Ⅱ章―第19話 嵐の前夜

 揺さぶられる感覚で、意識が浮上する。

 目を開けると、ほっとしたようなサウルの顔がそこにあった。

 「呼んでもぜんっぜん起きねえから、ちょっと心配してたんた。昨日、そんな疲れてたんかい?」

 「…かもしれない」

額に手をやりながら、ゆっくりと起き上がる。雨戸の隙間から差し込む光からして、まだ、朝の早い時間のようだ。

 夢は途中で途切れてしまった。時間切れ、ということか。

 あのあと、ヤルダバオートはマークスのところへ向かったようだった。収容所の襲撃、…気になる内容ではあったが、遠く離れたここからではどのみち、出来ることは何もない。

 (こっちはこっちで、やれることをやらないと)

寝台から降りて、上着を着込む。

 「じさまは、まだ目ぇさまさねぇみたいだ。朝飯どうする?」

 「歩きながら食べるよ。早く出発したい」

 「大丈夫かぁ? 無理してぶっ倒れないでくれや。そんじゃ、ここの家の人にお礼言ってくっから、支度終わったら家の前で待っててくれや」

若者は、軽快な足取りでどこかへ消えて行く。ロビンは、荷物を担いで言われたとおり、家の前に出た。

 空気は冷たく、体は重たい。

 一日中、ロバの背に揺られて山を登ってきたのだ。昨日の疲れはまだ残っている。

 だが、ここでゆっくりしているわけにもいかなかった。昨日からずっと、胸の奥がちくちくするような、嫌な予感がするのだ。この先に待っている何か、というよりは、聖都のほうで何かが起きようとしているような予感が。

 (早く…この先にあるものを、確かめないと)

ロビンは、朝もやに包まれた緑の山の向こうを見つめていた。

 ヤルダバオートの記憶で見た山間の谷間。かつて、そこに暮らしていた”ソフィア”が埋葬されたという洞窟までは、あと、少しなのだ。



* * * * * *



 マークスからの知らせを受けた司教キュリロスは、収容所の警戒を厳重にするよう各所に通達していた。聖都では、収容所は

異端審問所の隣に併設されている。つまりは、教会本部の敷地内だ。そう簡単に侵入できるとも思えなかったが、持ちこまれた紙切れに書かれていた地図は、確かに、その収容所の平面図に違いなかった。

 もちろん、一般公開はされていない情報だ。

 だが、セツのように教会内部からも離反者が出ていることが判明している今、漏れた可能性のある経路などいくらでも思いつく。

 「はあ…。まったく、気が重いことだよ。少しは落ち着くかと思ったのに」

 「だがねえ、襲撃を前もって警告してれくる人がいたってことは、喜ぶべきじゃあないかい。多分、向こうにも、うんざりしてる人がいるんだよ。」

ため息をつくサリエラの後ろで、キュリロスがおどけた調子で言った。今日は簡素なシャツと上着のみで、ストラすら着けていない。そうしていると、本当に威厳が隠されて、ただの老聖職者にしか見えない。

 「そうだと良いんですけどねえ。…」

二人が立っているのは、教会本部の周辺を一望できる鐘楼塔の上だ。そしてサリエラの周囲には、何人かの教会職員が立っている。彼らは皆、『認知』の聖霊の契約者たちで、広場の方と、裏通りのほう、それぞれを見下ろしてて、怪しい者がいないかを確認しているのだ。

 警官は巡回しているが、悪魔の気配を見分けられるのは、それが可能な「眼」を持った者だけだ。その「眼」も、ロビンが不在な以上、残る手段は人数を揃えることしか無かった。

 「昼間のうちに下見にでも来て、ボロを出してくれりゃあ良いんだけど。はあ、こんな時に、ロビンがいてくれりゃあね…」

サリエラが小声でぼやく。キュリロスは、ちらと七つ門教会の方に視線をやった。大通りを挟んで二ブロックほどの距離にあるそこは、教会本部の鐘楼塔からは目と鼻の先に見えている。

 「襲撃の日付は、明日の夜だったね」

 「ええ。」

 「――少し、気になることがある。マークス君とも話をしてくるよ。」


 聖廟横の管理人小屋に、マークスを伴ったキュリロスが現れたのは、それからほどなくしてのことだった。

 「こんにちは、司教様。何かご用ですか?」

自然に振る舞うそれが本人ではないことは、もちろん、気づいている。ロビンがヴィクターとともに西へ向かったことは報告を受けているのだ。だが、ここへ来れば何時でも”偽物”のロビンが居ることは、前回の訪問で既に知っていた。

