Ⅰ章―第9話 冬至祭の悪夢(3)

 厳重警戒の中、あっという間に冬至祭の日はやって来た。


 特別なお祈りは夕方、日暮れ前から始まる。養護員の子どもたちは、教会で働く他の大人たちとともに、祭壇を見下ろせる二階席に集められていた。ロビンも年少組の子どもたちを誘導して、いつもどおり二階の奥の席に就いた。

 上から見下ろすだけでも、一階の席に人が座りきれないほど集まっているのが分かる。何十人もいる警官たちのほとんどは壁際に押しやられ、それでも、異常を見逃すまいと、あちこちに目を配っている。

 「すいませんが、こちらは教会職員の席でして…」

階段のほうから、何か揉めているような声が聞こえてくる。

 「代表者の方の許可は取りました。これも信徒の皆様の安全のためですから、失礼します」

押し切るように二階席へと上がってきたのは、十名ほどの警官たちだ。手にオペラグラスや捕獲棒を持ち、ものものしい雰囲気だ。

 「まあ、いやだ。無粋だったらありゃしない。」

わざと聞こえるように毒づくジーナの声が、端のほうから聞こえてくる。子どもたちは興味津々で、小声でささやきあったり、指さしてくすくす笑ったりしている。警官たちは困り顔だ。


 だが、そんな騒動も、定刻通りに奏でられはじめた荘厳なパイプオルガンの音で掻き消された。

 夕べの祈りの始まりだ。この祈りは、冬至祭のいわれにちなんで、去り行く女神を見送るための別離の歌と、聖典の一部を要約した司祭の説法、そして女神が再び戻ってくることを願う祈りを参列者全員で行う、という流れ内容になっている。

 聖歌隊が壇上に姿を表した。この日のためにしつらえた真っ白な衣装に、聖霊を模した羽飾りをつけたマントをまとっている。

 美しい歌声。これだけでも、聖堂に足を運んだ意味はある。観光客も、巡礼者たちもみな、うっとりと聞き惚れている。歌に集中していないのは、職務に忙しい警官たちと、歌にはあまり興味のないロビンのような不届き者くらいだ。

 (まあ、毎年聞いてるしなこれ。たまには曲目変えればいいのに)

代わり映えのしない別離の歌は、どこか哀愁を帯びた響きを持っていて、聞いているだけで憂鬱になってくる。お祭り自体は明るく楽しいものなのに、歌だけは大昔のまま、女神が去った悲しみと不安を奏でている。どうせなら歌のほうも、もう少し楽しい曲調に変えればいい。そんなことを考えていた。

 「うー…」

その時、隣にいた年少組の子供が、もそもそと足を動かし始めた。

 「あれ、もしかして」

 「おしっこー…」

言いながらぴょんと席から立ち上がり、無造作に、その場でズボンを下ろそうとする。 

 「わ、ダメだってサイモン! トイレはここじゃない。ちょっと我慢してて」

 「だってー…」

ロビンは慌てて幼い少年を抱えあげると、ジーナのほうに目配せして、階段を塞いでいる警官のほうに駆け寄った。

 「すいません、この子がトイレに行きたいって。ちょっと通してください」

警官たちは苦笑しながら道を譲る。ロビンは、少年を抱えたまま、大急ぎで聖堂の出口へと向かう。

 だが、一階はもう人でごった返していて、普段は使える裏口も、特別な儀式のために塞がれている。結局、表通りに面した入り口から出るのがやっとだった。

 お祭りのための仮設トイレは中庭のほうにあるはずだが、そこまで人混みをかき分けている時間はない。

 「サイモン、そこの茂みでしよう。本当はだめだけど、あとで掃除しておくから」

 「漏れるー…」

 「ちょっと待って」

茂みの中に少年を座らせるのと、暖かい液体が地面に溢れるのはほぼ同時。間一髪だ。

 冷や汗を拭いながら、ロビンは、その時になってようやく、自分たちが何処にいるのかに気がついた。

 

