Ⅱ章―第20話 明かされる真実(1)

 朝日が届いたのは、ちょうど、最後の山を越えようとしていた時だった。

 「おっ、見えたべ。あそこだ」

サウルが谷間を指す。「ほら。あのへんに洞窟がある」

 「うわあ…。」

岩の上からは、山と山の間に沈み込むように近くを澄んだ谷川が流れ、水車が回っている。

 ヤルダバオートの記憶の中で見た風景と、ほとんど変わっていない。急峻な山々の連なる土地。山あいに、斜面に張り付くようにして数十件の家が集まった村。そして、段々畑。変わっているのは、谷の両側を繋ぐ吊り橋が作られていることと、山の対岸のほうにも村が拡大していることだった。

 「この辺りは毎年、夏になると風土病が出てさあ。薬飲んでりゃめったに死なねえのに、教会の連中は怖がって夏は来ないんだべ」

サウルは陽気に笑う。

 「それ、ソフィア様が薬を作ったやつ?」

 「んだ、よく知ってんな。昔は、洞窟で苔育てて材料にしてたんだべ。今は地下室だよ。」

 「地下室?」

 「キノコと一緒に育てるんだ。このへんの特産品。うめぇぞ。今はまだ季節じゃねえんだけどな。」

話しながら、段々畑の間を谷間へと降りてゆく。洞窟は、昔と変わらず村の一番奥にある。その入り口が鉄柵で封鎖されていることは、遠目にもはっきりとわかった。北の海岸と同じだ。立入禁止の旨と、教会の聖十字の印を刻んだプレートが掲げられている。

 その前でロバを降りて、ロビンは、柵に近付いた。中はがらんとして、かつて苔を栽培していた薬草園の跡だけが見えている。ソフィアと両親の墓は奥の方のはずで、暗くて見えない。

 (ここが封鎖されたのは、確か…六十年ほど前)

資料には、そう書いてあった。山砦が教会に変わったあと、ぼとなくして異端信仰の場として封鎖、接収された。

 振り返ると、すぐ側に献花台だけが新しく作られて、雑に丸太に女神の絵を印刷した紙が貼り付けられている。それが、女神像の代わりなのだろう。まだ数日しか経っていなさそうな花束が添えられているところからして、今も、誰かがお参りに来ているようだ。

 「ここは、体の調子悪くなった時にお祈りにくるとこなんさ。病気治りますように、とか、腰が痛いの楽になりますように、とか。」

言いながら、サウルは洞窟の奥に視線を転じる。

 「ソフィア様は、薬草の使い方を教えてくださった方でさ。今でも、ここらの連中みんなの命を助けてくれてる。お祈りするのは、女神様と、『救済』の聖霊だよ。住むには大変なところだからなあ。皆、信心深いんだ。教会の連中は異端だとか言うけど、全然そんなじゃない」

 (…教会の教えでは、”天の父”に祈らないなら異端になる。でも、ここの人たちにその感覚は無いんだ)

サウルの言葉を聞きながら、ロビンは、胸の中で複雑な思いを抱いていた。

 彼の気持ちも分かる。だが、教会の教えも分かる。

 人間として転生したソフィアは、最早女神ではない。彼女に崇敬を捧げることは認められても、神として信仰することは間違った道とされる。


 だが――

 それを言えば、「信仰心」や祈りの心に、果たして、「正しい」「間違い」の区別など、あるのだろうか。


 ふいに、意識の端でぱちん、と何かが弾けた。

 (……?)

振り返ったロビンは、洞窟とは逆方向の谷川沿いに、何か、靄のようなものが漂っていることに気がついた。

 暗い色と、明るい色、そのどちらにも視える。

 (あれは――)

引き寄せられるようにして川辺に向かって歩き出す。そこに、何か小さな小屋のようなものが建てられている。水車小屋の近くだ。一見して、農具でも仕舞う物置小屋のような佇まいだが、違う。

 「あ、おい。どこ行くんだ」

慌てて、サウルが後ろから追いかけてくる。構わず、ロビンは急ぎ足の小屋の正面に回った。

 そして、確信した。

 「祭壇だ」

小屋に取り付けられた小さな扉の中は、せいぜい数人しか入れない狭い空間。だが、その奥には祭壇があり、地元民の使う、輪の付いた形の聖十字が飾られている。

 祭壇の形、そして、そこに刻まれた印には見覚えがあった。

 「あーあ…見られちまったかあ」

後ろでサウルが額に手をやっている。

 「あのさ、内緒にしといてくれよな。洞窟が封鎖される前に、こっそりこれだけ運び出して隠したんだけどさ。これは大事なもんで…」

 「…『救済』の聖霊の祭壇。あの洞窟の中にあったものですよね」

 「え? 何で知ってんだべ」

視ていたからだ。

 ヤルダバオートの記憶の中、この谷に暮らした”ソフィア”の死後、谷の住人たちは、この祭壇で祈りを捧げていた。厳しい山間での暮らしの中での苦しみを和らげるための祈り。日々のささやかな感謝。明日はもっといい日になるようにとの願い。

