Ⅰ章―第3話 聖都と異端審問官(3)
夕食はいつも通り、一時間半ほどで終わった。
子供たちはめいめい自分たちの食器を片付け終えると、いつもどおり大騒ぎをしながら後片付けに入った。それが終われば、就寝の準備だ。年下の子どもたちは年長者に手伝ってもらって体を拭き、夜着に着替えて床に入る。十歳以上の子どもたちはもう少し就寝時間が遅く、その間は部屋で自由時間だ。
ロビンも年長組だったから、その自由時間を使う権利はある。
(今日は聖堂へ行ってみようかな…。)
ふと、そう思った。
この”七つ門”教会の聖堂は、王国がこの島に入植した際に一番最初に建てられた教会関連の建物だ。つまり二百年以上の歴史を持つ遺跡でもあり、観光名所の一つになっている。昼間は信徒や観光客でごった返しているが、表通りに面した門が閉ざされる夜の間は誰もおらず、教会内に住んでいる人だけが独占できる時間だ。
静かで落ち着く、ロビンの好きな時間帯だった。
聖堂の中に、微かな香が漂っている。さっきまでマークス司祭と除災たちが、日課の夕べの祈りをしていたからだ。
信徒席の真ん中に立って見上げると、丸く膨らんだ天井のあたりに、女神降臨の光を意味する星型の印がひとつ。そこから流れ落ちるように緩い曲線を描きながら、天井を支える七本の柱が繋がっている。七本の柱にはそれぞれ、対応するように、小さな嵌め殺しの扉がとりつけられている。
女神が生み出した七座の聖霊が、天から地上へと送り出された際に開かれた「門」。教えが最初に地上に齎された時に出現したとされる、遠い昔の伝承の風景を現したものだ。教会の名である「七つ門」も、その伝承を由来とする。
正直に言えば、自分には信仰心は無い、とロビンは思っている。
知識として覚えていることと、信じられるかどうかは別物だ。「天の父」や女神の存在も、聖霊たちの奇跡も、単にそういうものが存在すると知っているに過ぎない。
だが、美しいものを美しいと感じることは、信仰心の有無とは別だ。聖堂を彩る彫刻や意匠は何時間でも眺めていられたし、こんな優れた建造物を世に残した建築家たちの仕事ぶりには驚嘆する。
ロビンは、この聖堂が好きだった。七つの扉を飾るそれぞれ違った意匠の意味など覚えていなくとも、ここにいると気持ちが落ち着く。誰もしない夜の時間、思う存分にこの場所の空気を楽しめるのは、この教会に暮らすことの特権の一つでもあった。
柱のあたりの彫刻を眺めながら信徒席の半ばあたりまで歩いた時、彼はふと、祭壇の前で床に膝まづいて指を組み合わせ、熱心に祈りを捧げている少年がいることに気づいた。
「あれ、ジョシュ?」
名を呼ばれて、少年が顔を上げる。
それは養護院の仲間の一人で、年長組のジョシュだった。ロビンとほとんど年は変わらないが、頼りない体格のせいで実際より幼く見える。彼は神学校への進学を希望していて、冬至祭が終われば養護院を出ることになっていた。
「ロビンもお祈り…ってわけじゃあないよね。そういうガラじゃないし」
「ひどいな。まあ事実だけど」
ロビンは手近な席に腰を下ろし、天井を見上げた。
「僕はいつもの美術鑑賞。ここから見る天井が好きだから」
「ああ、そうだね。夜は静かでいい。ゆっくり眺めていられる」
誰も居ない静かな聖堂には、祭壇前と入り口に灯された小さな電球の光だけが揺らぎ、少年たちの声は、落としていてさえ必要以上に静寂の中に響き渡る。
「もうすぐ、学校だっけ?」
「うん。来月のはじめには聖都の神学校だ。大陸からも留学希望が多いっていうのに、地元民の特権で一枠ねじ込んでもらえたんだ。良いだろ」
「…いいの? それは。」
「そりゃそうだよ。聖都だもん。この街で学べれば箔が付くんだよ」
「よく分からないな。で? ジョシュは、神父になるの?」
「それはまだ分からないよ。神父って、赴任先の教会がないとなれないしさ。神学校の職員とか、それこそロビンみたいな異端審問官だってアリさ」
「別に異端審問官じゃない、ただの手伝いだよ。てか、僕にそういう職業は無理だ。教会で働くなんて、とても――」
言葉が詰まった。
それはもう、将来の道を決めるために何度も考え抜いて、否定し続けてきた答えの一つだった。