 祈りの歌は、はるか遠くから聞こえてくるようだった。

 そこは、正門と聖堂の間にある前庭の端だった。

 開かれた正門の向こうに、きらびやかに飾り付けられた大通りが見えている。

 住み慣れた教会のはずなのに、初めて見る風景だ。夜間に門が開いているのは、特別な日だけなのだ。

 聖堂へと続く石畳の参道には、人がひっきりなしに流れ込んでくる。見習い聖職者たちがその流れを誘導し、聖堂の周りは人に溢れかえっている。

 高い壁に囲まれた教会の敷地が、この時だけは外の世界と一つに繋がり、聖と俗の境界を、曖昧なものに変えていた。


 「…ちゃん、ロビン兄ちゃん」

服の裾を引っ張られて、彼は、慌てて我に返った。

 足元を見下ろすと幼い少年は、ズボンを引っ張り上げながら、ばつが悪そうにはにかんでいる。

 そうだ。今は、お祭りの雰囲気に呑まれている場合ではなかった。

 「もう終わった? 大丈夫か」

 「うん」

 「二回目はないぞ。ちゃんと全部出したな?」

 「出したよー」

 「じゃあ、戻ろうか」

サイモンを抱き上げて歩きだそうとした時だ。

 「あっれー? キミ、命の恩人クンじゃん?」

聞き覚えのある声がロビンの足を止めた。

 振り返ると、派手なコートで着飾った赤毛の少女が一人、きょとんとした顔で立っている。

 「えーっと、ライスナー…さん?」

それは、客間で執事とともにまみえた、あの”悪魔憑き”のお騒がせお嬢様だった。

 「そーそー、アリステアだよ~。ついでだからさぁ、冬至祭のお祈りとか出てみよっかと思ってー。キミ、教会の人でしょー? こんなとこに居てもいいの~?」

 「いや、良くはないんですけど、養護院の子がおトイレ行きたいっていうんで出てきました。もう戻ります」

 「あー身寄りのない子たちの福祉のアレね。へえー子守りとかもやってるんだ。聖職者って大変ー」

 「いや、僕はそもそも聖職者とかじゃなくって…。って、話してる場合じゃないですね。」

聖堂のほうから流れてくる歌は、そろそろ終わりに近づいている。これから、マークス司祭の説法があり、そのあと、皆でお祈りの時間になる。説法はいつもの聖典学の内容と対して変わらないからいいとして、お祈りの間くらいは席にいなければ、ばつが悪い。

 「すいません。それでは僕は、これで」

 「んー、頑張って~」

少女は、笑顔でひらひらと手を降っている。

 (あの子、教会なんて来るんだ…。てか、今日は一人だったな。執事さんは外で待ってるのかな?)

二階へ戻ろうと、人混みを押し分けるのに四苦八苦しながら、ロビンはそんなことを思っていた。


 その足を止めさせたのは、不意打ちのように背後から襲いかかってきた、ぞくりとするような違和感。

 振り返ったその瞬間、まさにその視線の先で――

 空が、紅く燃え上がったのだった。


 ドォン!


 遅れて届いた音と、微かな衝撃。周囲にいた人々が一斉に振り返り、空を見上げて息を呑む。広場の方だ。重く垂れ込めた冬の低い雲に、何かが燃え上がるおぞましい輝きが赤々と反射している。

 「一体、何だ?」

 「火事だ! でかいぞ」

 「まさか、そんな…こんな日に?」

口々にどよめきが、動揺が広がってゆく。けれどロビンが見ていたのは、火事ではなかった。

 「…ロビン兄ちゃん?」

足元で幼い少年が呼ぶのにも気づかずに、彼は呆然と、血の色に染まる空の下にゆっくりと立ち上がる暗い色の巨体を見つめていた。

 「嘘だろ…。」

黒々とした帯を体に纏わせた異形。それは、普段の仕事で探している、ゆらめく影のような気配とは桁違いの存在感を持っていた。

 ほぼ同時に、周囲にいた人々も「それ」の存在に気づき始めた。

 「おい、…あれは何だ」

 「ひっ」

この世に在るはずのないもの。あったとしても、目に視えるはずのないもの。だが今、それは確かにそこに「存在する」。存在することを全力で主張している。そして、何かが出現することは数日前、ご丁寧にも”予告”されていたのだ。

 「…あれ、は」

混乱したまま固まっている民衆の中から、ついに、その呟きが漏れた。

 「『悪魔』…なのか…?」

予告と目の前の信じられない状況が結びついた、その瞬間、民衆の恐怖が爆発した。

 「い、嫌だ! 殺される」

 「うわあー!」

 「助けて、助けて…女神様!」

もみくちゃにされ、押しやられ、ロビンは幼い少年を腕に抱いたままで参道の脇の茂みの中に倒れ込む。

 「怖いよロビン兄ちゃん…マークスせんせっ…うわあああん!」

声を上げて泣き出した少年を両腕で抱えながら、ロビンは、なんとか宥めようと声をかける。

 「サイモン、大丈夫。泣くな、何も怖くない。こっちには来ないはず…」

しかし、その言葉はおしまいまで言うことが出来なかった。

 『悪魔』の影がゆっくりと、こちらに向かって大通りを進んでくるのが見えたからだ。

 既に教会の参道は誘導も意味をなさない大混乱の状態で、通りへ駆け出そうとする人々と、聖堂の奥へ逃げ込もうとする人の押し合いで身動きが取れなくなっていた。大通りも似たようなもので、恐慌を来たした人々はもはや倒れた人さえ踏みつけにして、我先にと広場から反対方向へと逃げていく。

 「こ、こっちに来るぞ!」

 「逃げろー!」

空気が震えている。


 近づいてくるにつれ、暗い影は少しずつ、はっきりとした実体を取りつつあった。

 焚き火のように輝くぎょろりとした目は八つもあり、絶え間なく動きながらそれぞれが別の方向を見ている。腕も八本。その腕が、足元にいる逃げ遅れた人間を無差別に掴み取っては、振り回してどこかへぽいと捨てている。そしてぱっくりと裂けた口元には、獣のような牙がたくさん並んでいるのだった。

 見れば見るほど気味の悪い造形物で、――いや、そもそも、ちゃんと見ようとしている人間のほうが少ないのだが、――子供の落書きした「最高に怖いお化け」を立体化した存在のようにしか思えなかった。

 怖いといえば、怖い。だがそれ以上に、見ていられないほど醜い。

 (――これが、『悪魔』…?)