 ここには、『悪魔』の気配は存在しない。

 在るのは、ただ純粋な祈りの気配だけだ。


 祭壇の上に光がちらついて見えた。

 小屋の中に足を踏み入れた時、目の前に、一瞬、”誰か”の形が見えたような気がした。


 「…おい、なあってば」

一瞬、意識が吸い寄せられていたらしい。我に返った時、サウルが肩を掴んでいた。

 「え?」

 「え、じゃないよ。いきなり固まっちまって、ぴくりともしなくなったからさ。大丈夫かい?」

ぎこちなく頷いて、ロビンは、視線を祭壇のほうに向け直した。

 (今のは――。)

祭壇の周囲にはまだ、微かなきらめきが視えている。何かの切れ端のような、途切れかけた光の帯。所々黒ずんで、今にも消えてしまいそうだ。

 「しばらく、一人にしてもらえないかな」

 「えぇ? けどさ――」

 「『救済』の聖霊はまだ、ここにいる」

ロビンは、荷物を肩から外して祭壇の前に腰を下ろした。

 「あれは多分、”聖地奪還運動”の記憶だった。最初に『悪魔』が現れた時の」

 「何を言って――」

 「確かめたいんだ」

サウルは口をぱくぱくさせながらしばらく迷った後、無理やり自分を納得させるように呟いて、手を引っ込めた。

 「よく、わかんねぇけど…。わかったよ…。」

 「ありがとう」

 「外で待ってっから。お祈りが終わったら言ってくれよな」

背後で扉が閉まる。


 ひとつ呼吸を整えてから、ロビンは、祭殿の前で静かに指を組み合わせて頭を垂れた。

 (教えてください。『悪魔』は何故、生まれたのか。あれは、――あなたそのものではなくて…あなたの一部なんですか?)

 『……。』

苦渋に満ちた気配と、沈黙。

 目の前で、光がゆらいで一つの形を作る。それは、朧げながら人間の姿のように見えた。



* * * * * *



 雨が降っている。暗い色をした天から流れ落ちる、血のような色をした雨。

 灰色の街に、悲鳴のような咆哮が響き渡る。足元に広がる荒野と、散らばる黒焦げの瓦礫と、蟻のようなちっぽけな人間たち。

 『滅びてしまえばいい!』

歓喜の声に包まれながら、咆哮が、天を鳴らす。

 『救いなど、お前たちには不要だ! 全て――消え去ればいい…!』

閃光が空を走り、雷鳴の轟きとともに人影が巨大な異形へと変化していく。歪んだ顔、醜く膨らんだ手足。牙を向き、血走ったような眼で辺りを睥睨するそれは、今とは若干異なるが、『悪魔』に違いない。

 だが、この視点は、その『悪魔』を遠くから眺めている、別の存在のものだ。


 視点がゆらぎ、風景が切り替わる。

 目の前にいるのは、一人の素朴な顔立ちの青年だ。農作業の合間なのか、木陰で人々と熱心に何かを語り合っている。年かさの男性もいれば、若者も、赤ん坊を抱いた女性も、老人もいる。

 「マリク。主教は本当に、こっちの話を聞いてくれるだろうか?」

 「聞かせるんだよ。誠心誠意、こちらの意志を話せば通じるはずさ。だって同じ、”天の父”を創造主とする人間同士じゃないか。通じないはずはないよ」

快活に、若者はそう答える。

 「行こう、人を集めて。聖都へ行って、お願いするんだ。聖地を戻してほしいって。聖霊様のことも、ソフィア様のこともだ。黙っていちゃ始まらないよ。おれたちには、『救済』の聖霊様がついていらっしゃるんだから」

 「おお、そうだよ。アプラサクス様がついている」

 「あいつらは、そんな聖霊は居ないなんて言うけどな」

人々の話し声は、次第に熱を帯びていく。一日、一日と日が過ぎてゆくうちに、若者の周りには人が、賛同者が増えてゆく。


 それが、マリク・アプリースだった。

 島の主教に、自分たちの信仰が異端などではないことを理解させ、聖地――七つ門教会として封鎖されてしまったかつての自分たちの信仰の場を取り戻そうとした運動の中心人物。


 彼は島中を周り、各氏族クランを周って、多くの人々を集めた。

 そして、彼らを率いて聖都へ登ったのだ。一切の暴力を伴わず、武器も持たない行進だった。教会本部を取り囲み、三日三晩に渡り座り込みを続けた結果、司教は交渉のために青年の面会を許可する。

 そして話し合いの結果、主張を概ね認め、彼を本土、法王庁のある都アカモートへと送った。


 ――それが、”聖地奪還運動”の真実だった。

 暴動などは無かった。その時点では、まだ一切の血は流されていなかった。


 だが、法王庁で彼を待ち受けていたものは、冷ややかな視線と、聖霊の代弁者を僭称する者という、あらかじめ用意された罵倒だった。

 公開の場での異端審問はほとんど尋問に近く、教会の教えに通じていない無学な青年では、高度な神学論争についていけるはずもない。場を取り囲む人々からの容赦ない野次に怯え、ただ熱意だけをもって自分たちの主張を繰り返すだけの青年は、嘲笑に晒されていつしか口を閉ざしていく。その残酷な晒し者の場の果てに、審問官たちから下されたのは、死の宣告だった。