教会の求める意味での信仰心は、自分には持つことが出来ない。教義を理解することすら出来ていない。もしその道を選んだとしても、早晩破綻するに違いない、と。
「――ジョシュ、ほんとに聖職者でいいのか? 一生、禁欲で過ごさなきゃならないんだろ」
そう問いかけると、ジョシュは、痩せた喉を反らしてかすれた声で笑った。
「まあ、元々禁欲してるようなもんだよ。体が弱いから外で労働も出来ないし、遠出も無理。アレルギーが多くて食べ物も制限されてる。なら、戒律で縛られてたほうが楽さ。出来ないんじゃなく、禁じられてるからやらないだけだ、って自分に言い訳できる」
「それ…、動機が不純すぎないか? てか、そんなんで聖職目指せるんだ」
「だと自分でも思う。だからこうして、先に女神様に懺悔をしてるんだ。」
歯を見せながらニヒヒっといたずらっぽく笑って、ジュシュはふいに真面目な顔に戻った。
「――”荒れ果てていた地上に、女神の慈悲によって秩序が生まれた。畜生同然に生きていた人間は動物の中から抜きん出て知恵を与えられ、その
見上げた視線の先には、先程までロビンが見げていた天井画がある。
「だけど、この島の住民たちは女神の与えた『知恵』をいつの間にか取り違え、天の父への敬意を忘れ、道を踏み外してしまった。七座の聖霊たち以外のものを聖霊の座に連ね、それらを信奉するようになった。教会では、それらを『悪魔』と呼んでいる。…マークス先生は、そう言ってたっけ。ねえロビン、『悪魔』って、どんなもの?」
「うーん…よく分からない。何で急にそんなこと聞くんだ?」
「だってさ、ロビンは『悪魔』の痕跡が視えるって話じゃないか。視えてるなら分からないのかと思って」
驚いて、ロビンは、目の前の痩せた少年の灰色の目を見つめた。
養護院の中では、ロビンの経歴や能力は秘匿されているわけではない。彼自身、仲間にまで隠そうとはしていない。
ただ、これほど面と向かって、はっきりと尋ねられたことは、これまでほとんど無かったはずだ。
一呼吸おいてから、彼はゆっくりと、慎重に言葉を選んで返答した。
「視えるのは、嫌な感じのするもやもやだけだ。実体があるわけじゃないし、何でそんなものがいるのかも分からない」
「そうなのか。…うーん。『悪魔』って、この島にしかいないって話だよね? 普通、逆じゃないのかな。ここが女神が降臨した聖なる島なら、ここにだけ悪魔がいないほうが正しい気がする」
「それは…、まあ、そうかもしれないけどさ。マークス先生に聞いてみたら?」
「聞いたよ。そうしたら、ものすごく怖い顔をされて、それはあんまり人に聞くものではないし、興味を持ってもいけないんだ、って。」
「ああ、確かに、ヘタに興味持ったら異端審問送りになりそうだ」
「怖いこと言わないでくれよ。そういうんじゃないんだ、ただ、この島の人たちは、どうして『悪魔』を崇めたりしたんだろうって。だって、望みを叶える代わりに命とか魂とか奪っていく恐ろしい存在なんだろ? 普通、そんなもの近づきたいと思わないんじゃないか」
「……。」
聞きながら、ロビンは黙っていた。
「悪魔の囁きに耳を貸すと、取り返しの付かないことになる。」
それは、子供たちを脅すためでもある、よくあるお伽噺だ。たとえば、こんな調子の。
『昔、あるところに、自分のそばかすが嫌いな女の子がいました。女の子は、同じ学校に通う美しい容姿の、そばかす一つない白い肌の女の子に憧れていました。あの子みたいになりたい。あの子みたいなきれいな肌に。――悪魔が囁きます。その願いを叶てやろう。そうして美しい肌を手に入れた女の子でしたが、喜び勇んで鏡を覗き込んだ彼女の自慢だった艷やかな黒髪は、老婆のように真っ白になっていたのでした。』
悪魔は人間の欲望に付け込んで、何かを与える代わりに大事な別の何かを奪ってゆくものだとされている。だが、欲望さえ抱かなければ、悪魔に惑わされることはない。
禁欲を是とする教会にとってはまさに、最優先で弾圧すべき危険な存在ではあった。
なのに、かつてこの島の人々はそれを崇めていた――今も一部で崇拝され続けているという。――何故?
