われたのは二百年も前のことで、開かれる場合は本土中の教区から主教を呼び集める必要がある。そこまで漕ぎ着けられるかどうかは、難しい問題だ」

深刻な顔をしているキュリロスとは裏腹に、ロビンは、手を止めずに食事を続けていた。

 キュリロスは、思わず苦笑する。

 「…何も、心配しとらんのだな。なんというか、お前さんは――。」

 「”正しい”と思うことが決まっていて、何をするべきか分かっているのなら、翔心配してもしょうがないかなって。」

微笑んで、少年は空になったスープ皿を見下ろした。

 「ところで、これ…おかわりって、貰えたりするんでしょうか」




 朝食の後、ロビンは付き添いを連れて七つ門教会へ戻った。一人で帰れるからと付き添いは断ったのだが、どうしても送っていかせるとキュリロスが言ったので、仕方なく受け入れた。

 だが、教会本部を出て直ぐに、キュリロスが心配していた理由を思い知った。広場にも、教会前の通りにも、人が溢れているのだ。

 「うわあ…。」

思わず声が漏れる。

 女神の再臨祭の時でさえこんなに捧げ物は無かったはずだ。花輪に蝋燭、様々なものが門の前いっぱいに積み上げられて、熱心にお祈りしている人たちがいる。

 「なんで、こんなことに?」

 「『悪魔』を退けてくれたことへの感謝と、二度とこんな災いが起きないためのお祈りです」

付き添いの一人が答える。

 「街に出回っている噂では、七つ門教会の地下に眠る”名を消された聖霊”は、『悪魔』の絶対的な対抗者なのだそうです。今までずっと、その聖霊をないがしろにしてきたせいで、悪魔が力をつけてしまったのだと信じているようです」

 「へえ…。」

面白い解釈だな、と、ロビンは他人事のように思った。それに大筋では間違っていない。

 (信仰とか神話って、こんな風に生まれるのか。…教会の公式見解として採用されるかは別として)

人混みの脇をすり抜けて、裏門から教会の敷地内に入る。


 まずは、養護院を覗きに行った。ジーナや子どもたちが心配だったからだ。

 「おやまあロビン!」

いつものように台所で料理をしていたジーナは、ロビンの姿を見るなり大げさに驚いて、駆け寄ってきた。

 「ただいま、ジーナさん」

 「怪我で入院したって聞いてたんだ。もう、体は大丈夫なのかい?」

なるほど、怪我ということにされていたのか。少なくとも、一週間行方不明だってことにはされていないらしい。

 「はい、なんとか。」

 「朝食は食べてきたのかい?」

 「今朝は沢山食べましたよ。これからマークス先生にも顔を見せてきます。皆は、大丈夫ですか?」

 「何人か寝込んでるけど、だいたいの子たちはもう元気になったよ。あたしも、数日は体がだるくって、酷い目にあったもんだよ。まったく。…だけど、皆無事で良かったよ。あとで昼食の時にまた顔を出しておくれね」

 「はい」

台所を出て、庭のほうも覗いてみたが、元気に遊んでいる子供は数人だ。庭に出ている他の子供たちも、日に当たりながらぼんやりしている子が多い。まだ、精神的な疲労が抜けきっていないのだろう。お陰で養護院は、普段より静かだ。

 聖堂のほうに向かってみると、瓦礫の山の真ん中に焼け焦げたような跡があり、立ち入り禁止のロープが張られている。しかも、ロビンが出かけた時より、さらに壊れている部分が増えている。

 「ここ、また襲われたんですか?」

 「ええ、悪魔崇拝者が焼身自殺を図ったと聞いています」

 「……。」

聖堂を回り込んで、居室棟に入る。

 二階の部屋を訪ねると、マークスは、寝台の端に腰掛けて聖典を広げていた。

 「ロビン。動けるようになったんですね」

 「はい。ご心配をおかけしました。先生は――」

 「情けないことに、私のほうはまだ、このざまです」

マークスは、力なく笑って自分の手元に視線を落とした。

 「かなりの時間、『守護』の聖霊を喚び出していたので。少しばかり無理をしてしまったようです」

 「エマさんは?」

 「ヴィクターの手伝いに戻ってもらいました。私のほうはもう、守ってもらう必要も無さそうですし」

 「エマさんも無事なんですね、良かった。」

 「…ロビン」

マークスは、ひどく思い詰めたような顔でこちらを見ていた。

 「主教様から聞いていると思いますが、――”あの日”の出来事は、これから法王庁で審議にかけられるはずです。あなたも、事情聴取だけでは済まされない可能性があります。」

 「はい」

ロビンは頷いた。

 「聖廟の地下に案内してもらった時、先生は、『かつて第一の聖霊と呼ばれたもの』は『今は聖霊とは認められていない』って仰いましたよね。今もそうですか」

 「…正直に言えば、迷っています。そして戸惑ってもいる。少なくとも、”あの日”起きたこと――空に”七つ門”と光が現れたことは、”天の父”の御業としか思えなかった。あれは、私のような取るに足りない者にとっては理解を越えています。」

 (やっぱり先生も、同じことを言う)

マークスの戸惑いの表情は、キュリロスと同じものに思えた。教義には無い、誰にも答えの与えられていない現象を前に、どう判断していいのか分からないのだ。


 『人というものは意外なほどに、他人が決めた価値観に振り回されるものなんだよ。』


かつてルキウスの言った言葉が、ふと、頭を過ぎった。

 彼にしてみれば、気を失う直前に見た、夢か現実かも分からない不思議な現象でしかなかった。奇跡とか、天の意思とか、そんなことは考えていなかった。

 けれど、他の人々は違うのだ。その現象に特別な意味があると感じ、その意味が答えとして与えられていないことを、もどかしく思っている。誰かが神話的な”正しい”解釈を与えてくれるのを待っている。

 (――確かに、空に浮かんでいた光は聖霊っぽかったなあ…。…もしかしたら、ヤルダバオートのかつての仲間たちが戻ってきてたのかもしれない)

かつて垣間見たヤルダバオートの遠い昔の記憶では、七座の聖霊たちは、この世界に信仰を植え付けたあと、次の世界で同じ仕事をするために去っていったようだった。残ったのは、女神ソフィアが最初に生み出した『力』の聖霊と、二番目に生み出した『救済』の聖霊だけだ。

 人間なら、久しぶりに旧知の誰かに会いたくなることはあるだろうが、聖霊にそんな感覚は多分、無い。

 もしも、あれが本当にかつての七座の聖霊だとすれば、何か必要があって戻ってきたのだ。――何のために?

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