 ”人々を惑わした大罪により、火刑に処す”。


 刑場に引き立てられながらもまだ、青年は、奇跡を信じていた。

 祈れば救われるのだと。自分たちは正しいことをしたはずなのだと。それなのに、救われないはずはない。

 けれど――

 奇跡は、起きなかった。

 炎に包まれながら、青年は、喉を降り絞って叫ぶ。

 「天の父よ、聖霊よ、…何故、我らを助けてはくれないのですか…!」

その叫びは誰にも届くことなく、炎の中に消えていった。


 島で希望と期待に満ちて待っていた人々は裏切られた。

 青年の処刑を知った時、人々の怨嗟は頂点に達した。救いを齎せなかった聖霊を詰り、聖霊自身もまた、人々と共鳴するように姿を変えていった。

 『聖霊』から『悪魔』へ。願いを受けて与える慈愛に満ちた存在から、贄を代償に奪う怒りに満ちた存在へ。

 それは紛うこと無く、人間自身が望み、人間自身が生み出したものに違いなかった。



* * * * * *



 目を開けた時、光はもう、目の前で消えかけていた。

 「間に合わなかったか。一言くらい、嫌味を言ってやろうと思ったのだ」

振り返るとそこに、もう一人の自分――ヤルダバオートが立っている。

 「…もう、話せないんですか?」

 「そこにあるのは執着のある場所に染み付いた、ほとんど残骸のようなものだ。自我もろくに残されていない。人間のことなど分からない、特定の人間に思い入れなど持たないと言っていた奴が、真っ先に人間に感化されるとはな。全く、らしくない。」

この感情は苛立ちと、そして哀れみ――いや、悲しみか。

 「どうしてアプラサクスは、人間に憑く気になったんでしょう」

 「その時代の、人間たちの祈りの内容を理解するためだったのだろうな。”異端”などという概念は、我らには存在しない。土地や墓のような形あるものへの執着もだ。いつの時代にも増して自分が喚ばれるにも関わらず、人間の祈りの内容が分からない。それで、しびれを切らしたというところか」

消えかけたきらめきは、何も答えずに悲しげに点滅するばかりだ。ロビンの姿をしたヤルダバオートは、無表情にそれをじっと見下ろしている。

 「最初から期待しなければ、それが絶望に転化することもなかった。”天の父”がこの世界を、人間を愛しているかだと? あれは、そんな存在ではない。無数に生み出された世界、その一つに過ぎないものを特別扱いなどしない。

 分かっていたはずだ。…『救済』は、人間自身の内に無ければ意味が無い。外に求めるようになった時点で、それはもはや、真の意味での救いではない」

感情を吐き捨てるように、誰に言うともなく一気に言葉を口にしたあと、彼は、ふいと顔をそらした。

 「…我ならば、そのくらい言ってやれただろうが…。」

聖廟の地下にいたヤルダバオートは、何一つ気づくことなく時を過ごし、地上で起こることを見逃してしまったのだ。

 それは奇妙なことにも思えたが、実際に起きたことは、人間たちが反乱を起こし、代表者だった一人の人間が異端者として処刑された、たったそれだけのことだったのだ。信仰の変化でもなければ、人の世界を揺るがすような大事件でもない。憑く人間のいなかった当時、人間世界の動きを把握することは不可能だった。

 「あの、一つだけ。アプラサクスの記憶の中に見た風景に、気になることが」

膝を払って立ち上がると、ロビンは、もうひとりの自分の姿を振り返った。

 「『悪魔』が生まれた場所は、アカモートでも、この島の聖都でも無かったんです」

 「何?」

 「どこか荒野の真ん中のような場所。足元に沢山の人がいて…大喜びしていた。マリク・アプリースと共鳴したアプラサクスが、絶望や怒りの感情を受け取って変化したのは間違いないと思う。でも、それを促進させた誰かが居た。――故意に、『聖霊』を『悪魔』に変えた決定的な出来事が何か、あったはず」

 「……。」

ヤルダバオートは、静かに考え込むような仕草をした。

 「島民がマリクの死を知ったのは、アプラサクスより遅かったはずだ。…確かにそうだな。『悪魔』が最初に出現したのは聖都のはずだ。分かった、その件はこちらで調べる」

 「僕も急いで戻ります。収容所の襲撃の件が心配なので」

 「ああ。状況が動くとしたら今夜だ」

 「わかりました」

傍らにあった気配が、溶けるようにして消える。

 ロビンは、祭壇の上に残された微かな光に向かってもう一度、心を込めて短い祈りを捧げると、小屋の扉を開いて外に出た。

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