ジョシュの疑問はもっともなことだった。そして、そうした疑いを持つこと、論理的な答えを求めること自体、まさに女神が獣に齎した「知恵」というものの働きそのものなのだった。
(本当に、どうしてなんだろうな)
ロビン自身、疑問に思わなかったわけではない。ただ、教義上の疑問について尋ねたときのマークスの困ったような微笑みと、上手く濁した大人の回答から、いつしか、そうした疑問は口にしてはいけないものだと悟るようになっていった。
「そろそろ、就寝時間じゃないかな」
途切れた会話の隙を突くようにロビンは言って、席を立ち上がり、大きく伸びをした。
「それじゃ、僕は先に戻ってるよ。おやすみ。」
「…うん、おやすみ」
ジョシュを聖堂に残して外に出ると、目の前に白いものがちらついた。
ふと見上げた空はいつの間にか曇天へと変わり、重く垂れ込めた雲の合間から、小さな雪花が街中に散り始めていた。
(どおりで寒いと思ったら。冬至祭までには積もるかな…。)
吐く息が白い。
外套の襟をたてながら大急ぎで養護院の宿坊に戻ると、談話室から女の子たちの賑やかな声が漏れてくる。
「明日の朝、積もってるといいなあ」
「えー、私、雪って苦手」
「朝、寒そうだよねー」
「こら。まだ起きているの? もうそろそろ消灯時間だから、部屋へ戻りなさい」
ジーナの声だ。
見つかって叱られないうちにと、ロビンもいちばん端にある自室に滑り込むと、外套の雪を落として床に入った。
『この島の人たちは、どうして『悪魔』を崇めたりしたんだろう』
明かりを消して部屋に闇が落ちた瞬間、ふいに、さっきのジョシュの言葉が蘇ってくる。
(悪魔、か…)
ジョシュには言わなかったが、実は、それらしきものを見たことが一度だけ、あった。
ただし、それが”悪魔”と呼ぶべき
記憶にある、最初の、そしてマークスと出会う前の唯一の風景。
洞窟の中で行われていた儀式の風景。記憶が途切れる、ほんの少し前――
眼の前で、ふいに篝火の炎が大きく立ち上がった。ゆっくりと、まるで生き物のように。
恐れて泣き出す子供もいた。逃げ出そうとする子供も。けれどロビンは、ぽかんとしたまま動けず、ただ、じっと目を凝らしてその生き物を見ようとした。
それは確かに、何か巨大な生き物だったのだ。
炎に照らされた影のような巨体。波打つ髪と、大きな翼――
振り返ったそれと目があった瞬間、意識の中で何かが弾けとんだ。小さく声を上げてのけぞって、たぶん、座らされていた台座から落ちたか、気絶してしまったのだと思う。
気がついたときには、目の前に知らない大人たちがいた。その一人がマークスで、今の「ロビン」の記憶は、そこから始まっている。
あの時に見たもののことは、今まで、誰にも話したことはない。
あのお祭りのような風景が本当に、悪魔崇拝者の儀式のようなものだったなら、篝火の中に視た異形の生き物は、まさに悪魔だったはずなのだ。
けれど、恐ろしいとは感じなかった。それどころか、はっきりと覚えている。
――あのときの自分はなぜか、その姿を見て「美しい」という思いを抱いてしまったのだった。
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