 そして、それを知る三人は、何食わぬ顔で本物との会話を演じていた。

 「いやあ、例の収容所の襲撃のことさ。ここもまた襲われるかと思って心配でねえ。本当は何も起きないほうがいいんだけど、そうもいかないだろう?」

 「はい。僕もそう思います」

 「どう思うかね? 連中は、本部を襲撃するのにまた、『悪魔』を出してくると思うかい」

老人は、にこやかに尋ねる。視線が交わったその一瞬で、相手は、何を尋ねられているかを理解した。

 「勝ち目がないものは、出してこないんじゃないですか。」

 「ほう?」

 「教会は、七つ門教会の目の前です。前回と同じように殴り飛ばされる危険性は高いと警戒してくるんじゃないかな」

つまり、”あの程度なら勝てる”――という、本人からの宣言だ。マークスは、司教の後ろで黙ったまま、渋い顔をしている。

 「逆に聞きますが、前回出てきたあれは、教会の聖霊なら退けられますか?」

 「『守護』の聖霊なら防げただろう。初回と同じだ。だからこそ、連中は二度目の時、最初にマークス君を狙ったんだろうね。」

言いながら、傍らの司祭を見やる。

 「今はマークス君が復帰している。防御面では問題ない。そうだね?」

 「はい」

 「ということは、攻撃面の問題が?」

 「、攻撃向きの聖霊は『裁き』の聖霊だけだからねぇ」

キュリロスは、にこやかな表情を崩さないまま、目の前の少年の姿をしたものの動向を見やった。彼は、しばらく考え込むような素振りをしたあと、答えた。

 「…二十三人いますね。足りませんか」

その言葉は、いま教会本部に常駐している異端審問官の正確な数を言い当てていた。

 「数というより、質の問題だね。喚び出しに失敗することのある者もいれば、顕現させられる強さにムラがある者も多い。人間ごときがが天上の力を模造する以上は、どうしてもそうなってしまう。強いて言うなら、いちばん扱いに長けているのはヴィクター君なんだ。他の者は似たりよったり。」

 「…なるほど。」

確かに、あの男なら、”喚び出しに失敗”などという間抜けな事態は絶対に起こさないだろう。そして、誰よりも「正しさ」の意味を理解し、重んじている彼ならば、『裁き』の聖霊との相性は良さそうだった。

 「だとしても、ヴィクターさんが不在だってことは知られてません。『悪魔』を使って教会本部を襲うとは思えないですね。…それよりは、もっと対抗しづらい手段を使ってくるはず。たとえば、人間の数を揃える、とか」

 「ほう? だが、前回もバリケードと警官隊に阻まれて、中までは入って来られなかったはずだ。また同じ規模の暴動を起こすには、今回はちょいと準備が足りなさすぎると思うがね」

 「気になっていることがあるんです」

そう言ったあと、一呼吸おいて、彼は口調を変えた。

 「『悪魔』の気配は、聖都の近くから綺麗に一掃されている。教会本部にまとまっている大量の紛い物の聖霊の気配。付近に”秩序”の聖霊の気配が一つ。おそらく、下見に来た枢機卿の遣いとやらのものだろう。それ以外、感知できる範囲では北北西と南東、かなり距離がある二箇所に纏まった気配がある」

ぴく、とキュリロスの表情が動いた。

 「――近いのは、南東のほうですかな」

 「ああ」

 「司教、その二箇所はもしや」

マークスも、何を意味しているかに気づいたようだった。

 「そうだ。郊外にある、異端者の厚生施設」

 「教会本部の収容所を襲うというのは、陽動だったのでしょうか」

 「いや。同時に三箇所襲うつもりじゃないか? 最初に二箇所、そこで解放した連中を使って本命の一箇所」

ロビンの姿をしたものは、もはや本人とは思えない表情で笑っている。

 「異端者の中に、『悪魔』と共鳴する者はどれだけいるんだろうな。まとめて”媒介”をバラ蒔けば、陽動には十分すぎる」

 「な…」

 「すぐにその二箇所の守りも固めさせる。間に合うと良いが――」

キュリロスとマークスは、大急ぎで去ってゆく。

 (…嫌な予感がするな)

ヤルダバオートは、あまりにも静かすぎる街の気配と、今までに感じたことのない予感に胸のざめわきを覚えていた。


 少し前までは、雑音のように街に『悪魔』の気配がいくつも紛れていた。それが今は、妙に静かで、残り香のようなものですら感じられない。まるで津波の前に、水が一気に引いていったあとのように。

 (ロビン、急いだほうが良さそうだぞ。――この凪は、そう長くは続かない)

温い春先の風が頬を撫でる。薄い雲に覆われた空からは、弱い光しか降りてこられない。

 人間のことは人間たちに任せるしかない。とはいえ、起きることはおそらく、人間の暴動だけでは無いはずだ。

 百年以上前に火炙りにされたという”救世主”と、『救済』の聖霊の変容。人を焼いて捧げることによって暴力を振るう『悪魔』。


 きっとこの先は、前回にも増して激しい嵐になる。

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