茂みの中に座り込んだまま、ロビンは、ただ、その姿を見上げていることしか出来なかった。少し前に牧場の端で見たものより色が濃い。そのせいか、姿もはっきりしている。

 (でも、どうして皆にも視えて――あ)

 はっとして、ロビンは思い出す。


 ”実体化”。


 確か以前、ヴィクターは、そんな言葉を口にしていた。

 (…まさか、実体化って、そのままの意味…なのか?)

 そうだ。これは悪魔の痕跡ではなく「そのもの」なのだ。実体化すれば、誰にでも視えるようになる。だからヴィクターたち異端審問官は、そうなる前に芽を摘もうと、あんなに必死に痕跡を探していたのか。


 ようやく少し理解出来た気がしたが、思考出来たのはそこまでだった。

 ロビンの目の前に、少女が飛び込んできた。

 「うわあああ、死ぬ―! むーりー!」

アリステアだ。さっきまでお洒落に結い上げていた髪型は、押し合いへしあいする人々に突き飛ばされてぐちゃぐちゃに乱れ、真新しいコートもあちこち泥に汚れている。

 「ライスナーさん、まだ居たんですか」

 「居るよぉ~! てか、どっち行けばいいの? 教会とか来るの初めてなんだよー! 道がわかんないぃぃい」

少女は涙目で、声も上ずっている。

 「死にたくない~」

 「うあああん」

腕の中でサイモンも、同調して再び泣き声を上げはじめる。

 「あー…えっと、二人とも落ち着いて。てか、ここは”七つ門教会”ですよ? 女神様の降臨したとされる神聖な場所ってことになってるんだし、あれが『悪魔』だとしたら、ここ以上に安全なところなんて無いですよ、多分。」

顔を上げた時、すぐ目の前に、ぎょろりとした八つの目があった。

 「うわー、来たあー! もうだめえええ」

 「あー!」

 「…いや、多分、そのはずなんだけど。ええー…」

泣き喚く二人を背中に庇うようにしながら、ロビンは、半信半疑の目で『悪魔』を見上げた。別に、威嚇しようと思っていたわけではない。ただ純粋に、目の前で起きていることが不思議だったのだ。

 特別に信仰心があるわけでもない。本心から、ここが神聖な場所だと信じていたわけでもない。

 ただ、『悪魔』というからには、女神や本物の聖霊の威光には敵わないはずだと思っていた。現にヴィクターは、『聖霊』を使って悪魔を一撃で倒していたのだから。

 (本当に、どうなってるんだ? そもそも悪魔って、教会からは逃げるものなんじゃ…?)

ロビンの戸惑いなど意に介した様子もなく、『悪魔』は、まるで嘲るように口元を歪め、腕の一本を振り上げた。

 そして――振り下ろされる。


 狂乱の悲鳴の中、信じられないことが起きたのは、その直後だった。

 悪魔の腕が、聖堂の真正面でぴたりと止まったのだ。うっすらとした白い輝き。聖堂から湧き出した光のカーテンが、聖域を守護するように幾重にも教会を包み込んでゆく。

 「ああ…やっぱり」

奇跡を信じていたわけではないが、

 光の中、真っ白な翼を持つ何かが天に浮かんでいた。『悪魔』は顔を歪め、抗うように腕を伸ばすが、それは届かない。

 カーテンのような波打つ輝きが『悪魔』の体を分断し、あっという間に暗い色の帯へと分解する。そしてその帯も、ほんの僅かな間に霧散して、跡形もなく消え失せてしまった。


 ほっとして、ロビンは背中のほうを振り返る。

 「もう、大丈夫だよ」

 「……う、うん。」

サイモンも、アリステアも表情を硬直させたまま、ほとんど声も出せず、ぎこちなく頷くのがやっとだ。しかも地面にへたり込んで、腰を抜かしているようだった。

 周囲を見回すと、他の人々も同じようなものだった。それにもう、お祭りという雰囲気ではない。

 片方だけの靴やマフラーなどの小物が散乱した通り。大通りのほうから響くサイレンと、相変わらず天を焦がす不気味な赤い炎。風に乗って流れる焼け焦げた匂い。


 ふいに、射るような視線を感じた。

 門の向こうからだ。振り返ると、大通りに面した門の前に仁王立ちになった細身の女性が一人、恐ろしい顔をしてロビンを睨みつけていた。巡礼だろうか、まるで聖職者のような灰色の長い上着を身に着けて、目深に帽子を被っていたが、性別だけは分かった。

 視線が合ったのは、ほんの一瞬のこと。

 ふい、と顔を逸らすと、その女性は、いまだ興奮冷めやらぬ大通りの喧騒の奥へ吸い込まれるように消えていった。

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